「私はコレで飛ばされました」~浜松藩主・井上正甫の失態
文化十三年(1816年)12月23日、遠江浜松藩・第3代藩主の井上正甫が奏者番を罷免されました。
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井上正甫(いのうえまさもと)の井上家は、徳川譜代の家臣・・・藩主を任されていた場所が遠江(とおとおみ=静岡県西部)浜松という、徳川家にとって大事な場所であった事を見ても、政権内で有力な家柄だった事がわかります。
天明六年(1786年)、おそらく12歳ぐらいだったこの年に、父の死を受けて浜松藩の第3代藩主となった正甫は、その後、第11代江戸幕府将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)のもとで奏者番(そうじゃばん・そうしゃばん=江戸城内の儀式を管理する仕事)をこなしておりました。
そんなこんなの文化十三年(1816年)秋・・・
同じく奏者番をやっていた同僚の、信濃(長野県)高遠藩・第6代藩主の内藤頼以(ないとうよりもち)に招かれて、小鳥狩りに興じておりました。
この小鳥狩りというのは、よく聞く鷹狩りと似た感じですが、野原を馬に乗って鷹を使って狩りをするような大掛かりな物ではなく、下屋敷の敷地内を散歩しがてら、樹木に集う小鳥たちを、いわゆる鳥糯(とりもち)のついた串棒で捕まえるといった遊び感覚重視の物です。
規模は小さいですが、鷹狩りと同様に、日頃のストレス発散には持ってこいで、手軽なぶん、江戸に詰める大名たちには好評のイベントだったのです。
もちろん、この日招かれた正甫も、ここぞとばかりに夢中になって、あちこち小鳥を追いかけ、家臣たちとともに、ひとときのストレス発散をしていたわけですが・・・
ただ、内藤家の下屋敷と言っても、その広さはハンパ無いもんで・・・
私、関西在住なもので、その大きさがよくわからないのですが、現在の新宿御苑全体が、その内藤さんの下屋敷・・・いや、当時は、もっと広かったそうで、そこには、いわゆる庭園の定番とされる華麗な建て物や、いかにも造園しました的な庭はなく、田園風景がそのまま残る物で、気軽に地域住民とともに、その自然を楽しむ憩いの場となっていたそうなのです。
なので、その敷地内には、森林もあり、田んぼや畑もあったそうなのですが・・・
そう・・・あまりに小鳥狩りに夢中になった正甫さん・・・いつしか森林の中に迷い込んでしまいます。
しかも、気づいた時には、連れていた家臣たちともはぐれ、ただ一人・・・
とは言え、基本、下屋敷の敷地内ですから、慌てず騒がず、とりあえず足を進めますが、そうこうしているうちに、喉の渇きを覚え・・・しかし、水筒を持った家臣は、どこかへ行っちゃって見当たらない・・・
しかたなく串棒を片手に持ってブラブラ歩いていると、ふと、1軒の農家が目に止まります。
とりあえず、水を一杯もらおうと、その農家に立ち寄る正甫・・・
夫はどこかに出かけていると見え、若い女房が、一人で対応しますが、それこそ、正甫の身なりを見れば、ただのお侍でないのは一目瞭然・・・
「おそらく、とても身分な高い人なのだろう」
と、やや震えながらおそるおそる湯呑みを差し出す震える手・・・
かしこまって身を縮めながらも、着物の裾から見える健康的な足・・・
おしろいを塗りたくったお屋敷の侍女には無い、そのハツラツとした美しさに、男・正甫・・・グァワ~~ンというキョーレツな音とともに、その理性が吹っ飛びます。
2杯めの水を所望し、女房が、それを手渡すと同時に、その手を引きよせ、強引に、その欲望を貫いたのです。
・・・と、そこへ、ナイスなタイミングで帰宅したダンナさん・・・
「ウチの嫁に、何してくれとんじゃ!」
とばかりに、そばにあった天秤棒で、奥さんに馬乗りになっている正甫に殴りかかります。
慌てて刀を抜いて応戦する正甫・・・一説には、この時、亭主の片腕を斬り落としてしまったのだとか・・・
事態を知って駆けつけた家臣は大慌て・・・事が公になってはマズイとばかりに、ひた隠しに隠して、事の解決に奔走します。
かの夫婦を浜松城下に住まわせ、できる限りの優遇をして口封じに努めますが、壁に耳あり障子に目あり・・・人の口に戸は建てられないものです。
いつしかそれが下々の噂となり、やがて江戸市中に知れ渡り、登城の際には、他の大名の中間(ちゅうげん=武士の雑務を行う従者)たちから「イヨッ!密夫大名!」と声をかけられる始末・・・
*密夫(みっぷ)=情夫・隠れて人妻と不倫する男
もちろん、やがては将軍の耳にも達し・・・
そうなると、さすがに、幕府のおエラ方も、放ったらかしにしておくわけにはいかず・・・
文化十三年(1816年)12月23日、幕府の命によって正甫は奏者番を罷免される事になります。
さらに翌年には、棚倉藩(福島県東白河郡棚倉町)に処罰的な移封・・・いわゆる、「飛ばされました」です。
浜松城…まだ、行った事ないので「無料・許可不要のフリー素材」さん>>からお借りしました~
いつの世も、殿方の理性は崩れやすいものですが、それを崩さないようにするのが男というもの・・・40歳前後の男盛りで、男盛りな失態を犯してしまい、女性を傷つけ、名門・井上家の名にも傷をつけてしまいましたね。
ただし、正甫の後を継いだ息子の正春(まさはる)が頑張ってくれたおかげ、また、井上家の後に浜松に入って老中にまで上り詰めた水野忠邦(みずのただくに)が天保の改革に失敗?(3月1日参照>>)してくれたおかげで、その正春さんが浜松藩主に返り咲き・・・井上家自体は、無事存続する事になります。
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コメント
時代劇かっ!!と、思わずツッコミ。
魔が差すとは言うけれど、言い訳できないでしょうね。
それにしても、敷地内に農家?
それとも、敷地外に出てしまったのでしょうか?
そもそも、それほど広大な土地を、敷地というのでしょうか?
...大名屋敷、パねぇ。
投稿: ことかね | 2012年12月24日 (月) 12時42分
小鳥狩り…
柴田錬三郎の「御家人斬九郎」だったかと思うけど、(記憶が定かでない)、
「鳥刺しは、武家の子どもたちのみに許されていた。それは武術の一環として云々…」
だから、一般の町人や農民の子たちが、鳥を取る事か禁じられていた。
と、云うのを読んだ気がするのだけど…
だから、この小鳥狩り (小鳥刺し)は、「日頃のストレス発散には持ってこい…」と言うより、柴田錬三郎が言う「貧乏御家人」の子供たちの、こずかい稼ぎだったんじゃないかなあ~ と思うんだけど…
でも、浜松藩第3代藩主、井上正甫じゃ、こずかい稼ぎじゃないよなあ~
投稿: 夏原の爺 | 2012年12月24日 (月) 14時21分
ことかねさん、こんにちは~
何か、徳川家康が江戸に入った翌年に、2代めの内藤清成に、功績の褒美として「馬を走らせて回れるだけの土地を与える」と言って、屋敷用地を与えたらしいので、その土地はものすご~く広かったみたいです。
入府の翌年なら、あのへんも、まだまだ野っ原だったでしょうが、元禄時代には、一部を幕府に返還して、そこに新しい宿場町ができ、それが新宿という地名の由来だとされていますので、時代によって敷地も違い、その境界線がややこしい事になってたのかも…
ただ、さすがに敷地内に農家は無いと想像しますので、やはり、「敷地から出ちゃった」という事じゃないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2012年12月24日 (月) 15時31分
夏原の爺さん、こんにちは~
私は小説を読まないので、柴田錬三郎氏の小説の話は知りませんm(_ _)m
江戸時代には、鷹狩りに使う鷹の餌として小鳥がお金になり、それを生業としていた人もいたし、鷹匠の中にはお抱えの「小鳥取り屋」を雇ってた人もいたと聞きますが、
生業とする「鳥刺し」とイベントで行う「小鳥狩り」は別物ではないか?と思います。
鷹狩りも、武将が行うイベントの鷹狩りと、実際に狩猟を生業としてる人とは別のように思いますので…
投稿: 茶々 | 2012年12月24日 (月) 15時47分
新宿御苑は広いですよ、新入社員のお花見で行ったのがはるか昔です。懐かしい。
投稿: minoru | 2012年12月24日 (月) 17時23分
minoruさん、こんばんは~
おぉ、やはり広いのですね~
名前はよく聞きますが、実際に行った事無いもので…(*´v゚*)ゞ
投稿: 茶々 | 2012年12月24日 (月) 20時02分
屋敷内に農家、といったら、マリー・アントワネットのプチ・トリアノンみたいですね。教育用、と何かで読みましたが、いろいろ「趣味と実益」をかねているのだと思います。(国許で作ってる野菜を作らせるとか)
ところで戦後生まれの私は野鳥といえば眺めるだけなのですが、年配の方は捕まえて食べたり飼育したりしたという方が多いですね。カルガモなどを見ては「おいしそう」って。眺めてるだけだと分からないんですが、糯竿だけで捕まるものでしょうか?もっともうちの猫は鳥もちなしで捕まえてましたが…
投稿: りくにす | 2012年12月25日 (火) 22時34分
りくにすさん、こんばんは~
今ではすっかり観光スポットとなった大阪の新世界でも、私が子供の頃には、商店街の焼鳥屋さんの前に、ズラリとズズメが吊ってあり、なかなかの迫力でしたし、天満宮近くのシシ鍋屋の前には、イノシシが2~3頭転がったりしてました。
それを見て、「おいしそう」と思うかどうかは別として、「命をいただいている」という実感はありましたね。
猫がそうであるように、やはり人間も、「生きていかねばならない」と俊敏に行動するようになるんじゃないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2012年12月26日 (水) 00時00分