伊勢平氏=平正盛の出世のキッカケ「源義親の乱」
嘉承二年(1107年)12月19日、出雲にて反乱を起した源義親の追討を命じられた平正盛が、京都を出立しました。
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あの源頼朝(みなもとのよりとも)が、
「我は、かの八幡太郎義家が子孫」
と称して、配下の武士の統率を図った事でもお解りのように、源義家(みなもとのよしいえ)の存在は偉大で、源氏の武勇の誇りでもありました。
ただし、あの後三年の役が、朝廷から「私的な合戦に関与した」とみなされた事で、恩賞にはありつけず(10月23日参照>>)・・・この時、義家は、やむなく、自らの私財を投じて、手柄のあった東国武士に恩賞を与えたと言います。
まぁ、それが、東国武士と源氏の信頼関係に繋がったのかも知れませんが・・・
とは言え、義家が、武士として初めて院昇殿を許される栄誉を得たという事もあり、当時は、義家に対抗しうるほどの武士がいなかった事も確か・・・
しいて、義家の河内源氏のライバル的存在と言えば、あの酒呑童子(しゅてんどうじ)退治(12月8日参照>>)の武勇が光る源頼光(みなもとのよりみつ・らいこう)から枝分かれした摂津源氏ですが、彼らの勢力は、あくまで畿内にあって東国へ向かう事はなく、河内源氏とも協調の姿勢をとっていました・・・(清和源氏の系図を参照>>)
当時、朝廷の実質的な指導者として政治の実権を握っていたのは院政をしく白河法皇(11月26日参照>>)でしたが、そんな法皇は、自らの意のままにならない比叡山の僧兵の武力とともに、やはり、源氏の武力にも恐れていたわけで・・・
そんな白河法皇が目をつけたのが、未だ源氏ほどの武力は持たない新興勢力の平正盛(たいらのまさもり=清盛の祖父)ら伊勢平氏(桓武平氏系図を参照>>)・・・彼らに目をかけ、自らの手足となる武士に育てる事によって、源氏や僧兵の武力に対抗しようと考えていたワケですが・・・
そんなこんなの康和三年(1101年)夏・・・太宰大弐(だざいのだいに=大宰府の次官)である大江匤房(おおえまさふさ)が、対馬守(つしまのかみ)だった源義親(みなもとのよしちか)一派が、人を殺害したり強盗を働いたりしているとの悪行の数々を、朝廷に訴えます。
「すぐに追討すべし!」
の声が朝廷で上がる中、それを抑えたのが義家・・・実は、この義親さん、義家の息子です。
父親として、なんとか公家たちを抑えて、配下の藤原資通(ふじわらのすけみち)を義親のもとに派遣し、「速やかに京都に戻るよう」説得させるのですが・・・なんと、義親は京に戻るどころか、逆に資通を味方に引き入れ、ともに現地の役人を殺害してしまうのです。
結局、その反乱の翌年に捕えられて、義親は隠岐へと流され(配所に行かなかった説もあり)、配下の者も、それぞれ周防(すおう=山口県)や阿波(あわ=徳島県)に流罪となりました。
本来なら極刑は免れないところを、やはり、ここでも義家がわが子の減刑のために一肌脱いだと言われ、一説には、この時点で、義親を飛び越えて、そのの息子=つまり自身の孫にあたる源為義(みなもとのためよし・義朝の父で頼朝の祖父)を後継者に指名していたとも言われます。
こうして、しばらくは隠岐にておとなしくしていた義親・・・しかし、ここで、偉大な父=義家が亡くなります。
嘉承元年(1106年)・・・この時、為義は、まだ11歳でした。
おそらく、この父の死のニュースを聞いて、「俺が源氏を盛り上げねば!」を思ったであろう義親・・・翌年、隠岐を脱出して出雲(いずも=島根県東部)へと渡り、出雲国の目代(もくだい=国司の代理)とその従者を殺害して、多くの物品を奪いました。
これが、世に言う源義親の乱ですが・・・
記録の中に、殺害やら強盗やらの文字を見ると、確かに悪行なわけですが、先ほども書かせていただいたように、説得に向かった資通が味方になってしまう事や、その勢力が数カ国に渡っていたとも言われる様を踏まえると、義親の行為は、ただの悪行ではなく、そこに何かしらの政治的背景があるような気がしないでも無い・・・ただ、そこのところは、記録に残っていないので、何とも言えません(;ω;)
とにもかくにも、これにて朝廷は、義親の追討を決定・・・その追討使に選ばれたのが平正盛でした。
かくして嘉承二年(1107年)12月19日、義親の留守宅に3本の鏑矢(かぶらや合戦の合図となる矢)を射込んだ後、京の町を出立した正盛は、年が明けた正月6日に出雲へと入りました。
戦いの詳細について伝わっていないのが残念ですが、どうやら、正盛は、わずか数日のうちに、この合戦で勝敗を決したとされ、1月19日には、
「出雲国で、義親と、その配下4名の首を討ち取った」
との報告が朝廷に届きました。
この知らせを聞いた白河法皇は大いに喜び、ただちに正盛を但馬守(たじまのかみ)に任命し、その息子たちも、それぞれに昇進したとか・・・
やがて1月29日・・・討ち取った義親の首を掲げて、正盛は凱旋帰国・・・
4人の首を矛先に掲げた下人5人を先頭に、甲冑をつけた4~50人の歩兵が続き、次に捕虜を従えた馬上の正盛・・・さらに、弓矢を持った兵&郎党が200人も連なる大行列が都大路を練り歩き、京中の男女が見物人となって、「人々が狂うがごとし(中右記)」に熱狂して出迎えたと言います。
まさに、伊勢平氏=平正盛が、一躍名を挙げ、この後の清盛の威勢にもつながる出来事となったわけですが、一方では、その行列を見る人々から、
「あれは、ほんまに義親の首やろか?」
という疑問が投げかけられます。
「未だ、ポッと出の正盛に、義家以上の武勇の持ち主と言われる義親が、そう簡単に討ち取られるはずは無い!」
という思いが、京都市民にはあったようですが、それこそが、義親の反乱が、ただの悪行では無かった事を意味しているような気がします。
それを裏付けるかのように、
「義親は生きている」の噂が流れ、
あちこちに
「我こそ義親なり!」
と義親を名乗る者が現われたとの事・・・
まぁ、その多くはニセ者であり、大事になる事なく鎮圧されてしまうのですが・・・
なんせ、この事件から20年経った大治四年(1129年)8月に、関白・藤原忠通(ふじわらのただみち)が時の崇徳(すとく)天皇に、
「坂東から来た源義親なる者が一条のあたりに隠れているらしい」
てな事を報告していますので、いかに義親生存の噂が根強かったかが伺えます。
この義親の生存説や、以前の義家時代に築かれた東国武士と源氏との関係から、伊勢平氏は東国へと勢力を伸ばす事はできなかったのですが、そのぶん、天皇家の手足となって活躍する事で、勢力をのばしていくのです。
今回、反乱を起こした義親の孫が源義朝(みなもとのよしとも)・・・
朝廷の命令で、その謀反人を追討した平正盛の孫が平清盛(たいらのきよもり)・・・
大河ドラマ「平清盛」では、ともに源氏&平家の御曹司としてライバル関係にあった二人ですが、清盛の誕生がこの事件の10年ほど後で、義朝はさらに5歳年下ではあるものの、その誕生の時点で、朝廷側から見て、少々、印象の違う立場にあった御曹司だった事が伺えますね。
もちろん、ドラマとしては、ライバルの方がオモシロイのですが・・・
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コメント
こうして見ると、義家さんや為義さんは苦労しているんですね。為義さんにとっては平氏は父の敵ということでしょうか。
最近学校で、平家物語「木曾の最期」を勉強したのですが、最後の方に、参考「祇園精舎の鐘~」と冒頭が書かれていました。
そこでは「康和の義親」と平将門、藤原純友、藤原信頼と悪者としてならんでいるんですね。
初めて見た時、「えっ、誰?∑(=゚ω゚=;)」と思って辞書で、藤原とか平とかと、めぼしい姓をあてて探しました。(友達にもちょっと手伝ってもらいました)
英雄的存在の父親から極悪人のような息子が育つのはちょっと考えにくいですし、義親さんにも本人なりの思いがあったのだと私も思います。義家さんも息子とはいえ極悪人を庇ったりしないでしょうし。
今年度は世界史Bを勉強しているので、
なかなか日本史に触れる機会がないです(´・ω・`)
とはいえ世界史Bもとてもたのしいですけどね。おかげで中国の春秋戦国時代にはまりました。
ですがやっぱり日本史が恋しいです。(なんかすいません、関係ないことを)
投稿: ティッキー | 2012年12月22日 (土) 22時10分
ティッキーさん、こんばんは~
平家物語…
「近く本朝をうかがふに…」のところですね。
そして、今、勉強されているのが「遠く異朝をとぶらへば」ですね...
私は、世界史の時間は「いったい何をやったんだろう?」と、今では、まったく記憶にない状態ですので、ホント、お恥ずかしいです。
頑張ってくださいネ。
投稿: 茶々 | 2012年12月23日 (日) 03時07分