悪政を極めた藩主・真田信利
天和元年(1681年)11月22日、上州沼田藩主の真田信利が改易処分となりました。
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あの関ヶ原で、父・昌幸(まさゆき)と、弟・幸村(ゆきむら=信繁)と一大決意で袂を分かち(7月21日参照>>)、その後の真田家を、妻・小松姫(7月25日参照>>)とともに守り抜いた真田信之(のぶゆき)・・・
今回の真田信利(さなだのぶとし)さんは、その信之の庶長子(父親に認知された長男)である上野沼田城主・信吉(のぶよし)の次男として生まれます。
信吉の死後、その沼田領は、一旦、信利の兄が継ぎますが、その兄が幼くして亡くなってしまった事、また、その時信利が、まだ3歳であった事から、叔父の信政(信吉の弟)が沼田領を相続します。
その後、明暦二年(1656年)に、本家の松代藩主だった祖父の信之が隠居した事を受けて信政が松代藩主となったため、沼田領を信利が継ぐ事になります。
ところが、そのわずか2年後に信政が死去・・・未だ健在だった信之の判断で、松代藩は、信政の息子・幸道(ゆきみち)に決定します。
しかし、そこに「待った!」をかけたのが信利・・・そう、なんだかんだで信利の父・信吉は信之の長男だったわけで、その信之が隠居した時に、すでに信吉が亡くなっていたので、弟の信政が継いだだけで、もし、生きていたなら父が藩主を継いでいたはず・・・
なので、「その息子である自分にも、松代藩を継ぐ権利がある」というワケです。
・・・と、ひとモンチャクあったものの、結局は、幕府の決定で、松代藩の後継者は幸道に決まるのですが、その代わり、それまで、本家松代藩の分領(分地)でしかなかった沼田領を沼田藩として独立させ、信利が、その初代藩主となる事で、話は収まりました。
こうして、沼田藩を経営する事になった藩主・信利・・・
ところが、本家の松代藩・10万石に対して、沼田藩が3万石が気に入らなかったのか・・・直後に領内を検地し直して、実高14万4000余石を強引に打出して、幕府に報告します。
つまり、実際には農地でない部分まで農地である事にして幕府に申請しちゃったわけで、もちろん、その藩主のエエカッコは、領民への税金に跳ね返って来ます。
さらに、沼田城にデッカイ天守閣を設けたり、江戸の中屋敷も、松代藩のそれに負けないような豪華な造りに改築・・・
・・・と、そんな時、江戸の小石川藩邸にいた沼田家臣・麻田権兵衛のもとに材木商の大和屋久右衛門から、幕府の御用木調達の話が持ちかけられ、麻田は、この話に飛びつきます。
去る延宝八年(1860年)8月に江戸を襲った暴風雨によって、あの両国橋が大破し、その普請を8500両の入札金で落札したのが大和屋で、その材料となる木材を求めて声をかけて来たワケです。
普請奉行として、藩主から、城やら屋敷やらの普請を命じられてばかりで、その資金に困っていたにも関わらず・・・いや、資金に困っていたからこそ、麻田は、この話に飛びついたのかも知れません。
なんせ、これの契約実行金は3000両・・・
この金額は魅力的だし、そもそも、山地が豊富な沼田の領地には、たくさんの材木があるわけですし・・・
早速、信利から許可を得て、材木の伐採にとりかかる麻田・・・
しかし、事は、彼の計画した青写真通りには進みませんでした。
実は、先ほどの両国橋を大破させた暴風雨・・・これが、関東一帯に及ぶ広範囲に被害をもたらしていた暴風雨で、沼田の領内も、その例外では無かったのです。
あてにしていた材木の多くは、かの災害で流されてしまっていたうえに、その御用木も、全部で690本のうち30本はケヤキで、しかも、末口2尺7寸以上、長さ9間以上10間未満(約18m)と、そのサイズまで決められ、さらに、その納品も天和元年(1681年)も8月20日までと、期限が決まっていたのでした。
しかし、もはや、条件に叶う材木が、山のどこらあたりにあるのやらもわからない状況・・・
結局、蓋を開けてみれば、
のべ16万8000余人の人夫を動員し、
5200俵の食糧と、
8127両もの費用を費やして・・・
なんとか、8月20日の納期までに江戸に着いた木材は、わずかに6本・・・さらに、何とか納期を延期してもらって10月まで待ってもらいますが、それでも全部合わせて、たったの13本だったのです。
しかも、この間に、以前から重く圧し掛かっていた重税に加え、今回の事で労働を強制された農民たちの間で不満が高まり、直訴状を隠し持った領民が、密かに江戸へと向かいます。
その一人、松井市兵衛は目付けへと訴え、もう一人の杉木茂左衛門は将軍家に直訴しました。
万事休す・・・
結果・・・
材木が揃わないと両国橋の建造もできない事を重く見た幕府は、大和屋を投獄・・・10月29日には、麻田らを呼びつけて木材の延滞について問いただしました。
そして、天和元年(1681年)11月22日、幕府評定所に呼び出された信利は、老中らか列席する中、今回の御用木請負いの遅延とともに、農民酷使の実情を書き上げた10ヶ条について、厳しく追及されたのです。
この時、信利は、ひと言の弁明も出来なかったと言います。
かくして、その日のうちに信利は改易となり、山形藩主・奥平昌章(おくだいらまさあきら)に預けられる事となりました。
その後、デッカイ天守を誇った沼田城は取り壊され、沼田領は幕府の直轄地になりました。
ちなみに、
幕府に直訴した松井市兵衛は斬首、杉木茂左衛門は磔の刑に処せられましたが、悪政から領民を救った英雄として祀られているそうです。
何とも、後味悪いですね~
こうして、悪政を極めた藩主としてその名を残した真田信利・・・その身分不相応な贅沢三昧は、やはり松代藩主になれなかったコンプレックスから来ているのでしょうか?
いやしかし、その松代藩主の争奪戦にしても、彼を後押ししていたのは、奥さんの実家である土佐藩の山内家だったり、下馬将軍で有名な大老・酒井忠清(12月9日参照>>)だったりで、信利自身が、どこまで、それを望んでいたのかは微妙です。
さらに、藩主としての贅沢三昧の中には、殺生禁止の場所で狩りを行ったとかいう、改易大名定番の、おそらくは後付けであろう内容も含まれていますので、幕府の公式文書に書かれている事を、すべてと鵜呑みにするわけにもいきません。
なんせ、幕府の公式文書には、改易される側の言い分は含まれていませんから・・・
ただ、今回の信利さんの場合は、領民の直訴というのがあるので、ちょいと分が悪い・・・このページの主役だからと言って、いつものように「汚名を晴らしたい!」と高らかには言い放てない、残念な結果となってしまいましたが、
それこそ、あの智略に長けた昌幸の曾孫であり、地道に真田を守った信之の孫であり、武勇誇れる幸村を大叔父に持つ信利さんなのですから、せめて引退後の晩年・・・何か良き事をやっていて下さってる事を望むばかりです。
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コメント
真田関連特集で、信之を名君としていますが、真田騒動の顛末を見ていると、違和感を覚えますね。
本多忠勝は幼君の家督相続を遺言で禁止しており、また、騒動後に幸道の後見役を担ったのは、姉婿実家の内藤氏なので、信政が小松姫の実子だから、その血を引く幸道を後継に指名した説は、説得力に欠けます。
本多忠勝の家系は、徳川四天王の中でも、没落が著しかった一方で、土佐藩の坂本龍馬が、松代藩の佐久間象山と親密だった事実より、信利を宗家の跡継ぎにした方が、真田氏は史実より利を得た可能性は高いです。
投稿: Y子 | 2012年11月30日 (金) 02時34分
Y子さん、こんにちは~
モメるという事は、やはり、その決定に何かしらの説得力に欠ける部分はあったかも知れませんね~
投稿: 茶々 | 2012年11月30日 (金) 14時46分
歴史は政治の都合で改竄が可能なため、真相の追求は難しいでしょう。
騒動の発端は、信政が周囲に相談することなく、遺言をしたためていた点にあるので、彼が遺言で指名した人物は、幸道だったとは限らないと思います。
何しろ長男は、将軍御目見え時の粗相で蟄居、次男は三男を殺して自害だから、末子相続は無理ですね。
これに対して、幸村外孫の岩城重隆は、亀田の名君なのに…。
投稿: Y子 | 2012年12月 7日 (金) 07時23分
Y子さん、こんにちは~
>歴史は政治の都合で改竄が可能なため…
そこを、様々に推理していくのが歴史の醍醐味ですね。
投稿: 茶々 | 2012年12月 7日 (金) 16時47分
信利家臣の末裔です。
信利は宇都宮藩預かりになってます。
投稿: 信利家臣末裔 | 2015年8月30日 (日) 23時34分
信利家臣末裔さん、こんばんは~
はい、この事件から4年の後の貞享二年(1685年)に、山形の奥平家が宇都宮へ転封となったので真田信利さんも、ともに宇都宮へお引越をされてますね。
今回は改易のお話でしたので、その後の事をすっ飛ばしてしまい、言葉足らずで申し訳なかったです。
投稿: 茶々 | 2015年8月31日 (月) 02時45分