2人の天下人に運命を翻弄された八条宮智仁親王
天正十七年(1589年)12月29日、第106代正親町天皇の孫の智仁親王が、豊臣秀吉の猶子を解かれました。
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智仁(としひと)親王は、正親町(おおぎまち)天皇の第5皇子である誠仁(さねひと)親王の第6皇子です。
正親町天皇は、あの織田信長に、東大寺・正倉院の蘭奢待(らんじゃたい)を削り取らせてあげたり(3月28日参照>>)、盛大な御馬揃えを見物したり(2月28日参照>>)、何かと交流していた天皇様ですが、この正親町天皇が、信長亡き後に、明智光秀(6月13日参照>>)や柴田勝家(4月21日参照>>)を倒し、さらに、小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)や紀州征伐(3月17日参照>>)を経て、事実上トップに立った豊臣秀吉を、天正十三年(1586年)に関白に任命し、その翌年に、後継者に譲位する事を決意するのですが、
その時には、正親町天皇の皇子である誠仁親王が亡くなっていたので、その第1皇子(つまり孫)の和仁(かずひと=後に周仁)親王に皇位を譲って、この和仁親王を第107代後陽成(ごようぜい)天皇として即位させたのです。
この後陽成天皇に対して、秀吉は、あの聚楽第(じゅらくだい)に天皇を招いて盛大におもてなししたり(4月14日参照>>)、逆に、秀吉が小田原征伐(11月24日参照>>)に向かう時には、天皇がわざわざお出ましになって、その出陣を見送ったり・・・という、なかなかに良好な関係だったわけですが、
そんな関係を象徴するかのような出来事が、天正十六年(1588年)、その後陽成天皇の8歳年下の腹違いの弟=智仁親王を、秀吉の猶子(ゆうし=契約上の養子)にする事でした。
もちろん、そこには、単なる仲良しだけではなく、秀吉の思惑もあったわけですが・・・そう、この時の秀吉には、まだ実子が生まれていなかったのですね。
ご存じのように、ほぼ天下を掌握した秀吉は、はじめは征夷大将軍の座を狙いますが、これまでの先例として「ここのところの征夷大将軍には源氏しか任命されていない」という事があったため、何とか、信長に京を追われた足利義昭(よしあき)(7月18日参照>>)の養子となって源氏になろうとしますが、プライドの高い義昭に断られ・・・
そうなると、主君の信長が平氏を名乗っていた事から、自分も平姓を名乗って左近衛権少将(さこのえごんのしょうしょう)に任じられた経験のある秀吉は、あの平清盛にならって太政大臣になるか、いっその事、藤原氏になって関白になるかなワケですが・・・
と、その時に、たまたま近衛前久(このえさきひさ)が関白を退いた後に関白となった二条昭実(にじょうあきざね)に物言いをつけたライバルの近衛信尹(のぶただ)が、お互いに譲らずにいて、次の関白が決まらないという出来事があり、秀吉と太いパイプを持つ右大臣の菊亭晴季(きくていはるすえ)が秀吉が関白になる事を強く推し勧め、結局、金に物を言わせて近衛前久の猶子となった秀吉が、藤原姓となって関白についた・・・というわけで、
つまり、秀吉の関白就任は特例中の特例なわけで、そんな秀吉に子供がいないとなると、その関白の座は1代限りになる可能性が高い・・・
そこで、関白に成り得る血筋の優秀な人物を身内として取り込んで、その人物に次の関白になってもらえば、自分は太閤(たいこう=関白職を退いた人)として、その後も権力を振れる・・・これが、秀吉が智仁親王を猶子にした最大の理由なわけです。
この時、智仁親王は11歳・・・その運命が大きく動いた年でした。
ところがドッコイ・・・運命とは何と皮肉な事か!
その翌年に、秀吉と淀殿(茶々)の間に男の子=鶴松が誕生するのです。
そうなると、「関白は実子に継がせたい」と思うのが人の常・・・
もはや、猶子の智仁親王は邪魔者でしかなく、むしろ、将来、我が子と関白を争う敵となる存在です。
かくして天正十七年(1589年)12月29日、秀吉は智仁親王との猶子関係を解消・・・智仁親王にとっては「なんじゃ!ソラ」とツッコミまくりのドタバタ劇・・・
その翌年には新たな宮家=八条宮(はちじょうのみや)家を創設して、智仁親王を当主としたのです。
秀吉の気分で突然運命が変わり、またまた突然変わった智仁親王・・・12歳ともなれば、もう、だいたいの事は理解できているでしょうから、その心はいかばかりであったでしょうか・・・
いや、聡明な智仁親王は、むしろ、その状況を見事に理解し、慌てず騒がず、和歌などの古典文芸に打ち込む事で、動けば立つ波風を抑える事に徹するのです。
そうです・・・ご存じのように、この鶴松という秀吉の息子は、わずか3歳で亡くなり、失望した秀吉は、姉=ともの息子である秀次を養子に迎えて、天正十九年(1591年)、この秀次に関白職を譲りますが、その2年後に、淀殿が秀頼を生んだ事から、結局、文禄四年(1594年)に、秀次は高野山へ追放され、切腹を命じられました(7月15日参照>>)。
智仁親王が猶子を解かれてから、わずか5年間に起きた一連の出来事・・・この時17歳になっていた親王は、この出来事をどのように受け止めていたのでしょうか?
それこそ、最も多感な時期に、大きなショックを受けたであろう事は想像できますが、それを跳ね除けるかのように、さらに歌の道に打ち込んだ親王は、関ヶ原の合戦があった慶長五年(1600年)には、細川幽斎(ゆうさい・藤孝)から『古今伝授(こきんでんじゅ)』(古今伝授については7月21日の後半部分を参照>>)を授かっています。
しかし、この同じ年、またしても、智仁親王を翻弄させる出来事が・・・
それは、かの後陽成天皇が、息子の政仁(ことひと)親王との折り合いが悪く、弟である智仁親王に皇位を譲りたい!として、徳川家康に、その事を打診したのです。
ところが、家康は、例え一時であったとしても智仁親王が秀吉の猶子であった事実を嫌い、猛反対・・・
結局、家康が首を縦に振る事はなく、慶長十六年(1611年)、家康が強く推す政仁親王が後水尾(ごみずのお)天皇として即位します。
そう、この後水尾天皇が、家康の息子=秀忠の娘=和子を中宮に迎える天皇です(4月12日参照>>)。
2度に渡り、天下人に翻弄された智仁親王・・・しかし、文化芸術に優れ、造園の才能もあった智仁親王は、この頃から、自らの領地であった京都の下桂村(京都市西京区)に別荘を築き始めます。
これが、現在の桂離宮・・・残念ながら智仁親王自身は、その造営中の嘉永六年(1629年)4月7日に51歳で亡くなりますが、その志しは、息子の智忠(としただ)親王に引き継がれ、ご存じのように、この桂離宮の庭園は、日本庭園として屈指の名園に仕上がりました。
また、智仁親王が授かった『古今伝授』は、後水尾天皇に受け継がれ、以来、『古今伝授』は宮中で受け継がれる事となります。
自らの預かり知らぬところで、その運命を翻弄されながらも、卑屈になったりヤケになったりする事なく、自らの進む道をしっかり見据え、歌の道と名園という芸術的遺産を未来に残した智仁親王・・・
天皇にも関白にもなれなかった皇族ですが、その存在は大変大きい人物だと思います。
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