未曽有の大災害~天明の大飢饉
天明三年(1783年)12月16日、前年から続いていた悪天候と冷害に、火山の噴火によって拍車がかかった飢饉に対して、江戸幕府が向こう7年間の倹約令を発布しました。
寛永・享保・天保と並ぶ江戸四大飢饉の一つ・・・天明の大飢饉です。
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そもそも、【最近気になる平安時代は今より温暖化だった?話】>>でお話させていただいたように、戦国から江戸にかけての時代は、小氷期と呼ばれる寒い時代だったワケで、あの大坂夏の陣の1ヶ月後の慶長二十年6月1日(西暦に換算すると1615年7月9日)に、江戸一帯に雪が降った(7月9日参照>>)なんて話もにわかに信じ難く、まさに小氷期のなせるワザって感じです。
んなモンで、冬は寒さ厳しく、夏も冷涼で多雨・・・農作物に多大な被害が出る事が多々あったワケですが、世に「田沼時代」と呼ばれる田沼意次(たぬまおきつぐ)が老中を務めていた時代は、特に自然災害が相次いでいます。
意次が老中に就任した明和九年(1772年)には、7月に九州で暴風雨が起こり、8月には、上旬に関東・東海地方、下旬には中国・四国・近畿などが暴風雨と洪水に見舞われた記録が残っています。
以前書かせていただいたように、それに大火がプラスされて、「明和九年は迷惑年」として、元号を安永に変えたくらいですから・・・(2月29日参照>>)
なので、毎年のように悪天候に見舞われていたこの頃から、天明の大飢饉への兆候があったわけですが、その決定打となったのが、天明三年(1783年)3月12日の岩木山と、続く7月6日に起こった浅間山の大噴火です(7月6日参照>>)。
ご存じのように、火山の噴火とは、直接的に被害に遭う地域は限られているものの、噴煙による日照量の低下によってもたらされる冷害の範囲となると、それはもう、広大なもの・・・
この浅間山の噴火では、風と共に広がった噴煙と灰が東北地方一帯に広がり、多大な被害を与えたのです。
飢饉となった村々では、牛や馬や犬・・・草木は根っこに至るまで食べつくしても、まだ足らず・・・食べる物がなくて餓死する人が後を絶ちませんでした。
研究者の調べによると、仙台藩では人口約70万人のうちの約30万~40万、八戸藩では約6万5000人のうち3万余人の人が餓死したとか・・・
なので、残る史料にも、書くのもはばかられるような悲惨な光景が記録されています。
杉田玄白の『後見草(のちみぐさ)』には津軽であった「死んだ子供を親が食べる話」とか、八戸の町人・晴山忠五郎が記した『天明三癸卯ノ歳大凶作天明四辰ノ歳飢喝(けかち)聞書』には、「餓死した母を娘が食べたり、姑が食糧を隠して自分だけ食べていて、やむなく嫁が我が子を…」なんていう話があります。
また、紀行文で有名な菅江真澄(すがえますみ)は、自身の日記『外が浜風』に、「陸奥に立ち寄った時、五所川原近くに、人骨が散乱していた」と書き残しています。
『凶荒図録』(小田切春江)より…「大飢饉の村郷は 食物の類とては 一品もなく牛馬の 肉はいふも更なり 犬猫までも喰尽くし されどもつひには命を 保ち得ずして餓死 せしも数多(あまた)ありし」の文があります。
また、飢饉となれば餓死者のみならず、疫病も流行りますし、今度は、そこから逃げようという人が都市部へと移転し、それこそ、そんな人たちは食べる物にも困っているわけですので、移転した先で良からぬ行為に走り、町の治安も悪くなるわけで・・・
被害は被害を呼び、それはやがて全国的に広まって行きます。
早くも天明三年(1783年)9月に上野(こうずけ=群馬県)の安中藩で米の価格の高騰に抗議する打ちこわし(暴動)が発生し、やがて、それは信州(長野県)へと広がり・・・さらに・・・
もちろん、幕府も対策を講じます。
豪商や豪農に献金を募り、その資金で救小屋(すくいごや)を設置したり、炊き出したり・・・被害に遭った農民には年貢の減免、そして本日、天明三年(1783年)12月16日の倹約令の発布などなど・・・
しかし、もはや、それらの対策も焼け石に水・・・一揆に打ちこわしは治まる事を知らず、盗みや放火をする者も後を断ちませんでした。
やがて、幕府の中心人物である意次に不満が向けられます。
もちろん、以前、彼が蟄居となった日の【賄賂政治家・田沼意次の汚名を晴らしたい!】>>でもお話させていただいたように、噴火や冷害などの天災は彼のせいではありません。
しかし、有意義な対策できなかった幕府・・・いや、例え、今、考え得る限りの対策をしたとしても、結果が出なければ同じ事・・・
さらに、幕府の中には、もともとの反意次派もいるわけで・・・で、結局、天明六年(1786年)8月25日の第10代将軍・徳川家治の死(8月25日参照>>)をキッカケに意次は失脚するのです。
(厳密には天明六年(1786年)8月26日に老中御役御免、翌年10月2日に蟄居です)
そして、その代わりのごとく浮上して来るのが、その意次に個人的恨みを持ってるかも知れない松平定信(まつだいらさだのぶ)なワケですが・・・
実は、この定信が白河藩(福島県)11万石の藩主に就任するのが、奇しくも、この天明三年(1783年)・・・就任間もなく飢饉と直面した定信は、いち早く、遠くは大坂まで手を伸ばして米を大量に仕入れ、さらに、疫病対策の薬も早いうちから確保し、さらに雑穀や干し大根、海藻類など、とにかく、まだ飢饉が本格的になる以前に、見事な采配で買い集めていたのです。
おかげで、白河藩では、ただ一人の餓死者も出なかったとか・・・
これが、「白河藩に名君あり」との噂となり、一気に幕府内で昇進していくわけですが、さすがに、意次が失脚してすぐに・・・というワケには行かず、もうワンクッション・・・
それが、意次が老中御役御免となった翌年=天明七年(1787年)5月に江戸で起きた大規模な打ちこわしでした。
さすがに将軍のお膝元で起こったこの事件・・・飢饉に餓死者を出さなかった名君=定信を推す声が挙がり、この年の6月、30歳という若さで老中に就任・・・かの寛政の改革に着手する(6月19日参照>>)事となります。
ちょうど同じ頃には、京都にて、幕府の対策不足に業を煮やした民衆による「御所千度参り」も発生(11月18日参照>>)・・・改革を急がねば!
ただし、この改革も、
♪白川の 清きに魚 すみかねて
元の濁りの 田沼恋しき ♪
て風刺される事になるので、諸手を挙げての万々歳とは行かなかったようですが・・・
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