幕末の動乱に老中となった間部詮勝
明治十七年(1884年)11月28日、越前鯖江藩の第7代藩主で、幕末に老中として活躍した間部詮勝がこの世を去りました。
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文化元年(1804年)に、第5代・越前(福井県)鯖江藩主の間部詮熙(あきひろ)の3男として、国許の鯖江にて生まれた間部詮勝(まなべあきかつ)・・・
文化十一年(1814年)に、父の後を継いで第6代藩主となっていた兄・詮允( あきさね・ あきざね)が急死した事で、急きょ、詮勝が、わずか11歳で藩主の座を継ぐ事になります。
若いとは言え藩主は藩主・・・他の藩同様に、この頃は慢性的な財政難に陥っていた鯖江藩を建てなおすべく、叔父・牧野貞喜(まきのさだはる)らの後見を得ながら、自らが先頭に立って質素倹約を押し進めます。
そんな彼・・・国許に帰った時などは、村々を巡察して庶民とも親しく接し、藩の実情を把握しようとする、なかなかの名君であったと言います。
やがて文政九年(1826年)、第11代江戸幕府将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)のもと、奏者番(そうじゃばん・そうしゃばん)という役職に抜擢された詮勝・・・
この奏者番という役職は、年始や節句などの祝いの際に、将軍に謁見する大名の取次をしたり、進物のチェックや礼式のダンドリを組んだりする重要な役職ですが、それより何より、幕政に参加する大名の登竜門となる役職・・・つまり、幕閣において、将来、要職につくべき人が最初に預かる役職だったわけで、
これまで、鯖江藩から幕政に関与した藩主は一人もいませんでしたから、そりゃもう、藩士&領民挙げて大喜び・・・
もちろん、それだけ詮勝が優秀だったという事ですが、詮勝自身も、その期待に応えるかの如く、寺社奉行→大坂城代→京都所司代へと、見事な出世街道まっしぐら・・・やがて、天保十一年(1840年)には老中にまで昇り詰めました。
しかし、わずか3年後の天保十四年(1843年)、病気を理由に老中を辞任・・・それからしばらくは、書画に親しんだり、藩の財政を立て直すための産物会所を設けたり、鯖江市民の憩いの場となる公園を建造したりと、静かな生活を送っています。
そんな詮勝に転機が訪れるのは安政五年(1858年)・・・そう、日本が開国を巡って大きく揺れるあの年です。
この4月に大老に就任した井伊直弼(いいなおすけ)の下で再び老中に復帰し、勝手御入用掛(財政担当)兼外国御用取扱(外交担当)を命じられたのです。
ここで、あのアメリカ公使・ハリス(7月21日参照>>)を相手に日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)の調印に直面する詮勝・・・
彼は、才智に長けた優秀な人でしたが、外国との交易に関しては、少し軽率な部分もありました。
それが露骨に出てしまったのが、このハリスとの交渉・・・
そのハリスに金銀貨幣の交換価値を計る品位量目について尋ねられた時、答えに困った詮勝は、
「幕府には勘定奉行、藩には家老っちゅー者がいてるよって、大名は金銀の事情にくわしくなくてもえぇねん…くわしい事は、ここにいてる勘定奉行に聞いてくれ」
と、しどろもどろだったとか・・・
言われたハリスも
「そんなんで、国の代表が務まるんかい?」
と驚いた・・・なんて話もあり、結局は、ここで、あの不平等な条約の締結(2009年10月7日参照>>)となってしまうわけですが・・・
しかし、一方では、その条約締結を朝廷の許可無しにやった事を受けて、8月8日に朝廷が下した戊午の密勅(ぼごのみっちょく)に対しては、即座に京に入って数ヶ月滞在し、条約締結に至る経緯を説明し、理解を得ようと奔走しました。
【戊午の密勅:
天皇の許しなく条約締結締結した事をとがめるとともに、幕府には今後は攘夷を推進するよう改革を行う事を命令し、諸藩には、それに協力して公武合体(こうぶがったい=朝廷と幕府が協力)を実現するようにという内容の事を、天皇が幕府を飛び越えて水戸藩に直接下した物】
しかし、これらの事で、さらに激しくなった尊王攘夷運動を抑えるため、事は、安政の大獄(2012年10月7日参照>>)という弾圧へと発展してしまうのです。
ここで詮勝・・・あまりにも厳しい弾圧を行う直弼に対して、
「そんな事をしていたら、国にとって大事な者たちを失ってしまう事になる」
と言って猛反対し、聞き入れられないと知るや、即座に老中を辞任し、藩主の座も、次男の詮実(あきざね)に譲り、キッパリと表舞台から姿を消します。
そう、実は、1度目に老中を辞任した時も、表向きの理由は病気ですが、実際には、当時、天保の改革を行っていた水野忠邦(みずのただくに)と意見が合わなかったために辞めたと言われています。
今回も、「嫌な物は嫌」「譲れない事は譲れない」・・・として、正面から立ち向かう姿勢がありました。
あのハリスとの交渉の場では、しろどもどろだった詮勝ですが、一貫した意志の強さ、出処進退の潔さという物は、しっかりと持っていたのです。
もちろん、安政の大獄に関与した者として、尊王攘夷派からは「鬼」と呼ばれ、その評価にも賛否両論あるかとは思いますが、それこそ、幕末の動乱は、佐幕派も尊攘派も手探り状態・・・両者ともに、より良き未来のために「良い事」だと思って奔走していたわけで、一概にどちらが正義でどちらが悪とは言えない・・・
やがて、明治十七年(1884年)11月28日・・・晩年は、書画や詩歌に没頭する、ごくごく控えめな生活を送りつつ、80歳で亡くなった詮勝・・・
地元・鯖江では、最も長期に渡って藩主を務め、幕政にも関与した藩の出世頭として、また、地元の文化向上にも尽力した人物として、評価を得ているようです。
来たる2014年が、藩主就任200周年にあたるメモリアルイヤーだとして、地元では何やらイベントも計画されているとか・・・楽しみですね。
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