幕末・島津の「お由羅騒動」
嘉永二年(1849年)12月3日、幕末の薩摩藩で起こったお家騒動で、島津久光やお由羅の方の暗殺を計画していたとして、敵対する斉彬派の重鎮たちが捕縛されました。
世に、「お由羅騒動」「高崎くずれ」「嘉永朋党事件」などと呼ばれる出来事です。
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この「お由羅騒動」の名のもとであるお由羅(ゆら=遊羅・由良)の方という女性は、第10代薩摩藩主・島津斉興(しまづなりおき)のお国御前・・・
お国御前というのは、当時の藩主は、参勤交代という制度のもと、一定期間で、江戸と国許(くにもと)を行き来してたわけですが、藩主の正室と嫡子は、言わば人質としてずっと江戸にいるので、藩主が国許に滞在している時の、国許にいる奥さんって事ですが、要するに側室です。
実家は八百屋とも船宿とも言われ、その身分はかなり低いですが、藩主の斉興に愛され、二人の間には久光(ひさみつ)という息子がいました。
一方、江戸にいる嫡子の斉彬(なりあきら)は、頭脳明晰で国内の状況や世界の事情にも明るく、家臣からの信頼も厚い文句無しのデキた息子・・・しかも、もうすでに40歳になっていますから、いつでも、父から藩主を継げる状況・・・いや、むしろ遅い・・・いや、異常に遅すぎる!
実は、大藩の薩摩藩ではありますが、この幕末の頃は、実に500万両の負債を抱える超赤字状態・・・
それを、藩主の斉興が、祖父の代からの重鎮・調所広郷(ずしょひろさと)とともに幕政改革を断行して、約20年かかって、何とか借金を返し、逆に、250万両ほどのプラスを得るくらいに回復させたところだったのです。
しかし、ここで、嫡子の斉彬に藩主を譲ってしまうと・・・実は、斉彬さん、確かに聡明でデキる息子、若手の藩士には大人気なんですが、その思想は西洋かぶれとも揶揄(やゆ)されるくらいなので、ちょっとばかり不安もあるのです。
ここのところ、外国船が頻繁に近海に現われ、鎖国中の日本を脅かす状況で、幕府としては、何とか海岸線の防衛を強化したい・・・そんな中で、海に面した薩摩藩の立地条件や、昔からの琉球との交易などを踏まえて、薩摩藩が防衛に力を入れる事を期待していたわけですが、もし、西洋かぶれと噂されるほど先進的な斉彬が藩主になれば、当然、その藩のお金を湯水のごとく使って、最新の防御設備を構築する事は間違いないわけで・・・
そうすると、せっかく借金を返したばかりの藩の財政が、またぞろ悪化する可能性大・・・しかも、なんか幕府の思惑に乗せられるのもケッタクソ悪い・・・
必死のパッチで藩政改革に力を注いだ斉興さん&調所さんとしては、「嫡子の斉彬ではなく、その異母弟の久光が、次の藩主になってくれればいいのに…」と思うわけですが、斉彬の奥さんは徳川家の娘・恒姫・・・斉彬を廃嫡(はいちゃく=後継ぎから排除する事)する事が不可能な現状では、「譲るかい!」とばかりに藩主の座に居座り続けるしか無かったのです。
こうして、薩摩藩の中で分かれた斉彬派と久光派・・・
そんな中、斉彬派にとって、目の上のタンコブである調所を排除するべく、彼らが起こした行動は・・・薩摩藩が琉球にて行っている密貿易を、幕府老中・阿部正弘(あべまさひろ)に暴露する事でした。
この琉球での密貿易は、ハッキリ言って、あの慶長十四年(1609年)に島津が琉球を傘下に治めて(4月5日参照>>)以来、ずっと水面下で行われていた公然の秘密で、薩摩藩の収入源の一つ・・・言ってみりゃ、これで借金返したようなもの。
しかし、暗黙の了解で目を瞑っていた幕府も、公になったら、何らかの処分はせねばならないわけで、ヘタすりゃ、薩摩藩のお取り潰しも免れない一大事ですが、斉彬派の若手藩士たちは、イチかバチかの賭けに出たのです。
案の定・・・幕府からの事情聴取を受けた調所は、その直後の嘉永元年(1849年)12月19日、密貿易に関するすべての罪を一身にかぶって亡くなります。
一説には服毒自殺だったと言われる調所の死・・・彼が、個人的にやった事として罪をかぶる事で、この一件は、藩自体が罪に問われる事は無く終わったのです。
こうして、調所という大きな後ろ盾を失った久光派・・・しかし、ここに来ても、いや、むしろ、大事な補佐役を失ったからこそ、さらにキョーレツに「意地でも譲るか!」と思いはじめた斉興が、ずっと藩主の座に居座り続けたので、すぐさま、斉彬が藩主になるという事もありませんでした。
そんな中、斉彬の子女のうちの何人かが次々と亡くなるという事態が起こり、「これは、お由羅の方が斉彬の子供たちに呪いをかけたからだ」との噂が立ちます。
一説には、本当に呪詛していたなんて事も言われますが、実際のところは、たぶん偶然・・・この時代、生まれた子供が成人するまでに亡くなる事は珍しくなく、まして、一定階級以上の高貴な血筋の人々は、一般庶民の健康的生活とはかけ離れた生活様式をとっていましたから、子供が早世する事が多々あったのです。
現にお由羅自身も、子供は3人生んでますが、成長したのは久光一人でした。
そんな中で、たまたま斉彬の子女が立て続けに亡くなり、たまたま同時期に生まれていた久光の子女が無事に成長していただけの事・・・
しかし、呪いという物が、未だ信じられていた中で、この噂を受けた斉彬派の、町奉行物頭務めの近藤隆左衛門(こんどうりゅうざえもん)や山田清安(きよやす)、高崎五郎衛門(たかさきごろうえもん)などなどが、久光とお由羅の暗殺を企てるのです。
嘉永二年(1849年)12月3日、その暗殺計画が実行前に発覚した事で、近藤以下、6名の仲間が、斉興のもとに呼び出されて捕縛されました。
この6名は、即刻、切腹を命じられ、その日の内に命を断ちますが、翌年、この時の密書が発見されたとかで、近藤・山田・高崎の3名は遺体を掘り起こされ、改めて、磔(はりつけ)や鋸引きの刑に処せられたと言います。
また、残りの斉彬派にも死罪や遠島、謹慎などが言い渡され、処罰された者は50余名にのぼり、もはや、斉彬派は、斉彬本人のみといった状況になって、斉彬としては万事休す・・・
ところが、話は、またまた急展開・・・
この騒動の中で、斉彬派のうちの4名が脱藩して逃れて福岡藩に逃げ込み、斉彬の親戚にあたる福岡藩主・黒田長溥(くろだながひろ)に訴えたのですが、そんな脱藩藩士を「こちらに引き渡せ」と斉興がスゴんだ事から、これ以上騒動が大きくなる事を懸念した近親の伊達宗城(だて むねなり)や老中の安倍が、穏便に解決しようとして、時の将軍の徳川家慶(とくがわいえよし)から、それとなく、やさしく、斉興に隠居をうながすという方法をとりました。
さすがに、「それとなくやさしく」とは言え、将軍命令とあっては斉興も、藩主の座を譲らざるをえず、嘉永四年(1851年)の2月、斉興はとうとう隠居して斉彬に家督を譲り、一連の騒動は一件落着となりました。
藩主となった斉彬は、皆さまご存じのように、名君の誉れ高い藩主となりますが、確かに、お金はだいぶ使ったかも知れませんね(7月16日参照>>)。
上記の以前のページでご紹介した通り、暗殺説もある斉彬ですが、亡くなる時には、「2度とこのような騒動が起こらぬように…」と、久光の嫡男・忠徳(忠義)に家督を譲るとの遺言を残して亡くなったと言います。
ちなみに、この騒動で切腹させられた赤山靭負(あかやまゆきえ)の家政を担当していたのが西郷隆盛(さいごうたかもり)の父で、この時の父の悲しみ様を見た隆盛が共感し、以来、「斉彬一筋」になったと言われています。
また、あの大久保利通(おおくぼとしみち)が、この騒動で、琉球館附役についていた父が遠島となり、自らも謹慎処分を受けた時に、隆盛に大いに助けられ、ともに歩む決意をしたと言われています。
幕末って、短い一時期に様々な出来事が起こるので、それが、この先の色々な事に影響していく様が、実にワクワクしますね~
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コメント
うちの藩でも天保年間に大きなお家騒動ありました。今城とか土御門から出た戸田図書=太田庄太夫派(重商派) vs 古参重臣である西郷新兵衛=林監物派(重農派)の対立。
市史載録の東大の偉いセンセの調べた文献なんかでは首謀者とされる者の実名が上げられ処分者二十三名死罪無しと纏められている。 そんな予備知識を頭の片隅に置いて分限帳を繙いてみた。すると、時を同じくして母方の先祖が亡くなっているのが見つかり、ちょっとひっかかったのでその周辺を当たってみたら、親族係累六名が先のリストに名を連ねている(閉門蟄居、知行召し上げ、御役御免)。更に、名を上げられていないが御役御免になっている者が二名ある事も判った。未だ調査中なのだけれど縁者だけでもこれだけ該当するのだから・・・実際の処分者はもっと広範に亘ったであろう事は簡単に推測されます。正に藩を二分する騒動だったのでしょう。それでも、うちの祖先一名の死が訝しく思える以外、規模が大きい割に血は見ていないのは、薩摩や長州、水戸の血まみれの抗争とは対照的だ。 あの時代にあって、果たしてどちらが異質だったのだろう?
投稿: 野良猫 | 2012年12月 3日 (月) 22時35分
野良猫さん、こんばんは~
やはり、どこのお家にも、お家騒動はあったのですね。
投稿: 茶々 | 2012年12月 4日 (火) 00時06分
幕末の島津家におけるお家騒動である、お由羅騒動は、当時の薩摩藩主の島津斉興が、嫡男である島津斉彬の聡明さを恐れた上に、斉彬の異母弟の島津久光&お由羅に対する溺愛ぶりが、騒動の引き金になったのではないかと思ってます。その上、薩摩藩が経済的に苦しい状況にあったことも、背景にあったのではないでしょうか。あと、一説には、斉興は、斉彬の姿に、斉興の祖父である島津重豪を重ね合わせたのではないかという話もあるらしいです。確実に言えることは、保守的な考え方を持つ斉興と進歩的な考え方を持つ斉彬では、親子の確執は避けられなかったということですね。
投稿: トト | 2018年1月20日 (土) 09時18分
トトさん、こんにちは~
今年の大河で、このお由羅様を小柳ルミ子さんが演じておられる事もあってか、このページも、今年に入ってから多くの方の閲覧があるようになりました。
大河でどのように展開されるのか?楽しみですね。
投稿: 茶々 | 2018年1月20日 (土) 17時41分