建礼門院・平徳子の入内
承安元年(1171年)12月14日、平清盛の娘・徳子が、法皇の猶子として入内しました。
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平治元年(1159年)12月に勃発した平治の乱・・・(12月9日参照>>)
ごくごく簡単に言えば、藤原信頼(のぶより)VS信西(しんぜい・高階通憲)の政権争いと言った感じですが、勃発前の平清盛(たいらのきよもり)は信西の息子にも信頼の息子にも娘を嫁がせており、その立ち位置は中立・・・
ただ、清盛が熊野詣でに行ってる最中に起こった出来事で、信頼が信西を殺害(12月15日参照>>)した後に、最初は信頼の味方であったはずの二条天皇(後白河上皇の皇子)の側近たちが反対派に回って手引きした事もあって、清盛は京都に帰るなり、見事な天皇救出劇を決行(12月25日参照>>)して官軍となり、信頼と、彼に協力していた源義朝(みなもとのよしとも)らを撃ち砕きました(1月4日参照>>)。
これで、ライバルを一掃した感のある清盛は、武士として前例の無い参議(さんぎ=朝廷組織の最高機関の官職)となりますが、これは、逆に言えば、貴族ばかりの場所に武士がただ一人のアウェー感満載・・・小うるさい貴族のご機嫌を取りながら事を進めていかねばならないわけで・・・
そこで、動いたのが、清盛の奥さん=平時子(たいらのときこ)・・・彼女は、清盛と同じ桓武平氏ですが、時子らは桓武天皇の孫の高棟王(たかむねおう)から繋がり、公家として宮廷に留まった堂上平氏で、清盛は、その高棟王の弟である高見王(たかみおう)から地方へと散らばったうちの伊勢平氏です(参照:桓武平氏の系図>>)。
そして時子は、堂上平氏が持つ人脈をフル活用して、美人だと評判の自らの妹・平滋子(しげこ)を後白河上皇に送り込み(7月8日参照>>) 、時子自身も二条天皇の乳母となって、天皇家との繋がりを確保したのです。
この作戦は見事成功し、数々の浮き名を流した後白河上皇は滋子に夢中・・・おかげで、後白河上皇の皇子がたくさんいる中、二条天皇の後を継いだ六条天皇(二条天皇の皇子)の時に、滋子の産んだ憲仁(のりひと)親王が、幾多の反対意見を抑えて皇太子となったのです。
同時に、従三位に叙された滋子は、翌・仁安二年(1167年)には女御となり、さらに、その2年後には建春門院(けんしゅんもんいん)という院号まで賜って、後宮の女王となるのですが、同時に、清盛も内大臣から左右大臣をすっ飛ばして太政大臣に・・・
しかし、ここで、その清盛を病が襲います。
仁安三年(1168年)、時に清盛51歳・・・原因は寸白(すびゃく=サナダムシ)だったと言われますが、それこそ、いち時は危篤とまで言われた清盛の病状は、朝廷にも大いに影響します。
この頃は、摂関家とも良好な関係にあったと見えて、九条兼実(くじょうかねざね)も、自身の日記『玉葉(ぎょくよう)』の中で、
「前大相国(さきのだいしょうこく=清盛の事)の所労、天下の大事は只(ただ)この事に在(あ)るなり。
此の人夭亡(ようぼう=若死)の後、弥(いよいよ)以って衰弊(すいへい)か」
と、清盛の病気は天下の一大事・・・亡くなりでもしたら天下は衰退すると、かなり心配してます。
それは、後白河上皇も、そして、何とか快復した清盛も同じ・・・清盛の病状に政情の不安を抱いた後白河上皇は、六条天皇の退位を早めて、皇太子の憲仁親王を高倉天皇として即位させて自らも出家。
清盛も出家して福原(神戸)に別荘を構え、新たなる一手を指します。
それは、大事な持ち駒=次女の徳子を高倉天皇のもとに入内させる事でした。
もちろん、それには、上皇の愛を一身に受ける滋子の働きかけもあり・・・
かくして承安元年(1171年)12月14日夜・・・徳子の乗った糸車に、おびただしい数の女房たちの出車が従い、さらに、公卿や殿上人の御供の行列が加わり、後白河法皇の御所=法住寺殿(ほうじゅうじでん)を出発します。
そう、徳子は、後白河法皇の御所で結婚の身支度を整えたのです。
それは、本来、平家は天皇の后妃を出すような家柄では無いから・・・
一旦、法皇の形ばかりの猶子(ゆうし=契約上の養子)となって、それからお嫁に行ったのですね。
まさに、後白河法皇と清盛の間が、良き関係であったかの象徴とも言えます。
高倉天皇=11歳、徳子=15歳の姉さん女房ですが、天皇はすでに元服前から、乳母である輔局(すけのつぼね)というお姉さまから恋の手ほどきを受けており、おそらく、ソノ事に関しては、徳子より遥かに経験豊富だったようですので、とりあえずはご安心を・・・
ただ、二人の関係は・・・というと、複数の浮き名を流す高倉天皇に対して、徳子の心の内の記録は残っていないので、何とも言えません。
先の、輔局との間には徳子の入内から5年後に女の子が生まれていますし、徳子に仕える召使いの少女=葵の前にも手を出してますし、以前書かせていただいた小督(こごう)との悲恋物語(1月14日参照>>)も超有名・・・
ただ、戦国時代の政略結婚がそうであるように、徳子も、ただの色恋で入内するわけではなく、それこそ、己の肩に平家一門の将来がかかっている事も重々承知で、浮き名を流す殿方の動向になど微動だにせず、自らの成すべき事をしっかりと見据える強い信念を持っていたに違いないでしょう。
徳子の入内から2年経った承安三年(1173年)の冬に、徳子の女房として仕える事になった右京大夫(うきょうだいぶ)は、その歌集の中で、翌年の元旦に、高倉天皇が徳子の御座所にお渡りになる姿を、廊下の影からコッソリと見て
♪雲の上に かかる月日の ひかりみる
身のちぎりさへ うれしとぞ思ふ ♪
と歌に詠みました。
長い御引直衣(おひきのうし)(どんなんかは風俗博物館のサイトで>>別窓で開きます)をまとった天皇に、唐衣(からぎぬ)・裳(も)・小袿(こうちぎ)・表着(うわぎ)に五衣(いつつぎぬ)を重ね(←いわゆる十二単です)正装した中宮・徳子・・・
恐る恐る垣間見た二人の姿が、まるで雲の上にかかる日と月のように、いかにも美しく、感動のあまりに詠んだのです。
私としては、なんだかんだで、ステキなご夫婦であってほしいなぁヽ(´▽`)/
やがて、入内から7年後の正月、にわかに病の床についた徳子・・・
寺の読経か神社の祈祷・・・はたまた、医者か薬か陰陽師かと慌てふためく清盛に、それが、徳子からの人生最高のプレゼント=妊娠とわかるのは、まもなくの事・・・。
後の安徳天皇(3月24日参照>>)の誕生です。
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コメント
すごくわかりやすいです。
平治の乱に興味がわきました。
投稿: starfield | 2012年12月15日 (土) 21時05分
starfieldさん、こんばんは~
わかりやすいと言っていただけるとウレシイです。
また、遊びに来てください。
投稿: 茶々 | 2012年12月16日 (日) 01時27分