最後まで日本を忘れなかった世界のフジタ…藤田嗣治
1968年(昭和四十三年)1月29日、「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などで人気を博した西洋画家・藤田嗣治が81歳でこの世を去りました。
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いつもは、そのご命日の日づけを、元号を先に書き、( )で西暦を表示するようにしてご紹介させていただいているこのブログですが、今回、逆にさせていただいたのにはワケがあります。
そう、この方、藤田嗣治(ふじたつぐはる)という日本人ですが、晩年にフランス国籍を取得し、その名もレオナール・フジタ(Léonard Fujita)となってスイスの病院でお亡くなりになるからです。
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明治十九年(1886年)、東京・牛込の藤田嗣章(つぐあきら)の息子=4人兄弟の末っ子として生まれた嗣治ですが、この父という人が、陸軍軍医として台湾や朝鮮などへ赴き、最終的に森鴎外(もりおうがい)の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物・・・
故に、その一家は、兄の奥さんが陸軍大将児玉源太郎(こだまげんたろう)の娘だとかを代表に、とにかく、家族や親戚一同が皆有名人という家庭環境・・・
なので、当然の事ながら、父=嗣章も、嗣治が医者になる事を望んでいたわけですが、嗣治自身は、幼いころから絵を描く事が好きで・・・中学生になる頃には、本当に画家となる事を夢見るようになります。
この時代で、こういうシチュエーションになった場合、大抵は「絵を描いて飯が食えるか!」と父親が猛反対して・・・ってなる物ですが、藤田家の場合はそうではなく・・・
自分の夢を告白した嗣治に対して、父は、「ほな、一人前の画材を買わんとな」と、今の価値にして10数万円のお金をポンと出したのだとか・・・
しかも、その人脈を活かして森鴎外に口をきいてもらい、東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学・・・今をときめく西洋画家の第一人者=黒田清輝(くろだ せいき)(4月1日参照>>)の教えを受けるという、嗣治にとっては、このうえないハッピーな展開に・・・
しかし、学ぶうちに、今もてはやされている西洋画の画風が、何となく、自分の目指す物と違うと感じ始める嗣治・・・案の定、展覧会に出品しても高評価は得られない・・・
結局、何とか大学は卒業するものの、絵の勉強というよりも、仲間と一緒に旅行や観劇を楽しみ、学生生活を謳歌する的な5年間でした。
卒業後は、大学時代に知り合った美術講師の女性と結婚しますが、なんだかんだで「本場で何かを求めたい!」と願うのが芸術家の常・・・しかも、思い立ったらいつでも行ける=費用の心配などせずにすむ裕福な実家ですから、嗣治は、新婚の奥さんを日本に残したまま、大正二年(1913年)に単身でフランスはパリに向かい、結局、この最初の結婚は1年ほどで破たんしました。
パリではモンパルナスに居を構えた嗣治は、そこで、あのアメデオ・モディリアーニらと知り合いになり、彼らを通じて現地の芸術家たちとも交流・・・しかも、そこで見たナマの西洋画が日本のソレとは違う事に驚愕し、これまでの画風を捨てて、一から勉強しなおす事を決意します。
しかし、ここで世の中が第一次世界大戦に突入・・・日本からの送金はなくなるし、絵は売れないし・・・で、しばらくの間、極貧の生活を送る事になるのですが、この時期にモデルだったフランス人女性と2度目の結婚をします。
やがて、安価ではあるものの、ちょっとずつ絵が売れ始めた矢先、初めて開いた個展で、有名な美術評論家が、彼の絵を絶賛した事から火がつき、絵の値段は高騰するわ、ポンポン売れるわ。
しかも、ナイスはタイミングで戦争が終ってくれたおかげで、世は空前の好景気・・・「パトロンになってやろう」というお金持ちも登場するし、絵を出品すればするたびに、またたく間に高評価を受け、パリで大人気の画家となっていきます。
しかし、いきなりの大金持ちという物は、自身がその環境の変化について行けないという事があるもので、その変化によって2度目の奥さんとも離婚してしまいます。
さらに、やはりフランス人女性と3度目の結婚をしますが、これも、まもなく離婚・・・しかし、そんな結婚遍歴とは無関係とばかりに、画家としての人気は衰える事なく、それはアメリカでも評価されて、個展を開けば何万人ものお客さんが列をなすといった盛況ぶりでした。
こうして昭和八年(1933年)に、日本へと帰国した嗣治・・・その2年後に25歳年下の君代さんという女性に出会い、ようやく華麗なる女性遍歴も、ここでストップ・・・生涯のつれあいとなる結婚を果たしました。
しかし、それから間もなく、世界の中での日本の立場が緊迫した雰囲気になって来ます。
そう、第二次世界大戦の勃発です。
老いも若きも、否応なしにその波に呑まれていく事になる日本・・・ここに来て陸軍美術協会理事長に就任した嗣治も、その時勢に逆らえず、『戦争画』を手掛ける事になります。
『戦争画』とは、一般的には戦争を題材にして戦争記録するべき絵画全般を指しますが、ここで言う『戦争画』は、「国民の戦意を高揚させるべく書かれた勇ましい絵」の事・・・プロパガンダのための絵ですね。
それこそ、戦況が激しくなると、嗣治は、自らのオカッパ頭を坊主にして、一心不乱になって戦地へ向かう若者のために絵を描き、周囲はまるでスターのように、それをもてはやしました。
ところが・・・
そう、お察しの通り、日本が敗戦なった途端、嗣治への評価が180度変化するのです。
「軍の呼びかけに応じ、戦争に強力した画家は反省すべきである」と・・・
やがて、マッカーサー司令部が、美術界の戦犯を摘発するという情報がある事を受けて、嗣治のもとに、
「戦争画の第1人者であるあなたが、代表して罪を引き受けてください」
との連絡が来たのです。
ご存じのように、この時代、戦争画を描いていたのは嗣治だけではありません。
いや、むしろ、画家のほとんどが手掛けており、それこそ、断われば、展覧会にも出させてもらえないし、画材の配給だったストップされる状態なのですから、彼だけが非難させる事では無かったはずなのですが・・・
しかも、嗣治の絵は、ごくごく客観的に現実を描いた物が多く、戦争賛美というよりは、逆に反戦にもとられかねない作品だったのに・・・
ご本人が、その手記で
「(私が描くのは)少年時代からもっている素朴な感情である」
「この恐ろしい危機に接して、我が国のため、祖国のため子孫のために戦わぬ者があっただろうか。
一兵卒と同じ気概で戦うべき…真の愛情、真の熱情も無い者に何ができるものか!」
と言っておられるように、ありのままの光景を絵にし、そこに、彼なりの思いを込めて描いたもの・・・
しかし、それこそ、戦争画を描いた画家が全員処分されるなんて事になれば、日本の美術界はドンデモない事になるわけで・・・
結局は、日本よりも欧米で支持された嗣治を、日本の美術界が生贄の如く抹殺するような形となり、追われるように、嗣治は日本を後にし、フランスへと戻ったのでした。
とは言え、そのフランスでも、以前、同時期に活躍した画家たちはすでに亡く、過去の人として扱われた嗣治でしたが、1955年(昭和三十年)にフランス国籍を取得し、その2年後には、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を贈られるという名誉を得ました。
1968年(昭和四十三年)1月29日、ガンに冒され、静養中のスイスで、その生涯を閉じた嗣治ですが、
その自伝に
「私は別に(日本を追われた事を)悲劇とは思いません。
日本人として祖国を思う日本人がいただけの事です。
後悔もしていません」
と、堂々と記しているように、フランスに戻ってからも、毎日和食に舌鼓を打ち、季節に応じた祭事を祝い、浪曲のレコードを楽しそうに聞く・・・という、日本色ドップリの生活だったようです。
「国籍が変わろうが、住む場所が変わろうが、何がどうなっても、祖国・日本が好き!」
それこそ、嗣治の絵からは、そんな彼の気持ちが伝わって来るようです。
その死後には、日本政府からも勲一等瑞宝章が贈られています。
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コメント
藤田嗣治の描いたアッツ島玉砕の絵などは、最初見たときは反戦画として描いたのかと思いました。あまりの迫力に、怖さを感じたことをよく覚えています。
敗戦の直後、藤田に責任のすべてを負わそうとした日本の芸術界の態度は残念極まりないとは思いますが、戦争というものが、人間に対して及ぼす負の影響こそを、憎むべきなのでしょうか…。
晩年、フランスに帰化した後でも、日本に対する愛情が変わらなかったことにほっとします。
猫の絵やこどもを描いた絵もすばらしいです。
投稿: とらぬ狸 | 2015年7月24日 (金) 21時31分
とらぬ狸さん、こんばんは~
>日本に対する愛情が変わらなかったことにほっとします。
もちろん、心の奥底までは見えませんので、推測の域を出ませんが…やはり、日本を思う気持ちは最後まで変わっていなかったと思いたいですね。
投稿: 茶々 | 2015年7月25日 (土) 01時02分