刺客に襲われて命を落とした僧・了源
建武二年(1336年)12月8日、浄土真宗仏光寺派の中興の祖として知られる了源が暗殺されました。
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親鸞(しんらん)を開祖とする浄土真宗と言えば、あの本願寺・・・と、お思いかも知れませんが、それは、いわゆる中興の祖と呼ばれる8代めの蓮如(れんにょ)が、見事な働きで爆発的に信者を増やす事に成功した後からの話で、以前、蓮如さんのページ(2月25日参照>>)で書かせていただいたように、それまでは、親鸞の子孫の本願寺より、親鸞の弟子たちが広めた様々な宗派が、むしろ浄土真宗の主流で、その中でも、仏光寺(佛光寺)が1番人気でした。
そう、その仏光寺を1番にした僧が、今回の了源(りょうげん)さんです。
やはり浄土真宗の宗派である興正寺派・4世の了海の息子だという話と、もともとは武家の家人であったという話と、出自については二つの説がある了源ですが、息子では無かったとしても、興正寺の第7代だった事は事実で、その興正寺が故あって、了源の代に、仏光寺という、もう一つの名を持つ事になります。
その理由を・・・『了源上人絵詞』によれば、
幼い頃から才智に優れ、22歳で興正寺の7代めを継いだ了源は、絵系図を用いての布教活動を推し進め、そのわかりやすい教えは、またたく間に大人気となります。
しかし、人気が出れば出るほど、それを妬む者も現われ・・・ある時、そんな興正寺の由緒をおとしめようと、仏像や宝物も盗みに入った者がいたのです。
「由緒正しき&霊験あらたかな仏像や宝物が、いっさいがっさい無くなってしまえば、寺の権威もへったくれも無くなるだろう」と考えたのです。
ある夜、そんな反対派に頼まれた賊が、興正寺に侵入し、約束通り、仏像や宝物を盗み出しますが、それを持って逃げる途中、霊験あらたかな仏像を盗んでしまったという自責の念にかられ、怖くなって、プイっと、その仏像を、そのへんの草むらに投げて、逃げていってしまうのです。
一方、時の天皇・後醍醐(ごだいご)天皇は、その夜の明け方、南の方角から射して来るまぶしい金色の光によって目覚めます。
「夢か幻か?」と思いながらも、その光があった方角に使者を差し向けて探させると、ジャジャ~ン!!仏像、はっけ~~ん!
そして、その仏像を宮中へ持ち帰り、持ち主を探すべく、都中のお寺というお寺に仏像の事を告げますが、そこに登場したのが座光(仏像の後ろにある光背と下にある台座)を持って現われた了源・・・
その座光の上に、かの仏像を置いてみると、見事、ピッタリとハマり・・・
「おぉ、君が、あの時のシンデレラ!!・・・違っ!持ち主か!」
と感激した後醍醐天皇が、
「これをキッカケに、寺号を阿弥陀仏光寺…略して仏光寺と改めたまえ~」
となって、興正寺は、一山で二つの寺号を持つお寺となったのですね。
その後の文明十三年(1481年)に14代を継いだ兄弟によって、兄が興正寺を継ぎ、弟が仏光寺を継いだ事で、現在では、興正寺派と仏光寺派の両方が存在しますが・・・
そんなこんなの逸話もあって、ますます隆盛を極める仏光寺でしたが、そんなトップの座にあぐらをかく事はなく、了源は、畿内はもちろん、東海地方にまで、自ら布教の旅に出る日々を続けます。
しかし、当然の事ながら、ますます、その隆盛を妬む輩が後を絶たないわけで・・・
建武二年(1336年)12月8日、彼を恨む者からの依頼を受けた鈴鹿の山賊に襲撃された了源は、伊賀(三重県)の山中にて、その命を落とすのです。
その時、襲われた了源は、流れる血で衣の袖に
「私の死は宿業(前世に悪い事をした報い)なので、どうか、この者を罪に問わないでやってくれ!きっと将来改心するから…」
と書き残し、西に向かって合掌した後に、息をひきとったと言います。
その最期の姿を目の当たりにした賊・・・当然ながら、後悔の念にかられます。
しかし、後悔先にたたず・・・やむなく、賊は、了源の遺体を、道の横にあった桜の木の下に埋め、血文字の書かれた衣を持って本山へと自首するのです。
その一報を聞いた本山では、息子以下、主だった僧が、早速、現場へと向かい、遺体を掘り起こして火葬し、その場にお墓を建立します。
すると・・・
そばにあった、あの桜が、真冬にも関わらず、一斉に花を咲かせたという事です。
と、まぁ、桜の一件は、「教え」に近い逸話なのでアレですが、了源が刺客に襲われて命を落とした事は間違いないようです。
東京文化財研究所の報告によれば、保存されている遺骨(焼骨)の頭蓋から眼のあたりにかけての骨片に、一条の刻線があり、そこには鉄の赤さびが認められたという事です。
しかも、仏光寺の御影堂に安置されている了源坐像の胎内から発見された、上下7cmほどの木造小首(了源の死顔を写した物と思われる)にも、その同じ箇所に、明らかに意図的につけられたと思われる1本の傷があるとの事・・・
生前の姿を写した肖像坐像は多々あるものの、死んだ時の姿を後世に残そうとするのは、非常に珍しい事・・・
それは、最高潮に達した時に、その最高責任者が暗殺されるという出来事が、信者にとって、いかに衝撃的であったか、いかに惜しまれる出来事であったかを物語っているようです。
そりゃ、人から人へと伝わる間に桜も咲きます!
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