2人の将軍に2つの幕府…足利義視トンズラ事件in応仁の乱
応仁二年(1468年)11月13日、足利義視が比叡山に逃走しました。
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応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦により、幕開けとなった応仁の乱・・・(1月17日参照>>)
何度か書いております通り、そもそもは、早く将軍職を隠居して趣味に没頭したい第8代室町幕府将軍=足利義政(よしまさ)が、奥さんの日野富子(ひのとみこ)との間に子供がいなかった事で、仏門に入っていた自らの弟=足利義視(よしみ)を還俗(げんぞく=僧になっていた人が一般人に戻る事)させて、次期将軍を譲る事にします。
ところが、その直後に嫁=富子が男の子=義尚(よしひさ)を出産・・・我が子を次期将軍にしたい富子は、実力者の山名宗全(やまなそうぜん・持豊)(3月18日参照>>)に近づきます。
一方の義視も、一刻も早く隠居したがっていた兄が、いつまでたっても将軍を辞めない現状を見て、子供が生まれて気が変わったんじゃないか?と心配し、元管領の細川勝元(ほそかわかつもと)に相談・・・
こうして、将軍家の後継者争いとなるのですが、そこに、もともと後継者争いでモメていた管領家の畠山(はたけやま)氏と斯波(しば)氏が義尚派と義視派に分かれ・・・そうなると、その配下となる諸国の守護大名も、いずれかの派にくっついて、日本全国を東西真っ二つに分けた応仁の乱となったワケです。
そんなこんなの5月・・・
当初は中立だった将軍=義政が、「私的な後継者争いに関与するな」という命令を出していたにも関わらず、先の畠山同志の御霊合戦に宗全の孫・山名政豊(まさとよ)が関与していた事を知った勝元は、戦火から御所を守るという名目で将軍の住まう花の御所を本陣とし、「都を荒らす山名方追討」の命令を取り付け、その総大将に義視を任命したのです(5月20日参照>>)。
一方の宗全は、花の御所から数百メートル西の自宅に陣を構えます・・・ここが、現在も織物で有名な西陣・・・
で、以降、細川方が東軍で官軍、山名方が西軍で賊軍となるわけですが・・・お察しの通り、すでに何だかオカシイ・・・
そう、富子とその息子の義尚です。
富子らは、宗全を味方にしているわけですが、将軍の嫁と息子なので、当然、花の御所に住んでるわけで・・・敵であるはずの細川の軍に警固されながら、味方であるはずの山名の攻撃を受けるというヘンな感じ・・・
とは言え、始まった当初の応仁の乱は、それぞれの武将が活発に抗争をくり返し、5月26日未明に起こった五月合戦では、将軍・義政も思わず停戦命令を出すほどでしたが(5月28日参照>>)、そんな中で起こるのが、総大将・義視のトンズラ事件(初回)・・・ (10月2日参照>>)
現状に納得いかない富子が、同じ花の御所にいる事を逆手に取って、水面下で様々な画策をして義視にプレッシャーをかけていた事で、それに耐えきれなくなった義視が、伊勢の北畠教具(きたばたけのりとも)を頼って、花の御所から姿を消したのです。
総大将の逃亡・・・という前代未聞の出来事に士気下がる東軍ですが、10月3日には、相国寺の戦いという、この応仁の乱でも屈指の激しい戦いが繰り広げられました(10月3日参照>>)。
しかし、京都市街戦としては、ここらあたりがピーク・・・徐々に両軍ともに疲れを見せ始め、翌・応仁二年(1468年)3月21日の稲荷山の攻防戦(3月21日参照>>)を最後に、以降の京都市街戦は、足軽同志の小競り合い程度となり、逆に、それぞれに味方する守護大名や配下の国人による地元=地方での戦いが激しくなっていくのです。
たとえば、後の加賀一向一揆の基となる文明一揆なんかは、この応仁の乱の時に東西に分かれた守護大名の富樫(とがし)氏に地侍やら信者やらを巻き込んでの戦いとなっています(7月26日参照>>)し、あの山城の国一揆も、地元でドンパチやってる畠山氏に対しての地元の国人や土豪による一揆だった(12月11日参照>>)ですし・・・。
とまぁ、こうして、徐々に地方へと移って行く応仁の乱ですが、一方で、市街に陣取る勝元にとって、総大将が逃亡したままでは具合が悪いわけで・・・
そこで、勝元は、義政を動かして
「山城(京都府南部)と近江(滋賀県)、さらに伊勢の寺社本所領から得られる税金の半分を保証しますさかいに、戻って来ておくれやす」
てな約束を義視に提示してご機嫌を取ります。
なんだかんだで次期将軍の資格を持つ義視は、旗印として、勝元の欲しい存在なわけで・・・
その後、天皇からの帰還を催促する勅書(ちょくしょ=天皇の命令書)が出た事もあり、この年の9月・・・義視は意気揚々と東軍の陣に戻ります。
ところが、この義視さん・・・またもや富子以下の日野一族の画策に耐えきれず、わずか2ヶ月後の応仁二年(1468年)11月13日、今度は比叡山へとトンズラするのです。
この状況を見逃さないのが西軍=山名宗全・・・なんせ、この応仁の乱が始まった時から、コチラ西軍は賊軍とされているわけですが、上記の通り、それは、たまたま、先に東軍の勝元が花の御所に陣取って義政を取り込んでいるからで、対抗する西軍には西軍の大義名分があって、決して彼ら自身は賊軍だとは思っていないわけで・・・
「そないに、アッチの日野富子がうっとぉしいんやったら、コッチへおいでョ…熱烈歓迎やで~」
と誘いをかけ、義視を西軍の斯波義廉(しばよしかど)の館へと迎え入れ、勝元らのいる花の御所と対抗すべく、義視を将軍に祭り上げ、以下、西軍の諸将が管領や政所執事を務める幕府体制を作ったのです。
『二人の将軍、帝都に並びて歳暮年始の喜代を争う』(応仁略記)・・・
つまり、このいち時期だけではありますが、この日本に2つの幕府があったわけですね。
これを受けた勝元は、義政を名実ともに東軍の将軍とし、正月の酒宴の席にて、5歳になった義尚を、その後継者として正式に披露する事に・・・
やったね!富子さん・・・
義政が弟・義視を還俗させる時、
「例えこの先、自分に男の子が生まれたとしても、お前に次期将軍の座を譲るから…」
と言って説得したにも関わらず、見事、このゴタゴタを利用して、息子=義尚を次期将軍にする事を認めさせちゃいました。
結局、天下分け目の戦いとして始まった応仁の乱も、兵士の疲れにも増して、総大将が東軍から西軍に寝返るという前代未聞のグダグダ合戦となりながら、もうしばらくはグダグダのまま続くのですが、
やがて、両軍の将、山名宗全と細川勝元の死とともに、文明五年(1473年)12月に義尚が正式に第9代将軍となった事で、もはや、戦う大義名分も無くなり、文明九年(1477年)に、最後まで京都に残っていた周防(すおう・山口県南東部)の大内政弘(おおうちまさひろ)が帰国する事で、世紀の大乱の幕を下ろす事になります(11月11日参照>>)。
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コメント
ヤレヤレ!いつの世も政権争いは~。
今の時代とかぶるものを感じます。
歴史は繰り返すものなのですね^^;
投稿: tonton | 2012年11月14日 (水) 09時56分
tontonさん、こんにちは~
本当は政権を取ってからどうするかが大事なのに、政権を取る事だけに必死になってるような…
なんとかしてほしいですね~
投稿: 茶々 | 2012年11月14日 (水) 15時08分
総大将の寝返り…応仁の乱の、空前絶後のグダグダ感を象徴する事件ですね。カッコ悪いよお。
徳川慶喜さんも味方を見捨ててとんずらしましたけど、以降はお寺に入って謹慎してましたものね。
投稿: レッドバロン | 2012年11月19日 (月) 16時27分
レッドバロンさん、こんばんは~
慶喜さんは、考えようによっては、戦争回避のためのトンズラとも言え、コチラのトンズラとは別物のような気がします。
ホント、グダグダです。
投稿: 茶々 | 2012年11月19日 (月) 19時56分