秀吉のもと医療福祉を復活させた施薬院全宗
慶長四年(1599年)12月10日、豊臣政権下で侍医として活躍した施薬院全宗が亡くなりました。
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施薬院全宗(やくいんぜんそう)の前半生は僧侶・・・
亡くなった年齢が80歳と言われていますので、50歳前後の頃でしょうか???
それまでは、僧として比叡山延暦寺にいた全宗は、元亀二年(1571年)・・・あの織田信長の比叡山焼き討ちをキッカケに還俗(げんぞく=出家していた人が一般人に戻る事)します。
信長の比叡山焼き討ちが通説の通りに(2006年9月12日参照>>)、全山を焼きつくすほどの猛攻撃だったとしたら延暦寺伽藍が壊滅状態となったから・・・
私が想像するように、焼き討ちの規模が大した事無い(2007年9月12日参照>>)なら、僧侶たちの墜落に嫌気がさして・・・
と、それこそ、その理由は想像するしかありませんが、父も祖父も僧侶だった全宗にとって、50にして寺を出て一般人となるという事は、なかなかの決心だった事でしょう。
その後、京都にて、天下の名医と呼ばれていた曲直瀬道三(まなせどうさん)に(1月4日参照>>)に師事し、医学の奥儀を体得します。
しかし、全宗は、一町医者で我慢できる人ではなく、その心の内に壮大な夢を持ち、そのために医学を学んだようなもの・・・だったと思います(あくまで、今後の成り行きを見ての想像です)
なんせ、酸いも甘いも噛み分けた齢50・・・
「正義の無い力は暴力なり、力の無い正義は無力なり」
いくら正しい事をやろうとしても、力が無ければ何もできない事は重々承知・・・
なんと、彼は、自ら、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)のもとへ、自分を売り込みに行くのです。
・・・と言っても、この頃の秀吉は、未だ、信長から山陽方面の平定を任されている状態の一家臣・・・この先、織田政権内で、どれほどの位置まで昇れるかは未知数だったわけですが、彼もまた、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)(9月23日参照>>)のように、秀吉が異例の出世を遂げるであろう事を見抜いていたのかも知れません。
こうして、秀吉の主治医となった全宗・・・
やがて、秀吉が備中高松城を包囲している真っ最中(4月27日参照>>)の天正十年(1582年)6月2日・・・あの本能寺の変が起こります(2007年6月2日参照>>)。
この時、そばにいた黒田如水(じょすい・官兵衛孝高)の進言を受けて、秀吉は、弔い合戦として明智光秀を討つ事を決意をする(6月6日参照>>)わけですが、この時、秀吉が、自らが中国大返しをするより先に、光秀との交渉という特命を与えて上洛させたのが全宗でした。
もと僧侶のお抱え医師という立場は、当然、これまでは光秀とも親しく接していたでしょうし、両者が敵対関係になった後でも、医師なら、真っ先に敵対する立場では無いわけで・・・そういう意味で、うってつけの使者だったという事でしょう。
『武功雑記』によれば、この時、秀吉は全宗に「道中の身の安全のために…」と1本の槍を渡し、「3日の内に畿内に戻るので、直接勝負しよう」という伝言を授けたとか・・・
その後、ご存じのように、その光秀を討って(6月13日参照>>)、織田政権内での立場を向上させた秀吉は、家臣の筆頭だった柴田勝家を倒し(4月23日参照>>)、徳川家康を傘下に入れ(10月27日参照>>)、前後して四国(7月26日参照>>)、九州(4月17日参照>>)・・・そして最後の大物=小田原北条氏(7月5日参照>>)と来て、その後の奥州仕置き(9月4日参照>>)・・・となるわけですが、
そんな中で全宗は、かの安国寺恵瓊や千利休とともに(千利休は途中で切腹しますが…2月28日参照>>)、周辺の諸将の勧誘に奔走するのです。
孫子の兵法でも「百戦百勝善ならず、戦わずして勝つ」と言われる通り、合戦するのは最後の手段・・・できるなら、合戦をせずに相手を屈服させるのがベストなわけで、臨済宗の僧侶で軍師の恵瓊、茶人の利休らとともに、やはり、ここでも、もと天台宗の僧侶で医師という、武将とは別の人脈&情報網を持っている全宗の手腕を駆使して敵方の寝返り作戦に尽力したのです。
もちろん、その間に全宗の本職である医術で、秀吉の健康管理についても本領発揮しているわけですから、秀吉が天下を掌握する頃になると、もう、そりゃぁ、秀吉からの彼への信頼度はハンパ無い状況で・・・
『寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ)』によれば・・・
秀吉は、常に全宗の事をそばに置きたがって厚遇し、
「(彼の)言ふところ必ず聞かれ、望むところ必ず達す」
という状態だったとか・・・
そう、こうして、全宗の夢を実現する舞台が整いました。
彼の夢・・・それは、出世でも名誉でもなく、また、私利私欲でもなく・・・(と言えばカッコ良すぎですが、本日は主役なので、チョイと持ちあげます)
それは、富める者も貧しい者も、皆平等に治療を受ける事ができる医療福祉システムでした。
それこそ、秀吉の権威を借りて、施薬院代なる官職を作り、自ら就任しました。
そう、以前、奈良時代の光明皇后の【奈良に始まる福祉の歴史】(4月17日参照>>)に書かせていただいた悲田院(ひでんいん=貧困者や孤児を収容する施設)と施薬院(やくいん=病院・療養所)・・・「平安時代頃までは機能していたのが、いつの間にか無くなっていたのを、天正年間に秀吉が再興させた」と、そのページで書かせていただきましたが、それが、この全宗の手による物なのですね。
施薬院そのものは、朝の6時から開院し、日没まで就業・・・場合によっては自らが往診する事もあるほか、9人の名医を選抜して自らの部下とし、一人の患者を一人の医師が担当して、トコトン治療を行うというシステムだったと言います。
そう、途絶えていた施薬院のシステムを復活させたばかりか、それを半永久的に継続できるシステムを作り上げたのです。
慶長四年(1599年)12月10日、全宗は、おそらく80歳前後の大往生を遂げますが、このシステムは養子の宗伯(そうはく)に引き継がれます。
ちなみに天正十五年(1587年)6月19日、秀吉が『切支丹(キリシタン)禁止令』を発布しますが(6月19日参照>>)、この文章を考えたのが全宗・・・医師としてはもちろん、秀吉の政治的ブレーンとしても強力な存在だったのです。
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