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2012年11月14日 (水)

日本初の兵糧攻め~後三年の役・金沢柵の攻防

 

寛治元年(1087年)11月14日、金沢柵が炎上し、後三年の役が終結しました。

・・・・・・・・・

陸奥守(むつのかみ)に任じられた父・源頼義(みなもとのよりよし)を助け、ともに安倍一族を倒した前九年の役(9月17日参照>>)から20年・・・その父も亡くなり、当時、若武者だった源義家(みのもとのよしいえ)も、もはや40歳を越えた頃、奥州に再び戦乱の兆しが見えはじめます。

亡き安倍一族の遺領を支配していたのは、先の前九年の役で、義家らとともに戦った清原武則(たけのり)の息子の武貞(たけさだ)の子供たちなのですが、その清原一族の間で内紛が起こっていたのです。

当時の清原氏の当主は武則の長男であった清原真衡(きよはらのさねひら)・・・

ところが、その真衡が、一族の長老である吉彦秀武(きみこのひでたけ)と不仲になり、永保三年(1083年)、秀武を攻めるべく挙兵するのですが、その事を知った秀武は、以前から真衡と仲が悪かった、彼の弟=2人を仲間に引き入れ、背後から真衡を攻めさせたのです。

その2人の弟というのが次男の清衡(きよひら)と三男の家衡(いえひら)なのですが・・・実は、兄の真衡が父と先妻との間にできた子供で、清衡はその後に父が再婚した後妻の連れ子家衡は父と後妻の間に生まれた子と、三者三様のややこしい関係・・・

そんな中、この奥州のきな臭さを心配した都の白河天皇や関白・藤原師真(ふじわらのもろざね)らから鎮守府将軍に任命されたのが、かの源義家・・・いち早く義家に接近する真衡は、あの手この手のおもてなしで義家の機嫌をとり、見事、仲間に引き入れ、「強い味方を得た!」とばかりに清衡&家衡を蹴散らし、名実ともに長男として清原氏の嫡宗(てきそう・ちゃくそう=正統を受け継ぐ本家)を獲得するのです。

しかし、それもつかの間・・・その後まもなく、真衡は病死してしまいます

真衡の死で、宙に浮いた宗家の領地は、国主である義家に委ねられる事になり、義家の采配で、清衡と家衡に平等に分配される事になるのですが、これに不満爆発なのが家衡・・・

なんせ、兄とは言え清衡は、後妻の連れ子・・・つまり、清原家の血は流れていないわけで、
「なんで、そんなヤツと半分っこやねん!」
とばかりに、清衡の留守中に家を焼き、一族を殺してしまうのです。

当然、その行動に怒り爆発の清衡は、合戦を決意し、義家に助けを求め・・・と、ここに後三年の役が始まるわけです。

義家の参戦を知った家衡は、出羽沼柵(秋田県横手市)で防備を固めます。

応徳三年(1086年)、自ら1000の軍勢を率いて出陣して沼柵を囲む義家ですが、なかなかに苦戦・・・しかも、その間に冬が訪れてしまい、関東出身者が多く、寒さに不慣れな義家の軍には、戦いではなく、寒さによる死者が相次ぐようになります。

さらに、そのうち兵糧も尽きてしまい、飢えと寒さで、ますます兵士たちは弱って行く一方・・・やむなく、義家は撤退する事にします。

この状況を伝え聞いた京の都では、義家に援軍を派遣する事も検討されましたが、結局は、その案はボツ・・・そう、この時点で、朝廷は、義家の今回の戦いが朝敵を討伐する公の合戦ではないと判断したのです。

一方、この間に、沼柵より、もっと強固な金沢柵(かなざわのさく=秋田県横手市)に本拠を移転した家衡・・・さらに、ここに来て、その家衡の軍に叔父の清原武衡(たけひら)の軍が加わりました。

寛治元年(1087年)9月・・・今度は、数万騎とい大軍を率いて多賀城を出立した義家・・・しかも、今度は、兄の苦戦を聞きつけて駆けつけてくれた弟=源義光(よしみつ)も加わって、軍の士気もあがります。

しかし、敵もさる者・・・もともと金沢柵は、横手市街の北方に位置する山腹に築かれた山城で、平地との高低差は100mほどあるため、敵の動きは手に取るようにわかるうえ、今回は、前回の沼柵以上に、堅固な防備を固めていました。

案の定・・・またしても攻めあぐねる義家・・・

一進一退の攻防の中、勝敗を急いで強気の城攻めをすれば、その損害は大きくなるばかり・・・かと言って、あまりの持久戦に及べば、兵の士気は下がっていくばかり・・・

その時、清原一族の長老・吉彦秀武が進言します。
「無益な力攻めは、ここらで終わりにして、兵糧攻めといきましょうや」

兵糧攻めとは、ご存じの通り、敵の食糧補給路を断って孤立させ、兵糧を失わせて勝つ城攻めの方法ですが、実は、これが、日本の歴史上、初の兵糧攻め・・・

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燃える金沢柵「後三年合戦絵詞」より(東京国立博物館蔵)

かくして寛治元年(1087年)11月14日兵糧の尽きた金沢柵から、いきなり火の手が上がり、建物が火の海に包まれます。

乱入する義家軍と、防御する家衡軍が入り乱れる中、この混乱に乗じて農民姿に扮装して逃げようとした家衡が発見され、義家軍の兵士によって討たれました。

続いて、叔父の武衡も間もなく発見され、義家の前に引き出された後、首をはねられ・・・

こうして、奥州の大乱は終焉を迎えたわけですが・・・

以前、書かせていただいたように、この戦いを私的な戦いと見ていた朝廷は、結局、義家の陸奥守を解任・・・以後、義家が任官に預かる事は2度とありませんでした(10月23日参照>>)

一方、義家が去った奥州・・・清原氏当主の家で、真衡が死に、家衡が死に、ただ一人生き残ったのは、後妻の連れ子の清衡・・・

彼は、今は亡き実父=藤原経清(つねきよ)の姓を受け継ぐ事を決意し、以降、藤原清衡(ふじわらのきよひら)と名乗り、戦乱で荒れた大地に大いなる国を建設していくのです。

これが・・・
清衡1代で、陸奥の玄関口=白河関(しらかわのせき=福島県白河市)から津軽外ヶ浜(青森県東津軽郡)までの広大な土地にお影響を及ぼす事になる黄金の国=奥州藤原氏の誕生です(前半部分の内容カブッてますが…7月13日参照>>)
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コメント

茶々様こんにちは。
清原一族のご長老は、武則の息子=清原の血をひく家衡ではなく、後妻の連れ子である清衡側についた…ということですか?
彼は家衡とも険悪になってしまったのか、それとも、義家のいる清衡サイドが魅力的だったのか…このあたりに秘話がありそうで気になります。
そういえば、この地方にはズバリ「後三年駅」があるらしいです。

投稿: 千 | 2012年11月15日 (木) 12時39分

千さん、こんにちは~

もともと、このご長老は真衡さんともモメてますから、その心情はよくワカランですね~
おっしゃる通り、何かありそうです。

「役」じゃなくて「駅」…センス良いですね~

投稿: 茶々 | 2012年11月15日 (木) 13時41分

はじめまして。詳しくありがとうございます。

系図では、武則-武貞-真衡、ですね。
武貞は父武則に従い前九年に先鋒として出陣しています。
割と早く亡くなったようですが、長生きだったら後三年自体起きなかったかも知れませんね。

長老秀武は婿さんの立場だし、清原氏自体も前九年までは一族による緩やかな連合体的性質が強かったようなので、嫡流棟梁による専制を快く思っていなかったのかも知れませんね。

投稿: 出羽人 | 2012年11月20日 (火) 12時21分

出羽人さん、こんにちは~

あ…、すみません、ご指摘通り、すっ飛ばしてしまってましたね(^-^;
お知らせいただいてありがとうございました。

投稿: 茶々 | 2012年11月20日 (火) 14時53分

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