耳川の戦いのその後…大友氏の落日
天正六年(1578年)11月12日、昨日の高城川の戦いで火蓋を切った大友宗麟配下の軍勢と島津義久勢の合戦=耳川の戦いがありました。
・・・・・・・・・・・
そもそも・・・
ここに来て力をつけて来た薩摩・大隅(鹿児島県)を支配下に置く島津義久(よしひさ)に攻め込まれ、日向(宮崎県)南部を奪われた伊東義祐(よしすけ)(8月5日参照>>)が、豊後(大分県)の大友宗麟(そうりん・義鎮)に救援を求めた事に始まった耳川の戦い・・・
前日=11月11日の高城川の戦い(11月11日参照>>)に続き、本日の天正六年(1578年)11月12日は惨劇となった本チャンの耳川の戦いがあったわけですが(2008年11月12日参照>>)、その合戦の流れについては、すでにおおむね書かせていただいておりますので、追加情報は、また、新情報を仕入れた時に、まとめて追記させていただく事として、本日は、その耳川の戦いが与えた影響=その後の大友氏について書かせていただきたいと思います。
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それこそ、日向の伊東義祐が彼に救いを求めるくらいですから、この耳川の戦い以前の大友宗麟はけっこうノリノリだったわけで・・・九州のキリシタン大名の代表格として、宣教師たちからも「豊後の王」なんて呼ばれて、勢いづいていた頃でした。
ただ・・・ちょっとばかり不安な事が・・・
それは、この耳川の戦いの頃の大友氏が二頭政治だったという事・・・
ご存じのように、宗麟はドップリとキリスト教にハマり、島津に勝って義祐から日向の半分を貰ったあかつきには、無鹿(むしか・務志賀=宮崎県延岡市無鹿)にキリスト教の理想の王国を造るんだと大ハリキリで(8月12日参照>>)、それに専念したいばかりに、耳川の2年前の天正四年(1576年)に、嫡子の義統(よしむね)に家督を譲り、自らは隠居の身となって洗礼を受けています。
それから2年・・・耳川の戦いの時には、義統が総大将として豊後の野津(のづ=大分県臼杵市)に陣を置き、宗麟は、そこから船で南下して、例の無鹿に陣を敷き、そこを本営として本隊を、さらに南にある高城へ向かわせたというわけです。
義統が野津に残ったのは、もちろん、この時に北側から攻められるかも知れないための守りとともに、本隊を後方支援するためだったわけですが、この状況は、総大将というのが名目だけで、実権は宗麟が握っている事は明らかです。
この時期、息子の義統も
「隠居したくせに、いつまで干渉するんじゃ!」
と怒りを露わにしていますので、やはり、そこに一筋の不安があった事は確か・・・
そんな父子の二頭政治は、当然の事ながら、家臣団にも少なからず影響を与えるわけで・・・で、そんな中で行われたのが耳川の戦いで、お話をさせていただいたように、大友軍は島津に大敗をしてしまう事になったわけです。
この大友の大敗をチャンスと見たのが、肥前(佐賀県)の熊と呼ばれていた龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)です。
この隆信の蜂起を見た筑後の国人たちは一斉に隆信に味方し、それを受けた筑前(福岡県西部)や豊前(福岡県東部と大分県北部)などの周辺の戦国大名も、反大友の姿勢をあらわにします。
そうなると、先の二頭政治の影響を受けていた家臣にもグラつきが出て来るわけで・・・
まず、大友氏からの離反を表明したのは、重臣の田原親宏(たわらちかひろ)・・・彼は、大友氏の中でも一・二を争う実力者でしたので、当然、他の家臣たちにも動揺が走ります。
「俺らがもともと持ってた領地(国東・安岐)を返してくれへんかな?
返してくれへんねやったら、筑前の秋月と組んで、挙兵すんゾ」
と、親宏は、自分が宗麟の傘下に入る前に領していた地の返還を求めます。
秋月だけならまだしも・・・上り調子の龍造寺と組まれては、大友氏としてもちょっとアブナイ・・・やむなく、宗麟は親宏の要求を呑みますが、これが、家臣たちの動揺をさらに加速させるのです。
たまたま、その直後の天文七年(1579年)に親宏が病死してくれた事で、事は沈静に向かうかに見えましたが、親宏の後を継いだ養子の親貫(ちかつら)が父と同じ姿勢をとったため、その間にも、大友家臣の離反は相次ぎます。
ただ、この頃は、三つ巴となった九州戦線の中で、龍造寺と島津との抗戦が頂点に達してくれていたおかげで、大友は、何とか、その態勢を維持していたわけですが、天正十二年(1584年)3月に、沖田畷(おきたなわて)の戦い(3月24日参照>>)で隆信が、島津に敗れて戦死すると、その島津の矛先は大友氏に・・・
もはや大友を守りきれない!・・・絶体絶命のピンチに立たされた宗麟は、翌・天正十三年(1584年)に羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に救援を求めます。
この大友の申し出に対して、秀吉は、島津に「停戦」を打診しますが、この時の秀吉は、未だ、あの小牧長久手の戦いを終えたばかり・・・(11月16日参照>>)
未だ、この先どうなるかわからない状況であったため、島津は、秀吉の停戦命令を無視して、大友領内への攻撃を継続します。
たまらず宗麟・・・翌々・天正十四年(1586年)4月6日に、宗麟自らが大坂城へと赴いて、直接秀吉に拝謁し、島津討伐を願い出たのです(4月6日参照>>)。
この間に、紀州征伐(3月21日参照>>)を終え、四国をも平定(7月26日参照>>)していた秀吉・・・この宗麟の要請を、渡りに船とばかりに、九州平定へ向け・・・ここから後は、島津VS豊臣の戦いという事になります。
●戸次川の戦い>>
●鶴崎城攻防戦・前篇>>
●鶴崎城攻防戦・後編>>
●高城・根白坂の戦い>>
という事で、結局は、秀吉の傘下のもと、家名が守られる事になった大友氏・・・
悪く言えば「寄らば大樹の陰」で戦国武将らしいカッコ良さには欠けるかも知れませんが、信念を貫いて華々しく散るのも戦国武将なら、何としてでも、どんな手を使ってでも家を潰さず生き残っていくのも戦国武将・・・
物語やドラマでは前者のほうが断然カッコイイですが、現実には、世は下剋上・・・滅亡してしまえばそこで終わりなわけで、生き残るためにカッコ悪い事もせねばならず、言いかえれば、それは、時勢を見る目がある外交上手という事にもなるわけです。
とは言え、そんな大友氏も、宗麟亡き後の義統が、朝鮮出兵でヘタこいて所領を没収された後、再起をを懸けて、あの黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)と、石垣原で決戦する事になるのですが、そのお話は9月13日のページでどうぞ>>
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コメント
茶々様、ご機嫌うるわしゅう
大友家臣ということで、大河ドラマも黒田さんじゃなくて、立花道雪、高橋紹運、立花宗茂を中心に脚本をつくればいいのにと思います。
もう波瀾万丈だし、創作しなくてもメジャーな逸話だけでも、1年間間が持ちそうに思えるのですが。どうですかね。
投稿: しまだ | 2012年11月12日 (月) 23時04分
しまださん、こんばんは~
戦国ゲームの世界では立花道雪も高橋紹運も立花宗茂も人気のキャラクターですね。
ゲーム自体はやりませんが、ポスターか何かで、ものすごいカッコイイ高橋紹運を見た事あります。
いつか大河の主人公になってくれたらウレシイです。
投稿: 茶々 | 2012年11月13日 (火) 01時20分