佐久間象山を暗殺した「人斬り」河上彦斎のその後
明治四年(1872年)12月4日、幕末の動乱期に「人斬り」と恐れられた河上彦斎が斬首されました。
・・・・・・・・・・・
元治元年(1864年)7月11日・・・
公武合体(朝廷と幕府が協力)派で開国論者の重鎮・佐久間象山(さくましょうざん)(7月11日参照>>)は、午前中に山階宮(やましなのみや)邸を訪問した後、昼過ぎに、木屋町御池付近にあった宿舎に帰宅すべく馬を進めておりました。
三条通から木屋町へ曲がった、その瞬間!・・・二人の暴漢が象山に襲いかかります。
馬の足を速めて御池通まで逃げ切った象山・・・しかし、そこには新たな敵が2~3人いて、再び左右から襲いかかります。
ここで象山も刀を抜いて斬り合いになりますが、そうこうしているうちに、さらに新手の敵が現われ、象山は落馬・・・馬から落ちたところでとどめをを刺されます。
ご存じ、佐久間象山の暗殺・・・その日の夜、三条大橋には、
「斬首して獄門にかけるべきところだが、白昼ゆえ、かなわぬ」
と、その罪状を記した紙が貼られたと言います。
この佐久間象山の暗殺を決行したのが、河上彦斎(かわかみげんさい)・・・
冒頭に書かせていただいた通り、幕末に「人斬り彦斎」と恐れられた彼ですが、確実に彦斎が斬ったとわかっているのは、この象山一人です。
それは、後に、彦斎自身が
「他にも人を斬った事はあるけど、佐久間象山を斬った時は(あまりにも大物だったので)体中の毛が逆立って、初めて人を斬ったと感じた…以来、人を斬るのを止めた」
と、この暗殺が人生最後の人斬りだった事を告白しているからです。
とは言え・・・伝えられている彦斎の容姿は、「人斬り」とは、ほど遠いイメージ・・・背丈は5尺前後(約150cm)と小柄で、色白で、一見女性に見間違うほどだった、と・・・
そう、実は、以前、少年ジャンプに連載されて人気を博し、最近では映画にもなった「るろうに剣心」の主人公=緋村剣心(『人斬り抜刀斎』の異名を持つ緋村抜刀斎)のキャラ設定のモデルが、この彦斎なのですね。
そんな彦斎は、10歳の時に熊本藩士の父を失い、さらに16歳にして母と死別・・・同じく熊本藩士の河上源兵衛(かわかみげんべい=高田源兵衛)の養子となって、熊本藩主・細川斉護(ほそかわなりもり)の掃除坊主として出仕します。
もともと、尊王攘夷派の双璧と呼ばれた宮部鼎蔵(みやべていぞう)から兵学を、轟武兵衛(とどろきぶへい)から文学を学んでいた彦斎は、自然と、その思想が尊王攘夷に傾きつつあったわけですが、
そんな彼が、尊王攘夷の現実を目の当たりにするのが、かの藩主の掃除坊主に続いて、国家老付きの茶坊主をしていた20代半ばの頃・・・
安政七年(1860年)3月3日に起こった大老・井伊直弼(いいなおすけ)の暗殺・・・世に言う桜田門外の変(3月3日参照>>)です。
この時、襲撃した側の水戸藩・薩摩藩の浪士は、護衛する彦根藩士の反撃に、ある者は斬られ、ある者は逃亡し、とバラバラになるわけですが、そのうちの一人が、彦斎の仕える細川藩邸に駆け込んで来たのです。
水戸浪士の行動を目の当たりにした彦斎は、おそらく、自分も大義のために働く決意を固めた事でしょう。
やがて、坊主から士分に取りたてられた彦斎は、尊攘派の志士たちとも盛んに交流するようになりますが、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)の頃には、すでに脱藩・・・政変で朝廷を追われた三条実美(さねとみ)ら七卿を警固する形で長州(山口県)へと向かっています。
そう、この頃には、すでに、その剣術の腕前も評判となっており、誰に習ったでも無い我流の剣法は「彦斎流」と呼ばれていたと言います。
そして、その政変から10ヶ月後の元治元年(1864年)6月5日に起こった池田屋騒動(6月5日参照>>)・・・これは、かの政変で尊攘派の七卿らとともに、政権からはじき出された長州藩が、「何とか挽回する余地は無いか?」と、京都に隠れ住む長州藩士たちで、密かに開いていた会合を聞きつけた新撰組が、その現場に踏みこんで襲撃した事件なわけですが、
どこからどうなったのか?・・・この事件の黒幕は佐久間象山であるとの噂が流れたのだとか・・・
まぁ、尊攘派がウヨウヨいる京都の町を、西洋風のいでたちで、馬にも西洋風の鞍を着け、粋な乗馬姿で闊歩していた開国論者の象山が、何かしらの理由をつけて、ターゲットにされる事は、致し方無いところですが・・・
とにかく、その噂を信じた彦斎・・・池田屋事件で命を落とした師匠=宮部鼎蔵の仇を討つべく、京都に乗り込みます。
そして、冒頭に書いた象山暗殺です。
その後、第2次長州征伐(四境戦争)(6月8日参照>>)の時には長州側として参戦しますが、その頃の熊本藩が佐幕派(幕府寄り)だったため投獄され、慶応三年(1867年)10月の大政奉還(10月14日参照>>)、続く12月の王政復古の大号令(12月9日参照>>)、翌・慶応四年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)などは、獄中でおとなしくしているしかありませんでした。
こうして維新を迎えた彦斎・・・
しかし、その新政府の政策は、未だ攘夷の気持ちを持つ彦斎にとっては、納得のいかない物でした。
屈辱的な条件で続けられる外交・・・
開国前はあれだけしきたりにうるさかった朝廷への参内を、身分の低い外国人に安易に許してしまう・・・
卑屈なまでのペコペコ外交が、彦斎には耐えがたかったのです。
やがて、同じ思いを抱く仲間たちが集まって来ますが、その中の一人である大楽源太郎(だいらくげんたろう)(3月16日参照>>)が計画したクーデター未遂事件=二卿事件(にきょうじけん=外山・愛宕事件とも)が発覚すると、その源太郎を匿った罪で彦斎は逮捕されるのです。
もともと、反政府寄りの言動が多かった彦斎ですし、この事件で、その反政府組織が形成されつつあった事も発覚したわけで・・・
かくして明治四年(1872年)12月4日、河上彦斎は斬首されます・・・享年:38歳。
一説には、彦斎の逮捕を、ヨーロッパ視察の寸前に聞いた木戸孝允(きどたかよし=桂小五郎)が、その出発前に、部下に指示したと言います。
「肥後の河上くんは、豪傑やけど、今になっても、まだ、攘夷の説を唱えて動けへん・・・このまま放置してたら、いずれ国家に害を及ぼして、国の進路を狂わせるかもしれんから、僕が帰国する前に・・・頼むわな」
と・・・
木戸孝允は、未だ桂小五郎と呼ばれていたあの頃、彦斎とともに夢を語り、その性格を熟知している間柄・・・
池田屋騒動のその日、たまたま池田屋に行かなかった事で、命助かった小五郎・・・
そこで命を落とした仲間の仇を討つために京都へやって来た彦斎・・・
その頃は、同じ舞台に立っていた二人の志士を、時の流れは無情にも引き裂きました。
幕末維新の動乱には、そんな一面もあるのですね。
☆・「佐久間象山遭難之地」の石碑のくわしい場所は、本家HP:京都歴史散歩「ねねの道~幕末編」でどうぞ>>
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コメント
以下のような繋がり故、佐久間象山黒幕説が流布されたのかもしれません。 渡辺幸右衛門 http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kyakko/kyakko7.html 小松彰 http://weekly-nagano.main.jp/2012/06/44-1.html http://sky.geocities.jp/petrus0067/biography_KOMATSU.html
京都所司代、新撰組 ←協力- 渡辺幸右衛門 -駐在→ 正親町三条、今城家 ←駐在- 小松彰 -師事→ 佐久間象山
投稿: 野良猫 | 2012年12月 4日 (火) 22時11分
野良猫さん、こんばんは~
もちろん、関係性はわかります。
ただ、池田屋事件自体は、当日の突発的な事も含まれている気がして、「黒幕」という考えに至るのが、も一つ理解できないでいるのです。
もしかしたら、いわゆる「でっちあげ説」という考えなのかの知れません。
投稿: 茶々 | 2012年12月 5日 (水) 01時06分
ただ、この様にそう勘ぐられる状況証拠はあったのですね。 もちろん、佐久間象山が池田屋襲撃の黒幕だなどと云う説は、岩倉具視による孝明天皇毒殺説と同じく与太話の一つに過ぎないと思いますよ。(笑
投稿: 野良猫 | 2012年12月 5日 (水) 09時03分
野良猫さん、おはようございます。
毒殺は、やろうと思えば計画的に行えますが、池田屋事件を計画的に起こすのは、非常に難しいですからね。
土方が途中で合流するのもダンドリ通りなのか?って事にもなりますが、結局は、池田屋騒動にも、まだ謎な部分があるようですしね。
投稿: 茶々 | 2012年12月 5日 (水) 09時28分
茶々さん、こんばんは。
「るろうに剣心」連載時、リアルで読んでいた世代です~懐かしい。剣心とは違って、モデルになったお方のほうは何とも悲しい最後で切ないですね良くも悪くも一途な人間だけに、新しい時代を器用に生き抜くことは難しかったのかも・・・。女性はそういう意味では逞しいですけどね(笑)。戦前生まれの私の伯父からも、戦後ショックでしばらくフヌケみたいになっちゃった父親の代わりに、母親が行商をして家を支えてくれたなんて話を聞いた記憶があります。
投稿: ZAIRU | 2012年12月 5日 (水) 21時35分
ZAIRUさん、こんばんは~
>女性はそういう意味では逞しいですけどね(笑)。
確かに…(笑)
失恋からの立ち直りも、女性の方が断然早いです。
投稿: 茶々 | 2012年12月 6日 (木) 02時20分