安政南海地震と濱口梧陵~稲むらの火
嘉永七年(安政元年・1854年)11月5日、紀伊半島から四国沖を震源とする安政南海地震が発生しました。
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嘉永七年(1854年)11月5日の夕刻(午後4時~5時頃)、マグニチュード8.4~8.5と推定されるこの地震は、32時間前に起こった安政東海地震とともに、嘉永年間の末に発生しましたが、前年のペリー来航を含めた立て続けの災難のために、直後に安政に改元された事から、一般的には安政南海地震と呼ばれます。
その被害は九州から中部地方にまで及び、特に近畿地方東海地方の被害は甚大な物でした。
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そんな中、紀州有田の農村の長・浜口五兵衛は、少し高台にある自宅から、村の様子を眺めておりました。
幸いな事に、地震による被害はあまり見られず、むしろ、村人たちは、近々行われる祭りの準備に忙しそうです。
しかし、その時、彼は、村の向こうに見える海の水が沖合へ退いて行くのを見たのです。
「津波が来る!」
そう確信した五兵衛・・・ところが、再び村を見下ろすと、祭りの準備に追われている村人たちは地震の事を気にも留めていない様子・・・
そこで五兵衛は、村人の注意をひくため、自分の田んぼにある稲むら(稲束)に火をつけたのです。
乾いた稲が一気に燃え上ると、夕暮れの村からも、赤々とした炎が見え、
「火事や~!」
「庄屋さんの家や!」
と、その火に気づいた村の若者たちが、急いで山手へと駆けあがりました。
続いて、老人や女性や子供たちも、若者らの後を追うように山の方に向かいます。
その時・・・
消火のために、山の手へと上がった村人たちの眼下で、津波は村を呑みこんでいったのです。
こうして、五兵衛の機転と犠牲的精神により、村人たちは津波から救われました。
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このお話は、昭和十二年(1923年)から昭和二十二年(1946年)まで、「稲むらの火」という題名で尋常小学校の国語の教科書に掲載された有名なお話・・・
この時の紀伊国広村(和歌山県有田郡広川町)では、建て物被害:339棟、死者:30人を出しましたが、それでも、彼のおかげで、周辺の村々より、はるかに少ない被害だったと言います。
・・・で、
この物語の主人公のモデルとなったのが濱口梧陵(はまぐちごりょう)・・・
紀州の醤油商人の息子として生まれた彼は、12歳で本家の濱口儀兵衛(醤油醸造業の本家の名=現在の「ヤマサ醤油」)の養子となり銚子(千葉県)に移り住みます。
若い頃は江戸に遊学して外国に憧れ、海外留学も希望していましたが、幕府に許されなかったため、30歳で故郷に戻り、家業を継いでいました。
上記の「稲むらの火」の話は、その頃のお話をモデルにした物で、多少の違いはあるものの、ほぼ史実の通りです。
しかし、実は梧陵の偉業はこれだけではなく・・・いや、むしろ、ここからがスゴイのです。
まずは、近隣の村々を駆けまわって米を買い集め、いわゆる炊き出しをして村人たちを救います。
とは言え、そんな支援は、小手先だけのもの・・・未曽有の災害に見舞われた村人たちは、命こそ助かったものの、家や田畑を失って、この地を去らねばならない人も出るし、また、何とか留まっても、仕事も家も、田畑や船も失って、生きる目標を失くした人が溢れ、このままでは村の活気は消えゆくばかりだったのです。
「何とかせねば!」
梧陵は、即座に立ちあがります。
地震から、わずか2カ月・・・翌年の1月には、藩に、「藩の力は借りず、すべて我々でやりますので…」と、上申書を提出して許可を得、2月には、もう村人を集め、堤防構築の事業を始めるのです。
若者はもちろん、老人から子供まで・・・「やりたい」という人を全員雇い、堤防工事が開始されます。
そう、防災対策と雇用対策を同時に行ったのです。
その賃金は日払いですから、働いたその日に、彼らはお金を手にする事ができます。
しかも、老人・子供に関係なく支払われますから、家族が5人いれば、5人分の手間賃が手に入るわけで・・・
すでに、梧陵は手広く商売をしていましたから、被災者に対して大金を寄付する事などたやすい事でしたが、梧陵は、そうはせず、彼らに「働いてお金を得る」という生きがいも与えようとしたのです。
結局、お金にして4665両・・・現在の何億円にも相当する費用は、そのほとんどが梧陵の私財でまかなわれたのです。
やがて安政五年(1858年)12月、子供から老人までが作業に参加し、3年10カ月の歳月をかけた堤防が完成します。
現在も、その堤防が残されていますが、その長さは636m、高さは5m・・・堤防の海側には暴風のための松を植え、内側にろうそくの原料となるはぜの木を植えました。(その時の木が現在も5本残っているそうです)
これは、イザという時、そのはぜの木をろうそくの原料として売る事を考えての事・・・
また、堤防は、緩やかな傾斜になっていますが、これも、壁のようだと上れないけど、ゆるやかならば駆けあがって逃げれる・・・イザという時の逃げやすさを考えた物だそうです。
広村堤防と呼ばれるこの堤は、完成から88年過ぎた昭和二十一年(1946年)、昭和南海地震が発生して高さ4mの津波が広村を襲った時も、見事に、その役割を果たして村を守ったと言います。
幕末の慶応四年(1868年)には、商人としては異例の紀州藩勘定奉行に抜擢された梧陵・・・さらに、維新後には大久保利通(おおくぼとしみち)の要請を受けて、駅逓頭(えきていのかみ=郵政大臣)も務め、帰郷してからは、和歌山県の初代県議会議長にも就任しました。
もちろん、その間にも私財を投げ打って社会貢献する梧陵は、特に医療に関心が深く、コレラ予防に関する支援なども行っています。
ちなみに、人気ドラマ「仁-JIN-」で、仁先生にペニシリン製造の支援をする醤油屋さんのご主人は、この梧陵さんがモデルですね。
こうして、
「住民百世の安堵を図る」
の言葉とともに、上から目線では無い支援を行って来た梧陵・・・彼に感謝する人々の発案によって晩年には、地元に「濱口大明神」なる神社を建立しようという意見も持ちあがりますが、梧陵はキッパリと、それを断わっています。
そんな梧陵・・・ただ一つ、やり残した事がありました。
そう、若き日に夢見た海外留学です。
明治十七年(1884年)、65歳となっていた梧陵は、その夢を実現させるべく欧米に旅立ちますが、残念ながら、翌・明治十八年(1885年)2月ニューヨークにて発病し、その地で帰らぬ人となりました。
今では、海外にまで知られるようになった「稲むらの火」の物語・・・当日の、その物語とともに、その後の梧陵の偉業の数々も、大いに人々を感動させる事でしょう。
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コメント
偉い人ですね
こういう方の伝記を大河ドラマにすれば良い
のになあ
投稿: | 2012年11月 5日 (月) 22時42分
そうですね~
以前、「龍馬伝」の時に、あるスタッフさんが「大河ドラマは、もう、やるべき人はやりつくして、これからは2順目に入る」的な事をおっしゃっていましたが、私としては、「まだまだ主役になって無いすばらしい人がたくさんいる」と個人的には思ってます。
まぁ、実際に造る側としては、「皆が知ってる有名人でないと視聴率が取れない」という部分もあるのでしょうが…
投稿: 茶々 | 2012年11月 5日 (月) 23時40分
稲むらの火のお話は、東日本大震災の後に図書室の先生が読み聞かせをしてくださいました。
今の多くの若者は梧陵さんのことを知らないまま、大人になっていきます。
梧陵さんをはじめとした多くの、庶民的な偉人はなかなか歴史の授業では扱われないですし、国語の教科書からも今は稲むらの火は載っていません。
戦乱が世の中から消えた21世紀の日本で一番必要とされる人間の一つが、梧陵さんのような存在かと思います。
時代は違いますが、同じ志を持った人間を育てるのが現日本の課題なのかなと感じました。
梧陵さんて仁-JIN-のお醤油屋さんのモデルだったんですか、ビックリです。
しかしあのドラマからもう随分たつんですね。あんなにハマったドラマは、多分初めてだったと思うので、ちょっと感慨深いです。
投稿: ティッキー | 2012年11月 7日 (水) 18時03分
ティッキーさん、こんばんは~
歴史だと難しいと思いますので、やはり、国語の教科書で復活してほしいですね。
大切だと思います。
「仁-JIN-」は私もハマりました~
てか、コミック全巻持ってます(*´v゚*)ゞ
投稿: 茶々 | 2012年11月 8日 (木) 00時46分
大河ドラマで最後に大地震の場面があったのは何でしたっけ?次にあるとしたら主人公が大地震に直接遭遇した人でないと無理かな?
その反動か朝ドラでは「あまちゃん」から「花子とアン」までは大地震の場面が続きました。
以前にも触れていますが、慶長年間は全国で大地震が続いたので、来年の主人公の真田幸村もどれかに遭遇しているかも。
投稿: えびすこ | 2015年11月 5日 (木) 08時59分
えびすこさん、こんにちは~
>大河ドラマで最後に大地震の場面があったのは何でしたっけ?
最後の方では無いですが、『功名ヶ辻』では天正地震が描かれてましたね。
主人公夫婦の唯一の実子の死に絡むシーンですから外せないと思います。
それ以外にはどうでしょ?
最近では合戦シーンも無いくらいですからね~
投稿: 茶々 | 2015年11月 5日 (木) 17時11分