独立して弘前藩の祖となった津軽為信
慶長十二年(1607年)12月5日、服属していた南部氏からの独立を果たし、江戸時代を通じての弘前藩の祖となった津軽為信が58歳で亡くなりました。
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様々な伝承があり、その出自が謎に包まれている津軽為信(つがる ためのぶ=爲信)ですが、今のところ、南部氏一族の久慈治義(くじはるよし)の次男だった平蔵(へいぞう)が、家庭内のモメ事から家出して津軽(青森県弘前市)に逃避行・・・一族の南部大浦氏を継いで大浦姓を名乗った人物が為信=その人だというのが定説とされています。
その為信は、18歳になった永禄十一年(1568年)に南部氏の支城・大浦城(弘前市)の城主となりますが、ここで、宗家=南部氏からの独立を決意します。
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南部氏が、その一族の中でも最大の勢力を誇る九戸氏(くのへし)とのモメ事にアタフタしているのをチャンスと見た為信は、天正九年(元亀二年=1571年説もあり)、津軽における南部氏の拠点とも言うべき石川城(同じく弘前市)を、謀略とも言える手段を使いながら、わずかの兵で攻略し、南部家当主の叔父にあたる城主・石川高信(たかのぶ)を自刃に追い込みます(生存説あり)。
その後、和徳城(わっとくじょう=同じく弘前市)、大光寺城(だいこうじじょう=青森県平川市)、浪岡城(なみおかじょう=青森市)・・・さらに、油川城(あぶらかわじょう=同じく青森市)、田舎館城(いなかだてじょう=南津軽郡田舎館町)、横内城(青森市)、飯詰高楯城(いいづめたかだてじょう=五所川原市)など・・・次々と攻略して行き、天正十七年(1589年)には、津軽地方にあった南部氏の諸城をほぼ降伏させてしまいます。
これらの諸城の攻略の経緯に関しては、それぞれの史料によって年代が違っており、諸説あるのですが、最後に、為信が、事実上の津軽統一を成し遂げたのが天正十七年(1589年)というのは、ほぼ間違いが無いようです。
それは、その翌年の天正十八年(1590年)に、あの豊臣秀吉の小田原征伐(3月29日参照>>)・・・
これまで何度か書かせていただいていますように、この時、小田原を攻める秀吉は、未だ、手つかずだった東北地方の諸将に、「君も参戦せぇへんか!」と声をかけ、その動向を見たのです。
もはや、南は四国(7月26日参照>>)や九州(4月7日参照>>)も手に入れ、北は越後(新潟県)の上杉をも傘下に入れ(6月15日参照>>)、太政大臣になって豊の姓まで賜った秀吉が(12月19日参照>>)、その意に従わぬ最後の大物=北条氏を攻めるのです。
そこに参戦をうながして、
「君ら、この先、どうすんねん?僕と一緒になるんか?なれへんのか?」
と問いかけてるわけです。
とは言え、東北の諸将には、歴史の古い名家も多く、「新参者の秀吉に従うなんて!」と眉をひそめる人多々あり・・・以前も書かせていただいたように、あの伊達政宗だって、家内の意見が真っ二つに割れ、大いに悩んだのです(4月5日参照>>)。
そんな中、東北からいち早く駆けつけたうちの一人が、為信だったのです。
とるものもとりあえず、わずか18人の手勢を従えて、春先の2月に津軽を出立した為信は、未だ小田原に進軍中の秀吉に沼津(静岡県)で謁見し、忠誠を誓います。
わずかな数ではあるものの、遠い北の地から、いち早く馳せ参じてくれた為信のフットワークの軽さを大いに喜んだ秀吉は、彼の忠誠心を褒め、
「津軽三郡、会わせ浦一円の所領安堵」・・・合計3万石の朱印状を与えるのです。
豊臣政権公認の大浦城主となった為信・・・つまり、ここで南部氏から独立した事になります。
もちろん、同時に、大浦為信から津軽為信に改名・・・弘前藩となるのは、当然、徳川政権下ですが、その基礎は、この時から・・・以前書かせていただいた松前藩の蠣崎慶広(かきざきよしひろ)(1月5日参照>>)と、同じ手法で、同じ独立を果たしたのです。
ただし、この行動に、宗家の南部氏は、おかんむり・・・「反逆の臣」と津軽氏の事を罵り、両者の確執は、江戸時代になっても消える事は無かったと言います。
やがて訪れた関ヶ原の戦いでは、東軍として参戦しますが、一方では嫡男の信建(のぶたけ)が、豊臣秀頼(ひでより)の小姓として大坂城に詰め・・・と、どうやら、真田&前田同様の二股作戦を展開して、見事、生き残ります。
慶長八年(1603年)には、後に弘前城と呼ばれる事になる新城の構築に取り掛かりますが、未だ城が完成せぬ慶長十二年(1608年)、病気になった信建を見舞うべく京都に向かいますが、残念ながら間に合わず・・・
信建は父の到着前の10月に亡くなってしまいます。
息子の死がこたえたのか?・・・
続く、慶長十二年(16087年)12月5日、為信も、また、京都にて、その生涯を閉じます。
当主と、その後を継ぐべき嫡男を、ほぼ同時に失った津軽氏では、後継者を巡ってお家騒動が勃発するのですが、何とか切り抜け、為信の築いた弘前藩は、なんとか無事、明治維新を迎える事となるのです。
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コメント
南部からの独立があった為か、ゲームでは不義理でしょっちゅう裏切る奸雄のイメージが津軽為信にはありました。
しかし以前、弘前城を観光しに行った際、明治の廃藩まで豊臣秀吉の木像が、城内でこっそり祀られていたという話を聞き、ちょっと印象が変わった気がします。
独立した領地を安堵してくれたことを、徳川の世になってからも感謝していたのでしょうか。
投稿: | 2012年12月 6日 (木) 00時54分
>明治の廃藩まで豊臣秀吉の木像が、城内でこっそり祀られていた
そのお話は知りませんでした!
感動しますね~
大阪城大好きな私としては、泣きそうです。
機会があったら弘前城に行ってみたいです!
投稿: 茶々 | 2012年12月 6日 (木) 02時22分
津軽為信に関して調べていたら、時系列がわかるブログありがとうございますm(_ _)m…
ひとつだけ、ご指摘させていただきますが、慶長十二年は、1607年かと思います。
投稿: | 2014年9月15日 (月) 17時01分
アッ!ホントですね。
旧暦の12月は西暦変換の時に気をつけねば…と思いながら、やっちゃってましたね。
訂正させていただいときます。
ありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2014年9月16日 (火) 01時35分
弘前藩の礎を築いた津軽為信は、真田昌幸と同様に、策略家と言っても過言ではないでしょう。何しろ為信は、対立していた南部信直よりも先に、豊臣秀吉と対面を果たしたことで、独立に成功しました。信直にしてみれば、為信に対して、苦々しく思って当然だと思いますが、為信は、すぐに実行に移せるほどの、危機管理能力を持っていたに違いありません。ただし、NHK大河ドラマに登場しないのが残念ですね。
投稿: トト | 2016年3月20日 (日) 22時51分
トトさん、こんばんは~
津軽為信は、フットワークの軽さで独立を果たしましたね。
投稿: 茶々 | 2016年3月21日 (月) 01時57分