« 秀吉のもと医療福祉を復活させた施薬院全宗 | トップページ | 会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦 »

2012年12月11日 (火)

成田氏長と甲斐姫と「のぼうの城」と

 

文禄四年(1596年)12月11日、烏山藩の初代藩主となった戦国武将・成田氏長がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

Noboup600c 映画「のぼうの城」の大ヒットで一躍有名になった忍城(おしじょう)の城主の成田氏長(なりたうじなが)さんです。

豊臣秀吉小田原征伐(10月24日参照>>)の中で起こった忍城攻防戦の時は、本店の小田原城に詰めていたので、合戦そのものには参加しない城主さんですが、映画の中では西村雅彦さんが、ちょっとコミカルな感じでイイ味出してはりましたね。

・・・で、せっかく旬なお話なので、蛇足ではありますが、成田氏長に関連して、映画鑑賞直後に書かせていただいた、以前の感想のところ(以前の感想は11月9日参照>>)では、書き切れなかったお話を少々・・・

この映画「のぼうの城」の売り文句の一つに「驚天動地の大逆転実話」とある事から、映画の内容のどこまでが史実なの?と気になってる方も多いと聞きましたが、以前の感想のところでも書かせていただいたように、かなり創作入ってます・・・てか、そもそも、そんだけ沢山の史料が残って無いのが忍城攻防戦です。

むしろ、史料が少ないからこそ、作家さんも創作のし甲斐があるという物で、わからない部分をあったかも知れないような創作で埋めてあるところがオモシロイわけです。
(個人的には、ここをありえない創作で埋めてしまうと昨年のアレのようなドンデモ時代劇になってしまうと思いますデス)

・・・で、以前の感想のところにも書かせていただきましたが、おそらく史実であろうという部分は・・・
「城主の留守を預かるわずかな城兵(通説では500)だけで、
天下人・秀吉の命を受けた
石田三成(いしだみつなり)率いる大軍(通説では20000)に囲まれ、
水攻めまで受けながらも、本店の小田原城が落城するまで抵抗し続け、他
すべての支店が陥落する中で、唯一、秀吉軍に負けなかった城・・・
というおおまかな流れくらいでしょう。

ただ、上記の部分でも、私個人としては「水攻めはあったんじゃないかな?」と思っているので、上記の史実であろう部分に含めましたが、「水攻めは無かった」という見解の専門家さんもおられます。

それこそ、映画のエンドロールを最後までご覧になった皆様も、あるいは現地に足を運んだ事のある皆様も、
「さすがに、石田三成の築いた堤の跡もあるんだから…」
と思われるかも知れませんが、水攻めは無かった派の専門家さんの見解は、そもそも、あの堤は、秀吉の権力を誇示したいがためと、それだけのスゴイ物を見せられた相手をビビらすためのパフォーマンス的な物で、実際に水攻めする前に、本店の小田原城が落ちたので、水攻めは無かった・・・という事らしいです。

確かに、現地の地形を見る限り、水攻めが有効で無い事は明白・・・というのは、どの専門家さんの意見も一致するところで、水攻めがあった派の専門家さんでも、水攻めは「三成の失策」あるいは「現地を見て無い秀吉の無謀な命令に三成が従っただけ」との見解を示しておられます。

その事を考えれば、水攻めは無かった派にも大いに理があり・・・ひょっとしたら、それが正解かも知れません。

ただ、たった500の兵で、20000の大軍を相手に落ちなかった背景には、「きっと、何かあるんじゃないか?」と、誰しもが思うわけで、そこに、水攻めの失敗やら、美人の姫の大活躍やら・・・って話が、軍記物で語られる事になるわけです。

映画で主役となる城代の成田長親(ながちか)も、実際に城代だったかどうかは不明です。

ただ、長親の父で城代を務めていた老臣・成田泰季(やすすえ)が、攻防戦のさ中に亡くなって(病死とも討死とも)しまうし、軍記物の中には「後の事は息子に…」と遺言したなんて話もあるので、おそらく、父の死後は、息子の長親が城代を務めたのだろうという事が想像できるわけです。

長親に関してわかっている事は、その程度ですので、もちろん、田楽踊りを踊った記録もありませんし、領民に慕われていた記録もありません(記録が無い=無かったという意味ではありません)

しかし、そもそも、たった500の城兵で籠城できるはずもなく、そこには、多くの領民が、ともに城内に入って戦ったであろう事が想像できるわけで、「ならば、長親…というより成田氏自身が領民から慕われていたのだろう」事も、これまた容易に想像できるわけです。

また、田楽踊りに関しては、軍記物の記録の中に、水攻めで湖と化した忍城の周囲に、舟を出して、囲む敵兵をあざけ笑うように、領民が歌を歌いながら、漕いで廻ったという場面が出て来るので、そこから、話を発展させれば、映画のような、よりドラマチックな感じになるわけで・・・

そんな中、ご存じのように、忍城が落ちる前に小田原城が落ち、忍城は開城される事になるのですが、この間、軍記物では、ほとんどが、城主・氏長の娘の甲斐姫の活躍が描かれているので、以前書かせていただいた
2008年6月9日【水の要塞・忍の浮城】>>
2011年6月16日【留守を守った成田氏長夫人と甲斐姫】>>
というような話になるわけですが、この甲斐姫の存在自体が、江戸時代の軍記物による創作とも言われています。

忍城を開城するにあたって、城主の氏長は、秀吉に黄金900枚と唐頭(からがしら)の兜18個を献上して命乞いをしたとされます。

そのおかげか、忍城と同じ小田原城の支城という立場にあった城の城主には、合戦後に自刃を命じられた武将もいる一方で、氏長は命が助かり、さらに、その後には烏山(からすやま=栃木県那須烏山市)2万石を与えられています。

その処分の違いについては、確かに、北条政権内での重要人物度という物もあるのでしょうが、最後まで秀吉に抵抗して、しかも小田原戦で、唯一秀吉軍が落とせなかった城というワリには、なんで?という処分のような気もします。

そこで、思い当たるのが秀吉の女好き・・・前にも同じような事がありまたよね?

そう、あの京極高次(きょうごくたかつぐ)です。

本能寺の変の後の天王山(6月13日参照>>)では明智光秀につき、賤ヶ岳の戦い(4月21日参照>>)でも柴田勝家に味方した彼・・・にも関わらず、命助かったばかりか近江(滋賀県)に2万500石を与えられています。

その高次優遇のもとは、メッチャ美人のお姉ちゃん(もしくは妹)龍子(たつこ)・・・美人の姉ちゃんが秀吉の側室となった事で、高次は優遇され、ついた仇名がホタル大名・・・(5月3日参照>>)

高次は、後に、浅井3姉妹の次女・と結婚して、またまた出世するので、姉と嫁の尻の光で出世したという意味でホタル大名と呼ばれたワケですが、

実は、今回の氏長さんにも「ホタル大名」という仇名がつけられてます。

つまり、敵対したにも関わらず領地を与えられる背景に、「美人の娘がいて、秀吉の側室になったんじゃないの?」という発想から、軍記物に甲斐姫が登場し、その存在が大きく扱われる事になったという事・・・なので、甲斐姫には、京極龍子の話を受けた架空の人物ではないか?の疑いがあったのです。

ただし、今年=2012年の8月・・・京都の醍醐寺(12月2日参照>>)が保管している醍醐の花見(4月7日参照>>)の席で詠まれた歌が131首書かれた短冊の中に「可(か)い」と署名された1首がある事が発見されました。

この発見で、確かに秀吉のそばに「かい」と呼ばれる女性がいた事は確実となりました。

残念ながら、史料が非常に少なく、この「かい姫」が、あの「甲斐姫」かどうかを確定するには至らないのだとか・・・でも、夢が膨らむ発見ですね。

新たな史料の発見に期待します。
 .

あなたの応援で元気100倍!

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 秀吉のもと医療福祉を復活させた施薬院全宗 | トップページ | 会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦 »

戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

佐藤浩市演ずる正木丹波守利英って、里見家の内訌で敗れ北関東に散らばった安房上総の里見・正木一族の流れを引くのかな? でも、里見・正木に見られる通字「義、頼、時」等を用いていないところを見ると、また別の流れにも見えますね。

投稿: 野良猫 | 2012年12月12日 (水) 04時16分

アニメ『へうげもの』でたまたま見た一回がこの水攻めシーンでした。三成が「こんな土で堤が作れるか」とぼやいていたら案の定決壊……
もし水攻めが本当にあったら、水底の堆積物の層が何かの発掘調査で見つかってもいい気がします。ため池や洪水の跡と見分けるのが大変とも思いますが。
戦争の話もけっこう不確かな話が多いものですね。

「秀吉の権力を固辞」→誇示

投稿: りくにす | 2012年12月12日 (水) 17時02分

野良猫さん、こんばんは~

さぁ、どうでしょうね。
それこそ、史料少ないですからね~

殿様の成田氏でさえ、伊勢の成田氏と関係があるのやら無いのやらですから、なかなか突きとめるのは容易では無いでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年12月13日 (木) 00時05分

りくにすさん、こんばんは~

ありゃ、また見逃してましたね。
自分で書いた文章は、1回読んじゃってるぶん見つけるのが難しいです。

投稿: 茶々 | 2012年12月13日 (木) 00時06分

Wikiによると「安保氏は、安保実員の庶子・信員が成田家資(「成田系図」上での家助)の娘を娶って成田氏と姻戚関係になっており、信員の孫・行員が祖母を通じて成田氏の所領を継承していた。行員の子・基員は成田氏を名乗り、基員からその子・泰員への継承時には成田氏本領たる成田郷も所有している。このため、安保氏庶流の一族が姻戚関係によって没落した御家人成田氏の領地や名跡を継承していったとみられ、成田系図上は鎌倉期から一貫して続いている戦国時代の忍城主成田氏は、実は安保氏系だと考えられている。」とありますね。
 安保氏嫡流は江戸期に戸田松平家に仕え、明治に至る頃には松本城北門惣堀端の田町に屋敷を構えています。
 誰が主導したやら、松本は廃仏毀釈が激しく、その後の火災などもあって過去帳、古文書などの類はあらかた失われてしまいました。そんな中、安保氏は貴重な古文書http://opac.yokohama-cu.ac.jp/kichosho/ko-2.htmlを有していたようで、この辺り成田氏の実像を浮かび上がらせる一助になったのか、ならなかったのか? ネットには言及した文章は見えませんが興味深いところです。

投稿: 野良猫 | 2012年12月13日 (木) 14時27分

野良猫さん、こんにちは~

専門家の方でも、伊勢成田氏出身で豊臣秀頼の側室となって国松を生んだ女性を、「甲斐姫とは一族」とする方と、「出自は別」とする方がいはるようです。

投稿: 茶々 | 2012年12月13日 (木) 14時53分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 成田氏長と甲斐姫と「のぼうの城」と:

« 秀吉のもと医療福祉を復活させた施薬院全宗 | トップページ | 会えぬ母への思い~福井小次郎の福岡合戦 »