王を辞めて臣下になります!~橘諸兄の決断
天平八年(736年)11月11日、葛城王が橘諸兄に改名しました。
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すでに何度か書かせていただいておりますが、その昔、日本には「貴種(きしゅ)」と呼ばれる特別な4つの姓(かばね)がありました。
ご存じのように、明治維新が成って四民平等となり、皆が苗字を名乗るようになって、もはや姓や氏や苗字やらの区別も無くなりましたが、もともとは氏・素性を表す一族の呼び方であったのが姓で、その後、多くなり過ぎた氏・素性を家族単位で判別するために名乗ったのが苗字・・・
姓は賜る物ですが、苗字は、基本、勝手に名乗って良い物・・・なので、明治以前にも、武士だけでなく、農民で苗字を名乗っている人もいました(【氏・素姓と苗字の話】参照>>)。
・・・で、その姓の中でも特別扱いされる天皇から直接賜った4つの姓が「貴種」で、『源平藤橘(げんぺいとうきつ)』・・・そのうちの源平は、ご存じの源氏と平氏で、これは、天皇の子供たちが、その姓を賜って皇族から抜け、臣戚に下った物です。
一方の藤橘は、功績のあった臣下の者に天皇が与えた姓で、藤は、あの大化の改新に功績のあった中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、第38代・天智(てんじ)天皇から賜ったのが藤原で、ご存じのように亡くなった時には藤原鎌足でした。
・・・で、この藤原と同じように、その功績によって第43代・元明天皇から橘(たちばな)の姓を賜ったのが県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)です。
彼女=橘三千代(たちばなのみちよ)は、鎌足の息子である藤原不比等(ふひと)(8月3日参照>>)と結婚して、安宿媛(あすかべひめ)という女の子を生みます。
この安宿媛が、第45代・聖武天皇と結婚して、初の皇族出身ではない皇后となる光明皇后・・・この聖武天皇の母である宮子も不比等の娘ですので、不比等×三千代夫婦にとっては、夫の孫が天皇で、二人の娘が皇后という、わが世の春を迎える形となったわけです(実際には、安宿媛が皇后になった時には、すでに不比等は亡くなっていますが)。
まさに、この後、あの藤原一族が政権を牛耳る基礎となった夫婦なんですね。
とは言え、実は、この三千代さん・・・不比等との結婚が初婚ではありません。
それ以前に、第30代・敏達(びたつ)天皇の4世の孫・美努(みの)王という人と結婚していて、二人の間には、葛城(かつらぎ)王・作為(さい)王・牟漏(むろ)女王という2男1女をもうけていました。
しかし、この美努王という人・・・いくら天皇の子孫とは言え、もう4世ともなれば七光の光具合も大した事なく、当時の記録にもほとんど残っていない所を見れば、あまり活躍した人でもなさそうな雰囲気・・・
って事で、三千代が美努王を見限ったのか?はたまた他に何かあるのか?・・・とにかく、「ヤリ手の乳母」を武器に出世街道を歩み始めた彼女は不比等と深い仲になり、今度は、夫婦そろっての出世街道となったわけです。
そして、そんな三千代が亡くなったのが天平五年(733年)1月11日・・・(三千代さんの出世物語についてはコチラのページで>>)
その死から3年と9ヶ月経った天平八年(736年)11月11日、三千代の前夫との長男であった葛城王が、母の姓である「橘」を継ぐ事を聖武天皇に願い出て、その許可を得たのです。
その名は、橘諸兄(たちばなのもろえ)・・・彼にとっては、それこそ一世一代の決断であった事でしょう。
なんせ、活躍しなかったとは言え、父は天皇家の人・・・つまり、そのままいれば皇族なわけですが、橘の姓を継ぐ=臣下に下るという事ですからね。
源平のように、天皇側からそうするように言われたならともかく、「願い出る」という事は、おそらく彼は、自分自身でそうする事を決断したわけですし、当時は未だ源平の先例も無かったわけですから・・・
当時、不比等亡き後に、藤原氏を仕切っていたのが、その息子たちの藤原四兄弟(つまり光明皇后の兄ですが母は三千代ではありません)・・・
後の藤原四家(南家・北家・式家・京家)の祖となった4人ですが、その武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の4人が、臣下の自分たちにとって目の上のタンコブだった皇族・長屋王(ながやのおう)を葬り去り(2月12日参照>>)、亡き父=不比等の念願だった妹・安宿媛の立皇后をも実現した(8月10日参照>>)のが天平元年(729年)・・・
それからは、まさに、4兄弟の全盛となっていたワケですが、そんな時期に、あえて、母の橘姓を継いだ諸兄・・・彼を決断させたのは、やはり、聖武天皇からの信頼の篤さでしょう。
なんせ、父は違うと言えど、聖武天皇の皇后は、諸兄の妹・・・以前書かせていただいたように、政略結婚とは言え、なかなかに仲睦まじかったであろう聖武天皇と光明皇后ですから、聖武天皇は、そんな嫁の兄である諸兄の事をドップリと信頼していたようです。
そして、この決断は見事に当たります。
なんと、その翌年の天平九年(737年)、天然痘の流行により、その4兄弟が次々とこの世を去ったのです。
それこそ、自分たちの保身のために、これまで、長屋王のごとき実力者を排除して来た4兄弟ですから、彼らがいなくなれば、それに相当する人物も、ほとんどいないわけで・・・
っで、そこにいたのは、藤原に匹敵する家柄で天皇の信頼篤い橘諸兄・・・って事になるわけで・・・
彼は見事、空席となった右大臣に昇進し、その席に座る事になったわけです。
以来、聖武天皇を補佐する形で国政を担当し、朝廷の中心人物となった諸兄・・・天平十五年(743年)には、従一位左大臣となり、天平勝宝元年(749年)には正一位に叙されるのです。
しかし、そこがピーク・・・同じ年に、年老いた聖武天皇が、娘の第46代・孝謙天皇に皇位を譲った事で、その孝謙天皇のお気に入りである藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が台頭して来るようになるのです。
仲麻呂は、かの藤原四兄弟の武智麻呂の次男・・・そう、時代が四兄弟の息子たちへ動き始めていたのです。
これまでのように、思う存分腕を揮えなくなって来た諸兄・・・ついつい酒の席でウップンをぶちまけ、暴言を吐いてしまします。
どのような暴言だったかは具体的な記録は残っていないものの、受け取りようによっては謀反とも疑われかねない発言だったと言われています。
ただ、その事を聞いても、病床の聖武天皇は、一切、諸兄の事を咎めなかったと言いますから、未だ聖武天皇は諸兄の事を信頼しており、世代交代にあえぐ彼の気持ちを察していたのかも知れません。
ただ・・・その聖武天皇の様子を聞いた諸兄自身が、そのままでいられる事ができなかったのです。
その暴言事件のあった翌年の天平勝宝八年(756年)・・・諸兄は自ら辞職を願い出て、政界を引退し、その1年後の天平勝宝九年(757年)が明けて間もなくの正月・・・静かに73年の生涯を閉じました。
そして、皆さまお察しの通り・・・その後、力をつけた仲麻呂は、諸兄の後を継いだ橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)をターゲットとして葬り去る事になるのですが、そのお話は、2007年7月4日【闇に消えた橘奈良麻呂の乱】でどうぞ>>
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