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2013年1月31日 (木)

アンケート企画:歴史上の最強戦士は誰?

 

ではでは…
リクエストにお答えしましてのアンケート企画!です。

今回のテーマは・・・
「歴史上の最強は誰?」
って事で・・・

選択肢の条件としては「あくまで個人戦で強い」という事にさせていただきました。

たとえば・・・
「奇襲戦がウマイので源義経」とか、
「城攻めがウマイので豊臣秀吉」とか、
作戦参謀あるいは大将としての采配でのウマさ強さではなく、個人として戦った場合の強さ・・・

なので、軍を指揮する立場にある将軍=足利義輝などは、剣豪と噂され、暗殺の場面でかなりの腕前を見せてくれているので、将軍ですが、選択肢に入れさせていただきました。

とは言え、今回はものすご~~く迷いました。

とてもじゃないが15人(その他を入れて16項目)には絞りきれない状況で、おそらくは「その他」で、選択肢に無い人物名を挙げられる方が多いだろうなぁ・・・という覚悟の上、アンケートを制作させていただきました。

なお、基本、お遊びのアンケートですので、武器の有無や種類については棚の上に上げさせてください・・・それを考え出すと眠れなくなるのでww

何とか絞った15人・・・
「この人が1番強い!」と思う人物に清き1票を・・・上記の通り、その他のご意見や、投票理由のコメントなどもお待ちしております。

  1. 酒呑童子を一発必中…平安の勇者!
    四天王のリーダー源頼光
    (参照ページ:12月8日>>)
  2. 平将門&ムカデ退治でお馴染み
    戦国武将の憧れ俵藤太(藤原秀郷)
    (参照ページ:2月7日の真ん中あたり>>)
  3. 現在、テレビドラマで活躍中!
    新当流・開祖塚原卜伝(卜傳)
    (参照ページ:2月11日>>)
  4. 卜伝直伝の腕前!
    剣豪将軍足利義輝
    (参照ページ:5月19日>>)
  5. 武田信玄も認めた、その強さ!
    新陰流・開祖上泉信綱
    (参照ページ:1月16日>>)
  6. 言わずと知れた柳生一族
    柳生新陰流柳生宗矩
    (参照ページ:3月26日>>)
  7. トラブルメーカーは強さの証?
    小野派一刀流小野忠明
    (参照ページ:11月7日>>)
  8. 自己アピールの見事さはダントツ!
    二天一流・流祖宮本武蔵
    (参照ページ:4月13日>>)
  9. 薄田隼人かも知れない伝説の剣豪
    ヒヒ退治&仇討の岩見重太郎
    (参照ページ:2月20日>>)
    (参照ページ:9月20日>>)
  10. 信長の放った軍を相手に100人斬り?
    新当流の貴公子北畠具教
    (参照ページ:11月25日>>)
  11. 助太刀で36人斬り!
    伊賀上野鍵屋の決闘荒木又右衛門
    (参照ページ:11月7日>>)
  12. なんと勝率:9割越えは史上第1位!
    最強の力士雷電為右衛門
    (参照ページ:2月21日>>)
  13. 千葉道場の総師範で幕末の三剣士
    北辰一刀流・創始者千葉周作
    (参照ページ:12月10日>>)
  14. 組を脱走した阿部十郎が「沖田より強い」と言うので
    新撰組・二番組長永倉新八
    (参照ページ:6月5日>>)
  15. その阿部が新撰組で1番とする近藤勇をビビらせた
    維新の三傑桂小五郎(木戸孝允)
    (参照ページ:5月26日日>>)
  16. その他
    「やっぱ、この人でしょう」っていう方がいましたらお知らせください
      

上記の通り、阿部十郎の証言に基づいて、あえて沖田総司(5月30日参照>>)は項目に入れませんでしたが、その永倉が、「沖田と斎藤一(9月28日参照>>)は強い」と言ってますので、もちろん、その他の項目から、彼らに1票入れていただいても結構ですョ。

とりあえず、苦心の末に、なんとか上記の16項目に絞ってみたという感じですので・・・

なお、締め切りはいつものように2週間後・・・勝手ながら、2月14日締め切りとさせていただきました。

・‥…━━━☆

このアンケートの投票結果&いただいたコメントは、コチラからどうぞ>>

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2013年1月29日 (火)

最後まで日本を忘れなかった世界のフジタ…藤田嗣治

 

1968年(昭和四十三年)1月29日、「乳白色の肌」とよばれた裸婦像などで人気を博した西洋画家・藤田嗣治が81歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

いつもは、そのご命日の日づけを、元号を先に書き、( )で西暦を表示するようにしてご紹介させていただいているこのブログですが、今回、逆にさせていただいたのにはワケがあります。

そう、この方、藤田嗣治(ふじたつぐはる)という日本人ですが、晩年にフランス国籍を取得し、その名もレオナール・フジタ(Léonard Fujita)となってスイスの病院でお亡くなりになるからです。

・‥…━━━☆

Fuzitatuguharu500 明治十九年(1886年)、東京牛込藤田嗣章(つぐあきら)の息子=4人兄弟の末っ子として生まれた嗣治ですが、この父という人が、陸軍軍医として台湾や朝鮮などへ赴き、最終的に森鴎外(もりおうがい)の後任として最高位の陸軍軍医総監(中将相当)にまで昇進した人物・・・

故に、その一家は、兄の奥さんが陸軍大将児玉源太郎(こだまげんたろう)の娘だとかを代表に、とにかく、家族や親戚一同が皆有名人という家庭環境・・・

なので、当然の事ながら、父=嗣章も、嗣治が医者になる事を望んでいたわけですが、嗣治自身は、幼いころから絵を描く事が好きで・・・中学生になる頃には、本当に画家となる事を夢見るようになります。

この時代で、こういうシチュエーションになった場合、大抵は「絵を描いて飯が食えるか!」と父親が猛反対して・・・ってなる物ですが、藤田家の場合はそうではなく・・・

自分の夢を告白した嗣治に対して、父は、「ほな、一人前の画材を買わんとな」と、今の価値にして10数万円のお金をポンと出したのだとか・・・

しかも、その人脈を活かして森鴎外に口をきいてもらい、東京美術学校(現在の東京芸術大学)西洋画科に入学・・・今をときめく西洋画家の第一人者=黒田清輝(くろだ せいき)(4月1日参照>>)の教えを受けるという、嗣治にとっては、このうえないハッピーな展開に・・・

しかし、学ぶうちに、今もてはやされている西洋画の画風が、何となく、自分の目指す物と違うと感じ始める嗣治・・・案の定、展覧会に出品しても高評価は得られない・・・

結局、何とか大学は卒業するものの、絵の勉強というよりも、仲間と一緒に旅行や観劇を楽しみ、学生生活を謳歌する的な5年間でした。

卒業後は、大学時代に知り合った美術講師の女性と結婚しますが、なんだかんだで「本場で何かを求めたい!」と願うのが芸術家の常・・・しかも、思い立ったらいつでも行ける=費用の心配などせずにすむ裕福な実家ですから、嗣治は、新婚の奥さんを日本に残したまま、大正二年(1913年)に単身でフランスはパリに向かい、結局、この最初の結婚は1年ほどで破たんしました。

パリではモンパルナスに居を構えた嗣治は、そこで、あのアメデオ・モディリアーニらと知り合いになり、彼らを通じて現地の芸術家たちとも交流・・・しかも、そこで見たナマの西洋画が日本のソレとは違う事に驚愕し、これまでの画風を捨てて、一から勉強しなおす事を決意します。

しかし、ここで世の中が第一次世界大戦に突入・・・日本からの送金はなくなるし、絵は売れないし・・・で、しばらくの間、極貧の生活を送る事になるのですが、この時期にモデルだったフランス人女性と2度目の結婚をします。

やがて、安価ではあるものの、ちょっとずつ絵が売れ始めた矢先、初めて開いた個展で、有名な美術評論家が、彼の絵を絶賛した事から火がつき、絵の値段は高騰するわ、ポンポン売れるわ。

しかも、ナイスはタイミングで戦争が終ってくれたおかげで、世は空前の好景気・・・「パトロンになってやろう」というお金持ちも登場するし、絵を出品すればするたびに、またたく間に高評価を受け、パリで大人気の画家となっていきます。

しかし、いきなりの大金持ちという物は、自身がその環境の変化について行けないという事があるもので、その変化によって2度目の奥さんとも離婚してしまいます。

さらに、やはりフランス人女性と3度目の結婚をしますが、これも、まもなく離婚・・・しかし、そんな結婚遍歴とは無関係とばかりに、画家としての人気は衰える事なく、それはアメリカでも評価されて、個展を開けば何万人ものお客さんが列をなすといった盛況ぶりでした。

こうして昭和八年(1933年)に、日本へと帰国した嗣治・・・その2年後に25歳年下の君代さんという女性に出会い、ようやく華麗なる女性遍歴も、ここでストップ・・・生涯のつれあいとなる結婚を果たしました。

しかし、それから間もなく、世界の中での日本の立場が緊迫した雰囲気になって来ます。

そう、第二次世界大戦の勃発です。

老いも若きも、否応なしにその波に呑まれていく事になる日本・・・ここに来て陸軍美術協会理事長に就任した嗣治も、その時勢に逆らえず、『戦争画』を手掛ける事になります。

『戦争画』とは、一般的には戦争を題材にして戦争記録するべき絵画全般を指しますが、ここで言う『戦争画』は、「国民の戦意を高揚させるべく書かれた勇ましい絵」の事・・・プロパガンダのための絵ですね。

それこそ、戦況が激しくなると、嗣治は、自らのオカッパ頭を坊主にして、一心不乱になって戦地へ向かう若者のために絵を描き、周囲はまるでスターのように、それをもてはやしました。

ところが・・・
そう、お察しの通り、日本が敗戦なった途端、嗣治への評価が180度変化するのです。

「軍の呼びかけに応じ、戦争に強力した画家は反省すべきである」と・・・

やがて、マッカーサー司令部が、美術界の戦犯を摘発するという情報がある事を受けて、嗣治のもとに、
「戦争画の第1人者であるあなたが、代表して罪を引き受けてください」
との連絡が来たのです。

ご存じのように、この時代、戦争画を描いていたのは嗣治だけではありません。

いや、むしろ、画家のほとんどが手掛けており、それこそ、断われば、展覧会にも出させてもらえないし、画材の配給だったストップされる状態なのですから、彼だけが非難させる事では無かったはずなのですが・・・

しかも、嗣治の絵は、ごくごく客観的に現実を描いた物が多く、戦争賛美というよりは、逆に反戦にもとられかねない作品だったのに・・・

ご本人が、その手記で
(私が描くのは)少年時代からもっている素朴な感情である」
「この恐ろしい危機に接して、我が国のため、祖国のため子孫のために戦わぬ者があっただろうか。
一兵卒と同じ気概で戦うべき…真の愛情、真の熱情も無い者に何ができるものか!」

と言っておられるように、ありのままの光景を絵にし、そこに、彼なりの思いを込めて描いたもの・・・

しかし、それこそ、戦争画を描いた画家が全員処分されるなんて事になれば、日本の美術界はドンデモない事になるわけで・・・

結局は、日本よりも欧米で支持された嗣治を、日本の美術界が生贄の如く抹殺するような形となり、追われるように、嗣治は日本を後にし、フランスへと戻ったのでした。

とは言え、そのフランスでも、以前、同時期に活躍した画家たちはすでに亡く、過去の人として扱われた嗣治でしたが、1955年(昭和三十年)にフランス国籍を取得し、その2年後には、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章を贈られるという名誉を得ました。

1968年(昭和四十三年)1月29日ガンに冒され、静養中のスイスで、その生涯を閉じた嗣治ですが、

その自伝に
「私は別に(日本を追われた事を)悲劇とは思いません。
日本人として祖国を思う日本人がいただけの事です。
後悔もしていません」

と、堂々と記しているように、フランスに戻ってからも、毎日和食に舌鼓を打ち、季節に応じた祭事を祝い、浪曲のレコードを楽しそうに聞く・・・という、日本色ドップリの生活だったようです。

「国籍が変わろうが、住む場所が変わろうが、何がどうなっても、祖国・日本が好き!」
それこそ、嗣治の絵からは、そんな彼の気持ちが伝わって来るようです。

その死後には、日本政府からも勲一等瑞宝章が贈られています。
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2013年1月28日 (月)

京都奪回を目指す北畠顕家~青野原の戦い

延元三年・建武五年(1338年)1月28日、追撃する足利軍を北畠顕家が迎撃した青野原の戦いがありました。

・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒しながらも、その後に後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)・・・(11月19日参照>>)

湊川(みなとがわ)の戦い楠木正成(くすのきまさしげ)を自刃に追い込み(5月25日参照>>)京都を制圧した尊氏に対し、後醍醐天皇は、新田義貞(にったよしさだ)に二人の皇子を託して北国落ちさせ(10月11日参照>>)、自らは一旦和睦した後、吉野に脱出して朝廷を開き(12月11日参照>>)・・・時代は、いよいよ南北朝に突入します。

*後醍醐天皇が南朝、尊氏が北朝です…個々のくわしい事は【室町前期・南北朝の年表】でどうぞ>>

Kitabatakeakiie400 そんな畿内の様子を聞き、はるばる奥州から救援に駆けつけたのが、後醍醐天皇の側近中の側近である北畠親房(きたばたけちかふさ)(5月10日参照>>)の息子=北畠顕家(きたばたけあきいえ)・・・

延元三年・建武五年(1338年)1月・・・尊氏の息子=足利義詮(よしあきら=後の2代将軍)が籠る鎌倉を制圧した顕家は、全軍を率いて、一路、東海道を京へと目指します(1月8日参照>>)

この時、北朝リーダー尊氏は、北陸にて奮戦する義貞(3月6日参照>>)の対応に追われ、西上する北畠軍へ目を向ける余裕は無かったわけですが、それこそ、一旦、鎌倉を明け渡して逃走した義詮も、黙っておとなしくしているワケはなく、北畠勢が鎌倉を出立した途端に攻撃を仕掛け、すぐさま鎌倉を奪回し、後方からの追撃を開始したのです。

やがて1月20日・・・美濃(岐阜県)にまで進軍したところで、「まもなく、追手が追いつく」との情報を得た北畠勢・・・

「ここは、ひとまず、背後に迫る追手を打破する事が先決」と、顕家も、追手の足利勢の迎撃を決意し、少し軍を戻して、美濃と尾張(愛知県西部)あたりでの決戦とあいなります。

一方、追う足利勢には、美濃の守護=土岐頼遠(ときよりとう)(9月6日参照>>)がいて、その地の利を生かした作戦を展開・・・軍をいくつにも分けて配置し、順次、抜け目なく北畠軍に攻撃を仕掛けて来ます。

押しつ押されつ・・・しばらくの間、両者ともに一歩も退かぬ戦いが展開されましたが、やがて延元三年・建武五年(1338年)1月28日美濃青野原(あおのがはら=岐阜県大垣市)にて、この追撃戦の最終決戦を迎えました。

しかし、実は、こうなると、足利勢は、かなり不利・・・そう、はなから兵の数が違うのです。

だからこそ、頼遠は、兵を分散させて、アチラコチラで戦いを繰り広げていたワケで、全部が一堂に会すると、とてもじゃないが、相手にならない数・・・『太平記』によれば、頼遠率いる軍勢が1000騎に対して、北畠軍は6万余だったと言いますが、この数字は、イロイロ盛ってるとしても、多勢に無勢であった事は確かでしょう。

それでも、選りすぐりの精鋭を集めて果敢に、北畠勢に攻撃を仕掛ける頼遠勢は、「最後の1騎になるまで退くな!」と、お互いに励まし合って奮戦しますが、そこは致し方無く・・・

やがて、頼遠も負傷し、やむなく撤退を開始・・・青野原の戦いは、北畠軍の勝利となりました。

この青野原での敗戦を伝え聞いた京都の尊氏・・・北畠軍は、このまま近江(滋賀県)へと入り、京に迫って来るものと考え、高師泰(こうのもろやす=高師直の兄?)佐々木道誉(ささきどうよ)ら5万の軍勢を派遣し、美濃と近江の境界線となる黒地川(黒血川・くろぢがわ=岐阜県不破郡)を背に陣取らせ、この地にて、北畠軍を迎撃する事としました。

なんせ、万が一、ここを破られて顕家が近江に入り、北陸の義貞勢と合流でもされたら、それこそ、尊氏にも脅威の集団となる事間違い無し・・・何としてでも死守せねば・・・

ところが、待てど暮らせど、黒地川に顕家が現われる事はありませんでした。

そう、顕家は、そのまままっすぐ近江へ行かず、伊勢路へと迂回して奈良方面へと向かったのです。

『太平記』では、この顕家の迂回作戦を、新田義貞との合流を嫌ったためとの見解を見せています。

ご存じのように、義貞は、尊氏の最大にして最強のライバルとのイメージが強い・・・一方の顕家は、後醍醐天皇や父の北畠親房(きたばたけちかふさ)(5月10日参照>>)に忠実な公卿・・・ここで新田軍と合流して、仮に勝利したとしても、合戦後は勝ち組の将として義貞の利となるのは明白なわけで・・・

武士政権より天皇派であった顕家は、義貞に手柄を立てさせたく無かったのだ・・・と、

もちろん、それも無い話ではないでしょうが、現在では、他にも様々な要因があったと考えられています。

まずは兵糧の欠乏・・・
鎌倉からここまで、ほぼ戦いながらの大軍の移動ですから、そろそろ兵糧も少なくなって来ていて、そうなると、兵士の士気も低下・・・

しかも、近江との境目で待っているのは、京都から派遣されたばかりの、未だ元気ハツラツの足利軍の精鋭たちですから、とても、まともに相手できないと考え兵の態勢を整えるために迂回したのでは?という事・・・

また、以前の鎌倉出陣のページ(冒頭にもリンクした1月8日のページです>>)にも書かせていただいたように、この北畠軍には、あの鎌倉幕府第14代執権・北条高時(ほうじょうたかとき)の遺児=北条時行(ときゆき)が合流しています。

なんだかんだで義貞は、鎌倉を攻撃して高時を死に追いやった直接対決の相手(5月22日参照>>)・・・敵の敵は味方とは言え、さすがに、直の父の仇との合流は避けようとしたのでは?とも・・・

さらに、一旦制圧した京都という地を、度々奪われては、その度にはるか奥州の自分を頼るというこれまでの不甲斐なさ自体に嫌気がさしていたのかも知れません。

とにもかくにも、ここで顕家は、南朝の本拠地=吉野を目指して、伊勢から奈良に向います。

後から思えば、これが、顕家の生涯において、最大のターニングポイントだったわけですが・・・そのお話は、また後日・・・

・・・で、もちろん、この迂回の情報は、いずれ、京都にいる尊氏にも届くわけで・・・尊氏は、早速、かの青野原でも奮戦していた桃井直常(ももいただつね)桃井直信(ただのぶ)兄弟を奈良へと派遣・・・

こうして、戦いは奈良の地へと移行していきますが、そのお話は、いずれかの「その日」にさせていただく事にしますねm(_ _)m
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2013年1月27日 (日)

謎多き…源実朝暗殺犯・公暁の最期

 

建保七年(1219年)1月27日、鎌倉幕府・第3代将軍の源実朝が、鶴岡八幡宮にで、甥の公暁に暗殺されました。

・・・・・・・・・

とは言え、この源実朝暗殺事件・・・

父=源頼朝が開いた鎌倉幕府を受け継いだ第3代将軍である源実朝(みなもとのさねとも)が、建保七年(1219年)1月27日、鎌倉の鶴岡八幡宮に参拝した時に、公暁(くぎょう)という人物に襲われて死去・・・

犯人=公暁は、前将軍であった実朝の兄・頼家(よりいえ)の息子で、父も(7月18日参照>>)、そして兄(10月15日参照>>)や弟もが北条氏によって殺された事への恨みとともに、自らが新将軍の座につきたいという野望を以って犯行に及んだものの、有力御家人の三浦義村(よしむら)の放った追手によって、その日のうちに殺害される・・・というのが、一般的に言われている、事件のおおまかな経緯。

このブログでは2008年と2009年の
【迷宮入り?将軍・実朝暗殺事件の謎】>>
【将軍・源実朝~暗殺事件の謎・パート2】>>
と、内容かぶりながらも、2度に渡って書かせていただいているので、くわしくは、ソチラのページで見ていただけるとありがたいのですが、本日は、その捕捉として、複数の文献に残るお話をご紹介させていただきます、

Minamotonosanetomo600 そもそも、一国の将軍ともあろう人が、公卿の居並ぶ前で暗殺されたにも関わらず、なぜに、謎が多いのか??

もともと、恨みと野望による犯行とする、上記のおおまかな経緯というのも、鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)によるところが大きいわけですが、その『吾妻鏡』は、幕府の公式記録であるがゆえに、「北条家の悪口は一切書かない」という方針であるため、その内容を丸々信用するわけにはいかないところへ持ってきて、他の文献には微妙に違った事が書いてある・・・

公暁の最期の場面に関しては、『吾妻鏡』も、そして『吾妻鏡』より信憑性があると言われている『愚管抄(ぐかんしょう)でも、犯行後の公暁が、「今日から、俺が将軍や!準備して迎えに来いや」という内容の手紙を三浦義村に送り、なかなか来ない迎えにしびれを切らして三浦邸へ逃げ込もうと、屋敷の塀を登ったところで追手に襲われて長尾定景(さだかげ)に討ち取られたとありますので、今のところ、それが正史であろうと言われているわけですが・・・

しかし、その『吾妻鏡』でさえ、討ち取った公暁の首を、北条義時(よしとき)邸にて首実検する際、息子の泰時(やすとき)
「我れ、いまだ公暁殿の面(おもて)を見奉ることなし。なを疑胎(ぎたい)あり」=(首が)本物がどうかワカラン」
という発言をしているのです。

他にも・・・
『保暦間記(ほうりゃくかんき)では、三浦邸に逃げて来た公暁を、義村自身が刺殺した事になっているのと、『承久軍物語(じょうきゅういくさものがたり)では、公暁は三浦邸には行かず、大臣山に逃げ込んだものの、大雪のために道に迷い、山中をさ迷っているところを長尾定景に討たれたとなっています。

まぁ、それでも、ここらへんまでは、あくまで微妙な違いで、なんとなく許容範囲なわけですが、同じ『保暦間記』には、別の説として「八幡宮山にて餓死した」という説がある事を書いています。

また、別の『承久記(じょうきゅうき)には、逃走中に、大雪のために山から転げ落ち、あるお屋敷の門の下に身を寄せていたところ家主に盗賊と勘違いされて殺され、遺体が犬の群れに噛み散らされたとありますが、またまた、そこでも別の説として、「なんだかんだで結局は行方不明」みたいな事も書かれています。

そんな曖昧な最期を裏付けるかのように、公暁のお墓という物は、未だ見つかっておりませんし、葬儀らしき物が行われた記録もありません。

「見つかっていない」と言えば、暗殺後に肌身離さず公暁が持っていたはずの実朝の首も見つかっていないのです。

冒頭に書かせていただいた通り、時の将軍ですよ!
その首が見つからないまま・・・って、、、

犯人の公暁だって、なんだかんだで将軍家の血筋を引き継ぐ人なわけですし、何たって北条政子の孫・・・なんだか、事件の終わり方が、とても不可解です。

しかも、どうやら、この不可解さは、文献の微妙な違いによって現在人が感じる不可解さではなく、事件当時からあった不可解・・・

なんせ、嘉録二年(1226年)には陸奥国白河関(福島県)「我こそ公暁!」と名乗る者が現われ、結城朝広(ゆうきともひろ)なる人物が討ち取ったと言われているのです。

結局は、捕えてみればニセモノだったようですが、嘉録二年(1226年)と言えば、この暗殺劇から、まだ7年しか経っていません。

そんな時期に、ニセモノとは言え公暁と名乗る者が現われて謀反を企て、幕府側でも「ひょっとしたら」と思うという事は、やはり、この将軍暗殺事件が未解決であったからではないでしょうか?

『吾妻鏡』が言うように、この事件が、北条家に恨みを持ち、自らが将軍になろうとした公暁による私利私欲の単独犯で、犯人が、すぐさま捕えられて殺害されたのだとしたら、不可解な事など何も無いはずですからね~

建保七年(1219年)1月27日28歳の若さで暗殺された将軍・実朝・・・
そして同じ日に、20歳で死んだ実行犯とされる公暁・・・やはり、二人ともが被害者のような、違和感の残る事件ですね。

*関連ページ
 ●【実朝の後継…北条政子上洛】>>
 ●【実朝暗殺事件の謎】>>
 ●阿野時元の謀反】>>
 ●【北条時房が武装して上洛】>>
 ●【源頼茂謀反事件】>>
 ●【義時追討の院宣発給で乱勃発】>>
 ●【北条政子の演説と泰時の出撃】>>
 ●【承久の乱~木曽川の戦い】>>
 ●【承久の乱~美濃の戦い】>>
 ●【承久の乱~瀬田・宇治の戦い】>>
 ●【戦後処理と六波羅探題の誕生】>>
 ●【後鳥羽上皇、流罪】>>
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2013年1月25日 (金)

「西国の将軍」と称された池田輝政

 

慶長十八年(1613年)1月25日、信長・秀吉・家康の三英傑に仕えた戦国武将・池田輝政がこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

織田信長の乳兄弟であった池田恒興(つねおき)の次男として生まれた池田輝政(てるまさ)は、当然のごとく、はじめは、その信長に仕えます。

しかし、ご存じのように、まもなく、信長は本能寺に倒れ・・・この時、輝政=18歳・・・

Ikedaterumasa400 信長亡き後、羽柴(豊臣)秀吉に仕える事になった父=恒興とともに、彼も秀吉配下に・・・しかし、その後、天正十二年(1584年)に起こった小牧長久手の戦いで、父の恒興と兄の元助を同時に失ってしまいます(4月9日参照>>)

父と兄の死を受けて、池田家の家督を継ぐことになった輝政・・・以前、この時の秀吉の手紙をご紹介した(4月11日参照>>)と思いますが、その手紙にもあるように、亡き恒興の功績を高く評価していた秀吉は、翌・天正十三年に、輝政に美濃(岐阜県)岐阜城を与え、その領地も10万石としました。

さらに、その3年後には、「豊臣」の姓を名乗る事も許されます。

続く小田原征伐(7月5日参照>>)でも活躍した輝政は、その戦後には東三河(愛知県東部)4郡をプラスされて、合計15万2000石を領し、吉田城(愛知県豊橋市)を居城としました。

さらに、文禄三年(1594年)には、秀吉の仲介で、かつて北条氏直に嫁いで(11月4日参照>>)、今は未亡人となっている徳川家康の娘・(とく)と結婚・・・

と、この結婚が輝政の運命を変えたのか?
いや、あの石田三成(みつなり)襲撃事件(3月4日参照>>)の7人のメンバーにしっかり加わっているので、はなから、反三成派だったのでしょうが、とにもかくにも、秀吉亡き後に起こった関ヶ原の戦いでは、バッチリ、東軍として参戦します。

小山の陣でUターンを表明した(7月25日参照>>)家康に賛同して、その先発隊となって西上(8月11日参照>>)、関ヶ原の前哨戦となる岐阜城攻防戦へと・・・

んん?岐阜城??

そう、今回攻めるその場所は、かつて自分が居城としていた岐阜城・・・その岐阜城は、ご存じのように、かつての主君である信長の、それも、トップクラスの重要な城であり、しかも、この時に岐阜城を守っていたのは、その信長の嫡孫である織田秀信・・・(8月22日参照>>)

そう、信長亡き後に行われた清州会議(6月27日参照>>)、秀吉が後継者として担ぎあげた幼子三法師です。

若き日に父とともに仕えた懐かしき場所・・・
その後、自ら政務をとった思い出の城・・・
そして、攻めるべき相手は、そのかつての主君の血筋を継ぐ、たった一人の嫡流・・・

おそらく、様々な思いが交錯した事でしょうが、そのぶん、勝手知ったる岐阜城下なわけで・・・

結局、輝政の家臣の池田吉左衛門が水門を破って突入し、岐阜城内への一番乗りを果たしたのでした。

この功績により、戦後は播磨(はりま=兵庫県南西部)姫路城52万石の大出世を果たします。

そう、現在、日本国内でも屈指の名城として世界遺産にもなっている、あの姫路城・・・

その原点は、正平元年(1346年)に播磨の豪族・赤松則村(あかまつのりむら)の息子・貞範(さだのり)姫山に築いた小さな砦だったと言われていますが(7月22日参照>>)、それを、別名:白鷺城と呼ばれるような、現在の大城郭に造り上げたのが輝政です。

Dscn7646a800
姫路城・天守閣から城下を望む

こうして、姫路藩の藩祖となった輝政・・・自身の所領と、次男&三男を合わせると、その所領は82万石に・・・さらに弟・長吉(ながよし)因幡(鳥取県東部)も合わせると、合計で92万石・・・

それは「姫路宰相百万石」と呼ばれ、「西国の将軍」と称されるほどの権勢を誇る事になるのです。

♪人間五十年
 化天
(下天)のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり~♪

慶長十八年(1613年)1月25日・・・ちょうど50歳で、その人生を終えた輝政・・・

できれば、もう少し長く・・・とは思いますが、三英傑とともに駆け抜けた戦国の時代を走り終え、ちょっとばかり、ホッとしたのかも知れませんね。
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2013年1月24日 (木)

道三を驚かせた?若き信長の村木城(砦)の戦い

 

天文二十三年(1554年)1月24日、織田信長が今川方の尾張村木城(砦)を落としました。

・・・・・・・・・

ご存じのように、地理的に、美濃(みの=岐阜県)斎藤道三(どうさん)と、遠江駿河(とおとうみ&するが=静岡県西部)今川義元(よしもと)に挟まれる形だった現在の愛知県・・・

そんな愛知県の西部が尾張(おわり)で東部が三河(みかわ)・・・で、戦国時代の常として、ここらへんでの境界線を巡っての抗争が絶えなかったわけですが、両者とも未だ弱小・・・
小豆坂の戦い>>井ノ口の戦い>>を参照

国内統一すらできていなかった尾張の織田信秀(のぶひで)は、天文十六年(1547年)9月の加納口の戦い(9月22日参照>>)の後、道三との戦いを一旦休止して、自らの息子=信長と道三の娘=帰蝶(濃姫)(2月24日参照>>)結婚の実現させて同盟を結び、生き残りを図ります。

一方の三河の松平広忠(ひろただ)も、自らの息子=竹千代(たけちよ=後の徳川家康)人質として義元に差し出し、今川の傘下となって生き残りを図ります。
(実際には、竹千代は織田に奪われます:8月2日参照>>

・・・で、こうなると、その境界線争いの構図は、「織田VS今川&松平連合軍」が主流となる(11月6日参照>>)わけですが・・・

そんなこんなの天文二十年(1551年)・・・信秀が病死して、当時18歳の信長が後を継ぎます。

その後、天文二十二年(1553年)閏1月には、信長の(もり)だった平手政秀(ひらてまさひで)が切腹する(1月13日参照>>)という一件がありながらも、同じ年の4月には、あのドラマでの名シーンの道三との会見(4月20日参照>>)をこなし・・・

・・・と、そんな中、駿河の義元は、織田に属する重原城(愛知県知立市)山岡伝五郎を攻めた後、尾張進攻の前線基地として村木城(愛知県知多郡東浦町=村木砦とも)を築き、水野金吾(家康の母:於大の方の弟の水野忠分と思われる)緒川城(小河城=同じく東浦町)に狙いを定めます。

Murakizyoucc
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストはそれぞれの城の位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

この時の信長の居城は那古野城(愛知県名古屋市中区)・・・村木城は、完全に、那古野城と緒川城との連絡路を遮断する位置に構築されたのです。

この状況に、織田方だった寺本城(愛知県知多市)人質を差し出して今川方に寝返り・・・

当然の事ながら、かの村木城をぶっ潰すべく、出陣を決意する信長ですが、先に書いた通り、現段階では尾張国内にも敵がいっぱい・・・自分が留守にしている間に、清州城(愛知県清洲市)織田信友(のぶとも=尾張下四郡の守護代:11月26日の前半部分参照>>那古野城を攻めて来る事を警戒した信長は、舅である道三に援軍の派遣を依頼します。

これを受けた道三は、すぐさま、配下の安藤守就(もりなり)1000の兵をつけて派遣・・・さらに田宮甲山安斎熊沢物取新五という5人の武将にも、「合戦の一部始終を報告するように…」との命令を授けて、信長のもとに送り出しました。

天文二十三年(1554年)1月20日、安藤らに面会した信長は、大いに喜び、翌日の1月21日に出陣する事を決定しますが、ここで、織田家の家臣である林秀貞(ひでさだ)林通具(みちとも)の兄弟が、なぜか猛反対して、与力である前田与十郎(種定)の城へと戻ってしまいます。

まぁ、この兄弟・・・後に柴田勝家(かついえ)と結託して、信長の弟=信行(11月2日参照>>)当主とすべく動く人たちなので、何となく、信長とウマが合わなかったのかも・・・

とは言え、重臣が、戦わずして戻ってしまった事に、城内は騒然となるのですが、さすがは信長さん・・・「別にええやん」慌てず騒がず、そのままご出陣・・・

・・・で、上記の通り、緒川城への連絡路を塞がれてしまっているので、信長は、海路にて緒川城へと向かい、緒川城側・・・つまり村木城を背後から攻める作戦を計画し、熱田に一泊した後、1月22日に出港する手はずとなっていたのですが・・・

これが、朝起きてみると、この日はトンデモな強風・・・とてもじゃないが船を出せる天候とは言い難く、地元で雇った船頭や水夫たちは、こぞって船出に反対します。

すると信長・・・
「昔の渡辺、福島にて逆櫓(さかろ)を争ふ時の風も、是れ程こそ候えめ」と言った(『信長公記』より)と・・・

そう、あの源平合戦の時の、屋島の戦いに向かう源義経(みなもとのよしつね)梶原景時(かじわらかげとき)の、あの一件です(2月16日参照>>)

屋島に陣取る平家軍を奇襲すべく、義経は、猛反対する景時や船頭たちにナイショで、わずか5隻の船で、嵐の海を四国へと渡海し、見事、奇襲を成功させる・・

「あの時かって、こんな風が吹いとったやろ…せやから、ゴチャゴチャ言わんと、船、出せや!」
というわけです。

こうして半強制的な船出となりましたが、無事、緒川城の近くに到着・・・その後、緒川城に入って水野と会って最新の状況を聞き、いよいよ決戦の時を迎えます。

天文二十三年(1554年)1月24日明け方に出陣した信長は、午前8時頃から村木城に攻めかかります。

この村木城は、北は手薄なれど天然の要害、東が大手、西が搦手(からめて)となっており、南側に大きな堀を備えています。

信長は、自ら、最も攻め難き南に陣取り、若手の精鋭を堀端にとりつかせてゲキを飛ばせば、血気盛んな若者たちが、我先にと堀端を上り、落とされては、また上り・・・その間に、3隊に分けた鉄砲隊で、入れ代わり立ち代わりの援護射撃・・・

一方では西の搦手を織田信光、東の大手を水野金吾が攻めます。

この戦いでは、織田方にも多くの死者を出したと言いますが、もちろん、それ以上に敵のダメージは大きく、夕方頃には、もはや敵兵もまばらとなった事から、信長は、この後の事を水野に任せて、自らは引き揚げました。

結局、午後4時半頃には戦闘は終了・・・織田軍の勝利となりました。

翌日、今回の一件で寝返った寺本城下に、手勢を派遣して火を放った後、那古野城に帰還・・・

その後、美濃へと帰還した安藤らは、使命を受けた通り、今回の合戦の一部始終を道三に報告するわけですが・・・

その様子を聞いた道三・・・
「すざまじいやっちゃな…そんなヤツと隣人やとは!」
と言ったとか・・・

信長を、一気に全国ネットに押し上げる桶狭間は、この数年先(5月19日参照>>)・・・未来を予感させるような、信長=21歳の時の合戦でした。
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2013年1月22日 (火)

今も昔も信仰あつき…「蟻の熊野詣」

 

寛治四年(1090年)1月22日、白河上皇熊野三山へ行幸されました。

・・・・・・・・・・・

って事で、本日は、昨年の大河ドラマ「平清盛」でも触れられていた熊野詣(くまのもうで)について、ご紹介させていただきたいと思います。

熊野詣の熊野は、ご存じの通り、和歌山県は紀伊半島の岬の突き出たあたり一帯を指す地名で、もともとは、「樹木が生い茂っていて、昼なお暗い」といったイメージを指す形容詞=「隈々しい(くまぐましい)」に由来した地名だと言われています。

・・・で、そこにある熊野三所(社)権現とか、熊野三山とか呼ばれている大きな3つの神社、熊野本宮大社(ほんぐうたいしゃ・熊野坐神社)熊野速玉大社(はやたまたいしゃ・新宮)熊野那智大社(なちたいしゃ)を中心に、平安時代頃から仏教修行の道場として注目を浴びるようになります。

現在、稲荷社、八幡社に次ぐ、3番目に多く全国に散らばる熊野神社をいう神社名の本源が、ここなのですね。

平安時代に隆盛を極めたのは、当時、一大ブームとなっていた末法思想による阿弥陀如来信仰から・・・

ずいぶん前に【藤原頼通と平等院】>>のところで書かせていただきましたが、
「お釈迦様が亡くなって2千年が経つと、仏教の教えがすたれ、天災や戦争などの不幸が続く、『末法の世』なってしまう。永承七年(西暦では1052年)がその『末法の世』の第一年である」
というのが末法思想で、

それが、
「阿弥陀如来を信仰する事によって、極楽浄土に往生できる」
というという事なのです。

・・・で、本宮は阿弥陀如来、新宮は薬師如来、那智は千手観音十一面観音を安置している事から、現世と来世の2世のご利益を得る事が出来るとして、特に、今の地位を失いたくない貴族や公家が、こぞって熊野詣に出かけた事から、やがて、それが庶民にも広がって行き、「蟻(あり)の熊野詣」と表現されたくらい、大勢の人が参拝に訪れるようになったのです。

天皇の行幸としても、延喜七年(907年)の宇多天皇を皮切りに、冒頭に書かせていただいた白河上皇は、その生涯で9回鳥羽上皇21回後白河法皇に至っては、なんと34回も熊野に参拝しています。

もちろん、天皇や貴族にとっては、堅苦しい都での日常を離れて、しばしのんびりできるという意味合いもあったのでしょうが・・・

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那智参詣曼荼羅「補陀洛山寺本」(青岸渡寺蔵)

とは言え・・・
この平安時代のブームから、鎌倉→室町、そして江戸時代に入れば伊勢神宮と並んで参拝者が絶えなかった熊野詣も、明治の神仏分離&廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、周辺の神社の数は激減し、熊野詣の風習もなくなってしまい、もはや、どこに道があったかもわからなくなっていた部分も多くあったのが一時期の現状でした。

しかし、それを有志によって復活させ、現在の熊野古道として整備された関係者の方々の努力には、歴史好きとしては感謝感激・・・今では、世界遺産となって、再び訪れる人も多くなりましたね。

それこそ、災害からの復活も徐々に行われている今日この頃・・・

ところで、この熊野古道の起点が、大阪の八軒屋船着場だったという事をご存じでしょうか?

Dscn7130a800 現在、京阪&市営地下鉄の天満橋駅近くに、起点の石碑が建てられています
(くわしい場所は、本家HP:大阪歴史散歩「中之島」でどうぞ>>)

もちろん、ここらあたりは「熊野古道」とは呼ばれず、その名も「熊野街道」で、世界遺産にも指定されていませんが・・・

そもそも、京都から三十石船で淀川を下り、現在の天満橋付近にあった八軒屋船着場に上陸して、ここから南へ歩いて、ほぼ海岸沿いを田辺まで行き、田辺から東の山奥に向かっていくというのが、陸路のルート・・・

Kumanosannkeidoucc_2
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストはルートをわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

もちろん、平安時代に三十石船はありませんので、京都からの移動には船の他にも西国街道を行ったりしたわけですが、この起点の場所からは、「○○王子」とつく熊野権現の化身とされる御子神を祀った社が道沿いに点在していて(総称して九十九王子と呼ばれます)、それが参拝者の目印でもあり、旅の安全を祈願する場所でもあったのです。

ちなみに、九十九という数字は「多い」という意味で、実際に数が99社あるという意味では無いです。
また、今回の地図では、王子の中でも格式が高いとされる五躰王子社の5つと出発点に近い阿倍野王子のみを書かせていただきましたが、たとえば、藤白王子と切目王子の間だけでも、25社ほどの王子があります。

一方、海路で詣でる場合もあり・・・
その時は、淀川を下って大坂につき、神崎から再び船に乗って、やはり田辺から上陸するか、さらに紀伊半島をグルッと回って新宮へ・・・というのが、一般的なルートだったとか・・・

ただし、清盛の場合は、本領が伊勢なので、伊勢から海路で熊野詣をした記録も残っていますので、その場合は、東側から新宮へという事なのかも知れませんが、例の平治の乱(12月15日参照>>)の時は陸路だったようです。

ところで、私事で恐縮ですが、1度、この私も熊野街道に挑戦いたしました。

もちろん、最終的には、大阪からのルートを制覇すべく、まずは和歌山の一の宮藤白神社(藤白王子)から、少々の山越えをともなうルートを丸1日歩いてみたわけですが、なんと、その時にデジカメに撮った写真をPCに保存する前に、SDカードを初期化してしまうという大失態をヤラかしてしまい、記念となる写真が1枚も残らず・・・これが、最初の最初だっただけに、テンションだだ下がり&出ばなををくじかれた感満載となってしまい・・・結局、それから、まだ、行けて無いのです(p_q*)

いつか・・・必ず・・・平安時代に思いを馳せながら旅したいと思っておりますが、いつになる事やら・・・
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2013年1月21日 (月)

会津騒動で改易…会津藩主・加藤明成

 

万治四年(1661年)1月21日、会津騒動を勃発させて改易処分となった会津藩2代め藩主・加藤明成が70歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・

加藤明成(かとうあきなり)は、あの賤ヶ岳七本槍(4月21日参照>>)の一人に数えられた加藤嘉明(よしあき)の長男・・・

Kaouyosiaki500ats 父・嘉明が、あの関ヶ原の時に、「石田三成(みつなり)憎し」の武闘派メンバーの一人(3月4日参照>>)として東軍につき、その後の大坂の陣でも徳川方として参戦した(4月29日参照>>)事から、豊臣恩顧なれど徳川政権下で生き残り、寛永四年(1627年)に会津40万石を与えられて初代藩主となっていたのを、その父の死を受けて、明成が第2代藩主として、後を継いだわけです。

とは言え、この明成さん・・・残る文献では、暗君・暴君・イイとこ無しのボロカスです。

『古今武家盛衰記』には、「暗将にて、武備を守らず、臣庶の困窮を顧(かえりみ)ず」とあり、『野史』でも、「財をむさぼり民を虐(しいた)げ、好んで一歩(いちぶ)金を玩弄(がんろう)す…人呼んで一歩殿」と・・・

民衆の困窮に何の策を講じる事もなく、自分が金を集める事に夢中になっているダメ藩主だったので「一歩殿」なんてニックネームで呼ばれていたという事ですね。

が、しかし、一方では、先の会津地震で倒壊した若松城を建てなおすのと同時に、猪苗代湖の水を会津盆地に引き込む灌漑工事をはじめ、様々な土木工事を行って、会津の町を近世の城下町として整備したのも明成だと言われています。

なので、おそらく、実際には「100%の暗君でイイとこ無し」って事はなかったように思いますが、負け組に弁解の機会は無いのが封建社会の常・・・

そう、実は、明成さん・・・会津騒動というお家騒動を起こして、負け組となってしまうのです。

それは寛永十六年(1639年)4月16日の事・・・彼が2代め藩主となって8年目の春、父の時代からの重臣であった堀主水(ほりもんど)という人物が、一族郎党=300余名を従えて明成に反発し、会津城下を去ってしまったのです。

彼は、もともと多賀井という姓をい名乗っていたのを、大坂の陣で、堀の中での組み撃ちで敵将の首を挙げた事から、前藩主の嘉明から「堀」という姓を賜り、以来、重臣として大活躍・・・明成の代になっても家老として、藩政の中心となっていた人でした。

しかし、こういう人って、後を継いだ新藩主から見れば表裏一体です。

うまく行けば、先代より引き継いだ家臣たちをまとめてくれる強い味方となりますが、一歩間違えば、自らの腕を振るおうとする新藩主に、何かと前例を持ちだして苦言ばかりを呈する、煙たくてうっとぉしいご意見番となってしまうわけで・・・

明成と主水の関係は、残念ながら、完全に後者となってしまっていたのです。

対立が表に出るキッカケとなったのは、ほんの些細な事・・・明成の家臣と主水の家来による、日常茶飯事的な、ちょっとしたケンカでした。

しかし、上記のように、日頃からうっとぉしいジイサンにウップンたまりまくりの明成は、このケンカをことさら大げさに扱い、主水の大恥をかかせるような裁決を下したのです。

とは言え、本来なら、いくら不服でも、主君の采配に従うのが家臣なわけですが、実は主水さんの方も、それに負けてないような性格・・・なんせ、好みの女性を見つけたら、その人が人妻であっても、「その権力で以って無理やり離縁させてお妾にする」てな事をやっていた人だったのだとか・・・

・・・で、この明成の判決に不満を抱いた主水が、会津を出る・・・というワケですが、その時に、従者の持つ鉄砲の火縄に点火をしたまま城下を出て、少し離れた中野村(門田町)から、なんと!若松城に向けて発砲して近くの橋を焼き落とし、関所を破って出て行ったとの事・・・

この一連の主水の行動を江戸屋敷にて伝え聞いた明成・・・それこそ、黙ってはいられません。

「これは、藩主を侮辱する行為やぞ!絶対に許さん!天地の果てまでも追いかけて厳罰にしたる!
怒り心頭で、追手を差し向けます。

会津を出て、一路、南へ逃走中の主水は、鎌倉にて妻子を駆け込み寺の東慶寺に入れ、自らは、兄弟たちとともに、あの高野山へと逃げ込みます。

もともと、お寺は治外法権な部分がありますが、この女性向けの東慶寺と男性向けの高野山は、特に、誰も手を出せない感満載のお寺・・・

案の定、明成が要求した主水らの身柄引き渡しも、高野山はあっさりとお断わり・・・すると、明成は、怒りのあまり、「会津の所領に変えてでも、主水を追捕します!」と幕府に訴えたのです(『藩翰譜』)

所領に変えてでも???
一家臣の追討のために、40万石を捨てるの???

と驚いちゃいますが、ここは、記録通りに話しを進めていきますと、そのテンションのまま、明成は出兵の準備を開始し、今にも、高野山を攻撃する勢い・・・

これに驚いたのは幕府・・・「このまま聖地に攻撃されてはエライ事に…」と、慌てて、高野山に、主水を引き渡すよう申し入れます。

一方、それを知った主水らは、コチラも慌てて高野山を出て、その足で紀州藩主の徳川頼宣(よりのぶ)のもとへ行き、加藤家が「昔は、こんなに豊臣恩顧であった」てな話や「最近、城を建て変えて反逆を企んでるんじゃないの?」てな感じの7カ条に渡る理由を並び立て、逆に、明成を討伐する許可を願い出たのです。

この訴えによって、明成も呼び出されて詮議を受ける事になりますが、その時には、それこそ、主水が会津を出る時に行った一連の行為を「藩主への反逆」として訴えます。

結果、明成の訴えが「もっともだ」と聞き入れられて主水の訴えは退けられ・・・寛永十八年(1641年)3月、哀れ主水は拷問の果てに斬首。

さらに、弟たちも切腹にしたうえ、東慶寺にも兵を差し向けて妻子までをも処刑しました。

・・・と、これが、やっちまいました(p´□`q)゜o・・・です。

そう、主水らの処刑は、なんだかんだで幕府の采配ですから、それをどう執行しようとかまわなかったわけですが、東慶寺への攻撃はいけません・・・

以前、書かせていただいたように、ここは、神君家康公が、自ら、治外法権の権限を与えた特別なお寺(5月8日参照>>)・・・そこに手を出しちゃったら、さすがに万事休す・・・

「確か、君・・・前に『会津の所領に変えてでも、主水を追捕します!』って言うたよね?」
「ほな、その通りに、したろやないか~」
と、以前のイケイケ発言を逆手に取って、将軍・徳川家光は、明成に改易を申し渡したのです。

ただし、前藩主の嘉明の功績が、「あまりにも良い」と評価されていた事から、明成の息子=明友(あきとも)石見吉永藩(島根県太田市)1万石が与えられ、加藤家は何とか存続・・・

明成は隠居という立場で、息子のもとに身を寄せ、万治四年(1661年)1月21日70歳でこの世を去りました。

40万石から、わずか1万石になったとは言え、何とか存続しただけでも、良かったのかも知れませんが、それこそ、負け組に弁解の機会が与えられていないのだとしたら、この一連の騒動も、記録の通りではなく、何かしらのウラがあるかも知れないわけで・・・

ひょっとしたら、この関連で、ついでに潰されたんじゃないの?
と、かんぐりたくなるような松下長綱(まつしたながつな)の改易(9月10日参照>>)とともに、徳川家による外様潰しの疑いも残るような会津騒動でした。
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2013年1月20日 (日)

冬の夜の昔話~奈良の「ゆきちゃん」

 

今日は、1月20日は二十四節季の一つ大寒(だいかん)です。
二十四節季については10月8日のページで>>)

もう、字からして、1番寒い季節ってのがわかりますが、本日は、そんな寒い日にピッタリの奈良に伝わる昔話=「ゆきちゃん」をご紹介します。

口伝えの昔話ですので、どこかによく似た話が残っていたり、題名や内容が違っていたりという事もあろうかと思いますが、なにぶん、成立年代もハッキリしない物ですので、そのあたりはご了承ください。

・・・・・・・・・・

昔々、奈良のある村に仲の良いおじいさんとおばあさんがおりました。

年老いても比較的元気な二人にとっては、毎日が楽しく、しいて不満は無かったのですが、ただ一つの心残りは、この年になっても、二人の間に子供がいなかった事・・・

そこで、ある日・・・

「なぁ、おじいさん・・・一つ、村のお宮さんに願をかけにいきましょうな・・・
ひょっとしたら、願い事、聞いてくれはるやも知れまへんで」

と、おばあさん・・・

「そやな」
という事になって、ある晴れた日に、二人で出かけ
「どうか、私たちにややこ(赤ん坊)を授けてくだされ~」
と、願いをかけ、その日からは、雨の日も風の日も、欠かさずに出かけては、お祈りする毎日でした。

そんなこんなで幾日がたったある日・・・その日は、ハラハラと雪の舞う寒い日でした。

いつものようにお宮さんの前に来ると、赤い綿入れにくるまった赤ん坊がオイオイと泣いておりました。

「おぉ、可哀そうに・・・どないしたんや?」
と抱きあげるおばあさん・・・

ふと
「ひょっとして、この子は、氏神様がワシらに授けてくれはった子やないやろか?」
と思うおじいさん・・・

あたりを見回しても誰もいませんし、このまま、雪の中に置いて帰るのも心苦しい・・・とりあえず、家に連れて帰りますが、氏神様への願掛けの事もあり、その帰り道の時点で、もう、二人の心の中は、我が子としての情で満杯に・・・

家に帰ってよくよく赤ん坊の顔を見てみると、肌が抜けるように白い・・・

もう、すっかり、その気になって
「こんな、ええ子を授けてくださって・・・ホンマ、ありがたい事や」
「雪の日に授かった雪のように白い子やさかい、名前は『ゆき』にしまひょ」
と・・・

以来、おじいさんとおばあさんは
「ゆきちゃん」「ゆきちゃん」
と言って、可愛がって育てました。

ゆきちゃんは、白いご飯を1杯食べれば1杯ぶん、2杯食べれば2杯ぶん・・・と、食べたら食べただけ、ズンズン背がのびていきます。

元気で丈夫で明るくて・・・さらに、なかなかの器量よし・・・それこそ、申し分無い良い子に育つゆきちゃんですが、おじいさんとおばあさんにとっては、たった一つ気がかりな事が・・・

それは、ゆきちゃんは冬の寒いにには、メッチャ元気なのですが、夏の暑い日には、何だかしょんぼりしている・・・

「なんでかなぁ?」
と思いつつも、秋風が吹く頃には、また元気になるので、
「まぁ、いいか!」
てな感じだったわけですが・・・

そんなこんなのある日・・・その日は、村祭の日でした。

「ゆきちゃん、あそぼ!」
「お宮さんへ、行こうや!」
と村の子供たちが誘いに来ます。

「うん!」
と、ゆきちゃんは可愛い鹿の子の着物を着せてもらって、友達といっしょにお祭りに出かけました。

境内につくと、そこには、赤々と松明(たいまつ)が燃え、祭の雰囲気も最高潮・・・

いつしか、子供たちの間で、「松明の飛び比べっこ」が始まります。

「1・2・3!」
「せ~の」

で、走って行っては、松明を飛び越えて、勇気をためす子供たち・・・

「ゆきちゃんも、いっしょに飛びくらべっこしようやぁ」
一人の子が誘います。

「いやや、こわいもん」
「怖い事あらへんって・・・」
「飛んでみ、飛んでみ」

「いやや、いやや」
と、かたくなに嫌がるゆきちゃんを見ていると、周りの子供たちも、ついつい意地になって来るもので・・・

やがて、
「飛ばれへんのか~い」
「や~い、弱虫、毛虫~」

と、はやしたてるようになります。

その光景に、負けん気が湧いてくるゆきちゃん・・・

「なにクソ!!」
とばかりに、走っていって、プイッと松明を飛び越えます。

・・・と、ゆきちゃんの体が、フワッと松明の上を飛び越えようとした時、いきなり、白い湯気が立って、ゆきちゃんの体はポッカリと消えてしまいました。

ゆきちゃんは、雪の子・・・火の上を飛んだひょうしに溶けてしまったんやね。

・・・と、友達は皆、たいそう悲しんだという事です。

・・・・・・・・・

東北地方に伝わる「溶けた雪ん子」とソックリのお話ですが、東北地方のが、友達に火のそばに力づくで押しつけられて溶けてしまうのに対して、奈良のお話は、「はやしたてられた事をくやしく思って」自ら飛びに行くっていうところが興味深いですね。

穏やかで保守的でのんびりした性格なのに、負けるくやしさ(特に京都に?)だけは譲れない・・・そこに、奈良県民の秘めたる負けん気の強さを感じる気がするのですが・・・どうでしょうか?
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2013年1月18日 (金)

アンケート企画「この国を変えてくれそうなリーダー(歴史人物)は?」の結果発表

 

お待たせしました!

本日は、最新アンケート「この国を変えてくれそうなリーダー(歴史人物)は?」結果報告です。

改めて・・・
投票に
ご協力いただいた皆様、
ありがとうございました
o(_ _)o

・・・で結果は???
予想通り、「その他」もたくさんいただきましたが、前回と前々回に引き続き、またまた得票数ゼロだった項目がなく、選択肢を考えた身としては、ウレシイ結果となっております。

 .
改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆ジャ~

1位
30票
織田信長
やはり、相変わらずの人気ですね~2位に倍ほどの差をつけて、堂々の1位です!
2位
17票
聖徳太子
失礼ながら意外でした…これまで、あまり上位に来られた事無かったので…ですが「国家を…」となると頼りたい人ではあります。
3位
16票
坂本龍馬
やっぱり、この方も不動の人気ですね~ここ最近「維新」やら「八策」やらの単語も、現実世界で多かったですし…
4位
9票
豊臣秀吉
1番にはならないけれど、何となく、いつもイイ位置につけてる感じ…やはり万年2位の大阪に縁があるのかも
5位
7票
徳川家康
惜しくも信長&秀吉には及びませんでしたが、やはり三英傑は安定した人気ですね。
6位
6票
徳川宗春
田沼意次

奇しくも、贅沢三昧で景気回復を行ったお二人が並びました。倹約よりも、こっちの方が効果ありそうです。
8位
5票
平清盛
頼朝に差をつける事ができたのは、やはり大河の影響?貿易に目を向けたのも○ですしね。
9位
3票
菅原道真
徳川吉宗

なんとなく、両極端なお二人が並んだ気がしないでもない…やはり、今が、問題山積と言う事なのかしらん。
11位
2票
北条時頼
北条時宗
足利義満
松平定信

有名どころの中に、ちょっぴりマイナーな時頼さんがはいってる事が個人的にうれしかったりして…(゚ー゚)
15位
1票
源頼朝
0票でなかった事がウレシイ…やはり、完成形を見ないうちの死はトップとしてはツライかも…
その他 24票:下記のコメントでご確認を…

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°

続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・
*いただいた順に表示「青文字」は管理人のコメントです

聖徳太子 日本という国を強く意識し且つ誇りを持って行動した人物ということで1票入れます(50代/女性/福井)
「やはり国単位の事に関しては、この方に期待ですね」
聖徳太子 今は、問題山積 外交にも強く、耳を傾けてくれる この方しかいません(40代/男性/宮城)
「10人に耳を傾けてくれる日出ずる処の天子ですからね…心強いです」
豊臣秀吉 猿知恵に期待(60代/男性/長野)
「そんじょそこらのサルじゃない、なかなかの知恵者ですからね~」
織田信長 昔の田中角栄よろしく、我武者羅にしなきゃならない時代を、突き進めるんじゃないかなあ〜(60代/男性/海外)
「なんだかんだで角栄さんの時代は勢いがありましたからね~」
平清盛 君 今昔の感如何! 素晴らしいリーダーと確信します。(60代/男性/東京)
「確かに、それまでにいなかった異質のリーダーでしたからね」
その他 信長様には悪いけど、上杉鷹山(30代/男性/岐阜)
「不景気になると鷹山さんの人気が高まるそうですが…何となく納得
徳川宗春 こないだ名古屋へいったので。もういちどバブルを起こしてほしい。(20代/男性/秋田)
「バッカバカ使ってバッカバカ儲けたいですなぁ
豊臣秀吉 人を圧倒させる何かをしてくれそうだから。(40代/女性/高知)
「今太閤を望みますね~」
その他 西郷隆盛。維新で活躍し、廃藩置県などの大改革を実現。(30代/男性/埼玉)
「西郷さんも不動の人気を確保してますね~もちろん、人気だけじゃなく実力もアリですが…」
その他 少彦名命 実務能力に期待します。(60代/男性/埼玉)
「勉強不足で少彦名命の実務能力というのがよくわからないのですが、大国主神が完成形だと見た国を“いや、まだまだだ”と言った、あの厳しい目みたいな事でしょうかね?」
聖徳太子 知性と教養、大国相手に媚びない(と、言われている)所に1票。(40代/女性/東京)
「やはり、あの挨拶文はインパクトありますもんね~」
織田信長 信長ならなんとかしてくれそうな感じがします(20代/男性/滋賀)
「“なんとかしてくれそう”というのはわかる気がします」
その他 徳川慶喜さんに一票!敵味方からも恐れられた彼なら上手く日本を切り盛りしてくれそうです(10代/女性/海外)
「歴史上、天下を取る前例はあっても、ウマイ幕引きの前例は無かったですからね…その中で、頑張ったと思います」
織田信長 ベストな選択をしてくれそう!(40代/男性/千葉)
「何もかもお任せできる感じはあります!
その他 ゼウス様、神武天皇、空海様、安倍晴明様、ジョージ・ワシントン様、ウィンストン・チャーチル様、吉田茂様。その他:封印してもらった超能力を解かれた僕です。(30代/男性/三重)
「全知全能のゼウス様がいれば、他に何もいらない気がしないでもない(o^-^o)」
織田信長 劇薬が必要と思われます。(40歳代/男性/愛知)
「いっその事、これくらい!…てな感じですね?」
その他 伊達政宗 当時にしては先見の目があった人のように思われます(40代/女性/宮城)
「もう10年早く生まれていたら…と思います」
その他 高橋是清 麻生さんが現代の是清になってくれたらと願います(60代/女性/神奈川)
「高橋是清…イイですね~期待します!」
その他 ズバリ、卑弥呼
「女性のリーダーもあり?かな(*^-^)」
織田信長 変わるのを期待するならこの方しかいないかと思います♪(30代/男性/滋賀)
「そうですね“変わる”に焦点を当てると、信長さんですね」
その他 米沢藩の財政を立て直した上杉鷹山を忘れちゃダメでしょ(40代/男性/長崎)
「倹約の成功例ですもんね~自らも動いた殿様ですし…」
その他 お釈迦さんを政治家にしたような人が望まれるけど、誰だろう?
「そこまで悟りを開いた方は、なかなかいないでしょうねぇ…そんな方なら独裁もアリなんでしょうけど
坂本龍馬 いろいろといい方向に政治を進めたから(10代/女性/千葉)
「明るい未来が見えて来るような感じです」
徳川家康 やっぱりこの人に一票です!(10代/女性)
「ドッシリとした感じは頼れます!」
北条時頼 こういう政治家って…いないですよね(女性)
「こんな人がいないと“いざ!東京”で駆けつけてくれる政治家も育たないですもんね~」
織田信長 彼くらい強硬な人物が作る日本を作ってみたい見てみたい(50代/男性/東京)
「期待が高まりますね」
織田信長 やはり既得権益に胡坐をかく古い秩序や体制を壊さないと変わらないからね!(60代/男性/兵庫)
「革新という感じではトップですね」
坂本龍馬 彼なら今の日本を良い方向に持って行くと思う(10代/女性/岩手)
「洗濯してほしいです」
その他 重野安繹 薩英戦争交渉(70代/男性/栃木
「さすが、シブイですね」
菅原道真 波乱万丈の人生は本人にとってどうだたのかと(60代/男性/千葉)
「最後が悲しいですからね~」
田沼意次 生まれてきたときからずっと「不景気だ」と言われ続けているので、日本全体が元気な姿を見てみたい!!(10代/男性/大阪)
「10代の方ならそうですよね~アノ頃の私は、給料という物は、勤続年数によってずっと上がって行く物だと思ってました(;ω;)」
坂本龍馬 海の向こう側の広い世界を見つめ、仲の悪い者立ちを一つにした龍馬(テレビの見過ぎ?)。未来志向の龍馬なら、この日本を新たな次元に引っ張り上げてくれそう。(40代/男性/埼玉)
「リーダーシップがハンパなくありそうです」
北条時宗 中国、韓国から日本を守って!
「神風をもたらす男ですからね」
聖徳太子 外交が上手そうだし人格者っぽいので
「国のためにやってくれそうです
織田信長 他人に遠慮しないところ 媚びないところ(40代/男性/兵庫)
「独裁感が強いですが、あまりにも弱腰を見過ぎた後なので…」
聖徳太子 武将(幕府も)は日本のためより自分の家のために動いている印象が強いです。龍馬とどちらか迷いました。(20代/女性/大阪)
「やはり、国家的に見ると、太子様ですかね~
菅原道真 母方のご先祖ということなので。家臣から裏切りが殆ど出なかった度量の広さとチームを大事にする姿勢で、徳川家康さんがリーダーとしてはいいのかも(50代/男性/兵庫)
「ご先祖様は、やはり推したいですね~」
その他 独自のスペイン交易を画策「伊達政宗」(30代/男性/青森)
「家康の目をかいくぐって世界に目を向けた勇気はイイですね~」
坂本龍馬 行動力,人望,先見性,バランス感覚,この人しかいないぜよ(40代/男性/愛知)
「期待しちゅーき」
織田信長 良いか悪いかはともかく何かが変わりそうではある(40代/男性/静岡)
「やはり、“変わる”ですね」
聖徳太子 綺麗事だけではやっていけない世の中かもしれませんが、今の時代の人にはないカリスマ性を求めてというところでしょうか。(40代/女性/兵庫)
「確かに、カリスマ性はピカ一ですね」
その他 小栗忠順(30代/男性/東京)
「そうです!この方です!」
織田信長 今の閉塞感を打破できるのはこの人しかいないと思います。信長に一票!!(30代/男性/福岡)
「やはり、やってくれる感がハンパないですからね」
菅原道真 道真さんの無念を晴らしたい。きっとこの人なら国を変えてくれそう!(10歳代/女性/埼玉)
「地道にジックリとやってくれそうです」
徳川吉宗 幕府の財政の立て直しのため吉宗はいろいろな政策を打ち出してたので、現代のこの不況の世の中にも何か意味のある政策を打ち出してくれるとおもうから。
「暴れるだけじゃなく、改革もしてくれましたからね~」
その他 大石内蔵助  ただし、外交は、小松さーに任せて^^(50代/女性/奈良)
「スミマセンm(_ _)m勉強不足で大石さんに関連する小松さんが謎なのですが…大石さんには家老としてのリーダーシップはありそうです」
坂本龍馬 橋下や石原じゃないけど、こういう人が現れて欲しい!(40代/男性/東京)
「“維新八策”はまるっきし意識した言い回しだと思いますが、やはり、それだけ期待するという事でしょう」
豊臣秀吉 刀狩・検地みたいなことが必要だと思うんですよね。具体的な政策は秀吉☆(60代/女性/埼玉)
「確かに、具体的な政策は秀吉さんですね~トンデモなく荒れていた京都を整備してくれたし…」
織田信長 実力のある若手とかも登用しそう。あと今の日本はトップにもう少し力が必要だと思います。(10代/女性/千葉)
「人材登用&適材適所はバツグンですよね~」
その他 個人的にはやはり、勝海舟(40代/女性/茨城)
「ある意味、幕府側のリーダーですからね」
その他 近代寄りですが、幣原喜重郎。国際関係のごたごたにも冷静に対応してくれそうです。(10代/女性/東京)
「10代の方なのに、シブイ人をチョイスされますね~」
徳川家康 安定感抜群!!(30代/女性/愛知)
「やはり300年の平和の基礎はドッシリしてますからね~」
豊臣秀吉 いろんなツテがありそうなので。(40代/女性/愛知)
「ツテを利用するも政治力の一つだと思います…人たらしの本領を発揮して欲しい」
その他 日米欧、中国国民等の世界の共通の敵である中国共産党(自国企業&貿易超保護主義、腐敗、世界武力侵略主義、党員以外の人権無視)を解体出来る世界的リーダ安部首相!!
「100年後には、そのお名前が信長や龍馬と並んで出て来るような政治を期待します!」
織田信長 ものすごく変えてくれそうなので。(40代/男性/千葉)
「ハイ!確かにものすごく…ですね」
その他 ほかに思いつかないので田中正造(40代/女性/東京)
「庶民の事を考えてくれそうです」
その他 武田信玄、革命というよりも人材の適材適所をやってくれそう(20代/男性/東京)
「人は石垣、人は城、情けは味方、仇は敵…ですね~」
ここからは ブログコメントからの投票です
(コメントの内容はアンケート募集のページでご覧こださい)
その他 上杉鷹山(やぶひびさん)
その他 石原莞爾(レッドバロンさん)
徳川家康 徳川家康に一票(禿げ鼠さん)
徳川家康 徳川家康。(みこちゃんさん)
徳川宗春 宗春さんに一票(清花さん)
その他 伊藤博文さんに一票(伊集院みちこさん)
織田信長 信長さんに1票(hana-mieさん)

・‥…━━━☆

以上、
たくさんの投票、ならびに、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、オモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますよう、よろしくお願いします。
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2013年1月16日 (水)

新陰流の開祖~剣聖・上泉信綱

 

天正五年(1577年)1月16日、新陰流の開祖として知られる剣聖・上泉信綱が亡くなりました。

・・・・・・・・・・

戦国の剣豪&剣客と言われる方々には、往々にして伝説&伝承の域を越えない話が多く残されている物で、この上泉信綱(かみいずみのぶつな)も、ご多分にもれずの曖昧な部分も多々あり、文献によっても違いがありで、今回は、あくまで、諸説あるうちの一つとしてお話を進めさせていただきたいと思います。

信綱の上泉家(こういずみと読む場合もあり)は、あの藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲み、赤城山の南麓=上野勢多郡大胡(こうずけせたぐんおおご=群馬県前橋市)に根づいた大胡一族の出身とされ、信綱の父の上泉秀継(ひでつぐ=憲綱・義秀)は、大胡城の支城である上泉城の城主だったと言います。

信綱自身の名前も、はじめは秀長、後に秀綱、さらに、下記の通り永禄九年(1566年)から信綱と名乗ったとの事ですが、ややこしいので、本日は、ずっと信綱さんと呼ばせていただきます。

・・・で、この信綱さん・・・こうして、父の上泉城で育ち、自らの才能を剣術に見出しはじめた16歳の頃・・・「ここにいたままでは、剣術の才能をのばす師匠に出会えない!」と感じ、一大決心をして武術修行の旅に出る事にします。

それこそ、年数や年齢が、ちと合わない部分もあり、伝承の域を出ないものではありますが、あの新当流(しんとうりゅう)の剣聖・塚原卜伝(つかはらぼくでん=卜傳)(2月11日参照>>)をはじめ、常陸鹿島(茨城県鹿嶋市)の鹿島武術を継承する鹿島神陰流(しんかげりゅう)松本政信(まつもとまさのぶ)や、日向(ひゅうが=宮崎県)陰流(いんりゅう)開祖=愛洲移香斎(あいすいこうさい)・・・また、多くの剣客を輩出した下総香取(しもうさかとり=千葉県佐原市)を訪ねてみたり・・・

とにかく、26歳になるまでの10年間に、各地を巡って高名な剣客に教えを請い、様々な技を会得して上泉村に帰国したと言います。

一説には・・・
その修行中に、尾張(おわり=愛知県西部)のある村を通りがかった時、不逞浪人が、村人の子供を人質に取り、その首に刀を突き付けながら小屋に立て籠るという事件に遭遇します。

村人たちは、子供を助ける術を持たず、ただ泣きながら、見守るばかり・・・

そこにやって来た信綱・・・いきなり、その頭髪を剃って、近くの寺から袈裟(けさ)を借り、坊さんに変身して、村人に「握り飯を2つ作ってくれ」と用意させます。

そして、坊さんのフリをして小屋に近づき、
「子供がお腹をすかせてるやろから、せめて握り飯でも…」
と声をかけます。

浪人から見れば、その姿は、完全に坊さん・・・しかも、武器らしい物も何も持っていませんから、気を許して、小屋に招き入れます。

「こんなアホな事する悪人のお前でも、人の子や…一つはお前の分!」
と言って、浪人に向かって握り飯を投げたのです。

思わず、投げられた握り飯をホイと受け取る浪人・・・その瞬間、信綱は、浪人を組み伏せてしまったのです。

後に、彼に挑戦して来た柳生新陰流の開祖・柳生宗厳(やぎゅうむねよし)・・・まだまだ血気盛んでケツの青かった時代の宗巌をコテンパンにやっつけた(4月19日参照>>)新陰流(しんかげりゅう)・秘剣=無刀取りが、すでに形となっていたのですね。

故郷に戻った後、大胡城主となった信綱は、その後、関東管領・上杉家の被官(ひかん=配下の官僚)である箕輪城(群馬県高崎市)の城主・長野業政(ながのなりまさ)に仕えます。

Takedasingen600b この業政という武将は、なかなかの勇将で、その下で、得意の武勇を奮う信綱は、「上野国一本槍」と呼ばれて数々の合戦で武功を挙げ、その間は、あの甲斐(かい=山梨県)武田信玄(たけだしんげん)でさえ、箕輪城に手を出す事ができませんでした。

しかし永禄四年(1561年)・・・

その業政が病気で亡くなり、未だ14歳の若き当主=長野業盛(なりもり)にバトンタッチした途端、それをチャンスと見た信玄が襲いかかって来るのです。

とは言え、さすが勇将のDNA・・・この業盛も、若年のワリにはなかなかの名将で、何度か信玄の軍を撃退させているのですが、なんせ、相手は皆様ご存じの大物=信玄・・・

残念ながら、何度目かの攻撃を受けた永禄九年(1566年)9月30日・・・業盛は19歳の命を散らし、箕輪城は落城しました(9月30日参照>>)

もちろん、この時の信綱は、主君&城とともに、その命を終わらせるつもりでありましたが、そこを説得したのが、誰あろう信玄・・・

そう、その剣の腕もさることながら、修行の途中で数々の兵法も身につけていた信綱・・・今回、若き当主を支えて、信玄に対抗する策をアドバイスしたのだって彼です。

その才能を見込んだ信玄が、かの穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)(3月1日参照>>)を使者として遣わし、「メッチャ高い給料で雇うよって、武田に来てよ!」と説得したのです。

しかし、信綱は、これを丁重に断ります。

信玄は、やむなく、
「他家に仕官しない事」
「以後は信玄の一字をとって“信綱”を名乗る事」

を条件に、彼の獲得をあきらめたと言います。

こうして信綱は、息子の上泉秀胤(ひでたね)、甥とされる疋田景兼(ひきたかげかね)(9月30日参照>>)神後宗治(じんごむねはる)らをお供に、自らの剣術=新陰流(新影流)の発展と流布の全国行脚に出かける事になるのです。

先に書いた柳生宗巌との一戦も、この旅の途中・・・

さらに、第13代室町幕府将軍・足利義輝(よしてる)(5月18日参照>>)に招かれたり、「信綱強し」の噂を聞きつけた第106代・正親町(おおぎまち)天皇(10月27日参照>>)の前で、その技を披露した事もありました。

この時は、従四位下(じゅしいのげ)に叙され、なんと昇殿も許されています。

まさに剣聖です。

しかし、信綱は、信玄との約束通り、どこかに仕官する事はなく、生涯、流浪の旅にあけくれました(故郷に戻った説もありますが定かではありません)

なので天正五年(1577年)1月16日推定66歳で亡くなったとするものの、その亡くなった場所も特定されません。

大和(奈良県)の柳生で亡くなったとされ、柳生家の菩提寺にお墓があるそうですが、他にも、様々な伝承が今に伝えられています。

とは言え、敗軍の将から剣聖となった信綱にとって、多くの弟子たちから様々な流派が生まれ、そして、それらが400年経った今でも受け継がれている事こそ本望と言えるもの・・・その死に場所など、彼にとっては後世に伝える必要の無い事だったのかも知れません。
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2013年1月15日 (火)

心やさしき藩主の二本松戦争…丹羽長国

 

明治三十七年(1904年)1月15日、幕末の動乱期に二本松藩主として戊辰戦争を戦った丹羽長国が71歳で、この世を去りました。

・・・・・・・・・

丹羽(にわ)という名を聞いてお解りの通り、あの織田信長に仕えた丹羽長秀(ながひで)(4月16日参照>>)の子孫です。

信長の弔い合戦となった天王山=山崎の合戦(6月13日参照>>)では羽柴(後の豊臣)秀吉とともに明智光秀(あけちみつひで)をを討ち、豊臣政権下でも一目置かれる存在でしたが、息子の長茂(ながしげ)関ヶ原で西軍についたため(8月8日参照>>)丹羽家は、一旦、改易となり、その後、徳川家康から領地を与えられて大名に復帰・・・常陸(ひたち=茨城県)古渡(ふつと)から、陸奥(むつ=青森・岩手・宮城・福島県)白河藩陸奥二本松藩となって江戸時代を生き抜いてきました。

Niwanagakuni600 そんな二本松藩を、安政五年(1858年)、父の隠居にともなって25歳で継いだのが、本日の主役=丹羽長国(にわながくに)さん・・・

安政五年と言えば、あの安政の大獄(10月7日参照>>)が行われる前年・・・まさに動乱の真っただ中に藩主となったわけですが、当の長国は、身体はうまれつき病弱で、性格もおとなしく、とてもじゃないが、そんな動乱に立ち迎えるような人では無かったようです。

もちろん、それは無能なバカ殿という意味ではなく、心やさしく温厚な文人タイプだったという事です。

それを示すかのような逸話が残されています。

病弱で武士らしい鷹狩りなどはほとんどしなかった長国の趣味は、歴史探究&考古学研究だったのですが、雪の多い東北では、冬はもっぱら室内での研究・・・春が来て、ようやく遺跡などの発掘調査を行える状況になるので、長国は、毎年、この時期を心待ちにしていたとか・・・

ある年、やっとその時期が訪れて、ウキウキ気分で発掘調査にレッツゴー!・・・とは言え、なんたって長国は殿様です。

さすがに、自ら土を掘って・・・なんて事はするわけがなく、もっぱら、周辺の農民たちが、その作業に駆り出され、彼らが、なんやかんやってる所を、お殿様が馬に乗ってお出ましになり、その様子を見聞する・・・といった感じだったのですが、

その日は、長国が行く道を、一人の藩士が塞ぎます。

正装して、道のドまん中で平伏した藩士・・・あまりにも下っ端すぎて、長国には、その顔を見ても誰かわかりません。

慌てて、彼をどけようとする従者・・・「何事や!」と驚く長国・・・

すると、その藩士は・・・
「恐れながら・・・殿様は、ご自分の楽しみのために、どれだけ多くの領民が困惑しているかをご存じですか?」
と、尋ねたのです。

つまり・・・
春が来れば、農民たちは農業を始めなくちゃならない・・・その時期に、こうして発掘調査に狩り出される事は、「本当は迷惑なのだ」という事です。

普通なら、「家臣のくせに、何を言っとるか!無礼な!」ってなるとこですが・・・

長国は
「それは知らなんだ・・・良い事を教えてくれた。予はうかつだった」
と言って、その後、2度と農繁期に発掘調査を行う事は無かったのだとか・・・

この心やさしき藩主の事は、周囲の家臣たちも重々承知でしたから、政務や軍事の事は、ほとんど家老や重臣たちが行い、病弱な殿様の手をわずらわす事は無かったわけですが、それでいて、藩主をないがしろにするという事もなく、信頼と尊敬の中に、二本松藩はあったようです。

しかし、ご存じのように、揺れ動く幕末の動乱・・・慶応三年(1867年)10月14日に大政奉還がなされ(10月14日参照>>)、続く12月には王政復古の大号令が発せられ(12月8日参照>>)、翌年の1月に勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)での幕府の敗北(1月9日参照>>)を受けて、3月に行われた新政府軍の西郷隆盛と幕府の勝海舟との会談(3月14日参照>>)で、4月11日の江戸城無血開城が決定し、戦場は北へと移動するのです。

・・・で、これまでも何度か書かせていただいているように、この時、多くの藩は戦わずして、あるいは形だけの抵抗だけを見せて、北へ向かう新政府軍の傘下となって行くわけですが、これに真っ向から挑むのが東北の諸藩です。

それこそ、各藩の思惑はそれぞれで、その参加の動機はひとくくりにはできない物ではありますが、そもそもは新政府が朝敵(ちょうてき=国家の敵)とみなす会津藩(福島県西部)庄内藩(山形県庄内地方)の許しを、近隣の藩の合同で嘆願するために、東北の諸藩で結成された奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)(4月25日参照>>)・・・これが、そのまま新政府と戦う同盟となります。

ご存じのように、この東北での戊辰戦争は、最終的には、今年の大河の主役である山本八重(新島八重)が活躍する会津戦争へと向かう(5月1日参照>>)わけですが、その前に「敵対勢力に我が城下を素通りさせてはならぬ!」底抗戦に出たのが二本松藩なのです。

「武士の名誉にかけても、全藩あげて死力を尽くして戦いたいと思います」
この、家老たちの決意を聞いた長国は、
「君らが、そう決めてんやったら、それでええ!!僕も城を守って死ぬだけや」
と言ったと言います。

心やさしき藩主としては一世一代の決意であった事でしょう。

かくして、慶応四年(明治元年・1868年)7月29日、新政府軍の猛攻撃を受けた二本松城(福島県二本松市)は、大半の兵士が他の城への援軍として出ていたため、わずかの兵だけが守る状況となり、二本松少年隊と称される若者たちを含む250名ほどの戦死者を出して陥落するのです。

戦いの詳細については、また、いずれ書かせていただきたいと思っておりますが、今年注目の会津戦争も悲惨なれど、この二本松戦争も・・・なんせ、この二本松少年隊というのは、あの白虎隊(6月23日参照>>)よりも年少の12~3歳の少年たちだったと言いますから・・・

この時、長国は、最初の決意通り、城とともに死ぬ事を希望しますが、それを止めたのは家臣たち・・・そう、実は、この時、長国には、まだ後継ぎがいなかったのです。

江戸時代のならいとして、後継ぎがいないまま藩主が死んだら、その藩はお取り潰し・断絶するは必至・・・「ここは何としてでも命つないでください」と、最終的には、しぶる長国を布団ごとくるんで駕籠に押し込め、同盟国である米沢藩(山形県南部)に向け、脱出させたのだとか・・・

この時、藩主を脱出させ、自らは城と運命をともにした家老の丹羽一学(いちがく=富穀)は、
♪風に散る 霞の我が身は 厭(いと)わねど
  心にかかる 君の行く末 ♪

と、ここに来てもなお、自分の命より長国の行く末を案じた辞世を残しています。

こうして、結果的に、全藩兵の6分の1にも及ぶ死者を出して二本松戦争は終わりました。

その後、長国が隠居して、家督を養子の長裕(ながひろ)に譲る事で、何とか家名は存続しましたが、その領地の半分以上を没収され、二本松藩と長国は明治の世を迎える事になります。

それから約60年・・・明治三十七年(1904年)1月15日に、長国はその生涯を閉じますが、おそらく、心やさしき藩主の心中には、あの日、城とともに散って行った戦士たちの姿が焼きついていた事でしょう。
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2013年1月13日 (日)

南北朝に翻弄され在位はわずか3年間…崇光天皇

 

応永五年(1398年)1月13日、北朝第3代・崇光天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・

南北朝時代の天皇は、どなたもそうですが、ご多分にもれず、この崇光(すこう)天皇時代の波に翻弄された天皇であります。

それは、まさに建武元年(1334年)・・・鎌倉幕府が倒れて(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇建武の新政(6月6日参照>>)が行われた翌年の4月に、光厳(こうごん)天皇の皇子として崇光天皇は誕生します。
(諱=いみなは益仁(ますひと)後に興仁(おきひと)ですが、ややこしいので崇光天皇と呼ばせていただきます)

以前から、度々登場しているお話ですが・・・
Nanbokutyoukeizu2cc そもそもは、鎌倉時代の第88代天皇であった後嵯峨天皇が、始めは第3皇子の第89代深草天皇へ皇位を譲ったにも関わらず、その後、第7皇子の第90代亀山天皇に交代させた事から(2月17日参照>>)、この兄弟の間にしこりが残り、後深草天皇の系列である持明院統(じみょういんとう)と亀山天皇の系列である大覚寺統(だいかくじとう)に分かれて皇位を争う事に・・・(9月3日参照>>)

・・・で、「モメてはかなわん!」とばかりに、そこに幕府が介入して、「両者が交代々々で天皇の座につく」事を約束して、何とか話は収まるのですが、その後、順番が回って来た後醍醐天皇が打倒!鎌倉幕府を目指して挙兵・・・(9月28日参照>>)

しかし、それに失敗し隠岐へ流され(3月7日参照>>)・・・この時に、幕府の推しで天皇となったのが光厳天皇でした。

とは言え、冒頭に書いた通り、結局、その後醍醐天皇らによって鎌倉幕府は倒されます・・・

 .

この時、光厳天皇は、六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅に設置した機関)北条仲時(なかとき)らとともに京を脱出しますが、追われた仲時は自刃し、光厳天皇も拘束されます(5月9日参照>>)

がしかし、ご存じのように、後醍醐天皇の始めた建武の新政が、あまり評判がよろしくない・・・

・・・で、それに反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が挙兵し、やがて、後醍醐天皇派から京都を奪い取るわけですが、この時、上洛する尊氏に院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)を届けて味方である事を公言した光厳天皇・・・(4月26日参照>>)

ここで、京都を制圧された後醍醐天皇が、吉野にて朝廷を開いて、これが南朝となり(12月21日参照>>)、尊氏の開いた室町幕府が北朝と呼ばれる事になるのですが、

その室町幕府のもと、三種の神器のないまま、光厳天皇の院宣により、弟の光明天皇が、北朝第2代天皇として即位(内容がだだカブリですが、よろしければ8月15日参照>>)、光厳天皇は上皇として院政を行う事になります。

・・・と上記の通り、光厳天皇の在位自体は、鎌倉幕府時代の事で、事実上北朝となってから即位したのは光明天皇なのですが、光厳天皇の鎌倉幕府政権下での即位は、後醍醐天皇の意志によって天皇系図の数に入れられていないので、記録上は、光厳天皇が北朝初代の天皇となっています。

・・・で、書いてるうちに、メッチャ前置きが長くなってしまいましたがm(_ _)m、その光明天皇の在位=13年の後、正平三年・貞和四年(1348年)の10月に即位したのが、北朝第3代となる崇光天皇です。

その翌年には、未だ15歳の若き天皇の即位を見守る父=光厳天皇と叔父=光明天皇の願いにより、即位の礼の後の大嘗祭(おおにえのまつり)が盛大に行われましたが、同時に、その前後に様々な怪事があった『太平記』は語ります。

「斑(まだら)の犬が、2~3歳くらいの男児の首を加えて南殿のい縁側に座っていた」
とか凶兆の星が出現したとか・・・以前お話した雲景(うんけい)の魔界体験=「雲景未来記(うんけいみらいき)(8月3日参照>>)も、この頃ですね。

まぁ、犬が御殿に入って来た事が、実際に凶事なのかどうかは別として、『太平記』が言いたいのは、「戦乱に次ぐ戦乱で困窮のどん底にあった庶民に対して、この式典のために、新たな税が徴収を行った事で、民衆の不満が爆発寸前だったんだよ」って事なのでしょう。

とは言え、治天の君である光厳天皇は、息子の晴れ姿に大いに満足だった事でしょうが、この崇光天皇の在位は、わずか3年で終わってしまうのです。

それは、正平五年・観応元年(1350年)10月に起きた、あの大いなる兄弟ゲンカ=『観応の擾乱(じょうらん)です。

尊氏と、その弟=直義(ただよし)の敵対を軸にした室町幕府の内乱・・・なんと、この内乱で、一時南朝に降っていた直義が、尊氏の執事だった高師直(こうのもろなお)を倒して(2月26日参照>>)政界に復帰すると、今度は尊氏が京都を脱出して南朝に降伏・・・

このゴタゴタで、一瞬、南北朝が合一されてしまったために、北朝伝来の三種の神器は、南朝の後村上天皇(後醍醐天皇の皇子)へと手渡され、北朝は廃止・・・退位した崇光天皇には太上天皇の尊号が贈られて・・・

しかし、北朝は無くなったものの、未だ、京都には室町幕府という物は存在するわけで・・・幕府そのものを倒したい後村上天皇は、南朝の主力軍であった北畠顕能(きたばたけあきよし)楠木正儀(くすのきまさのり)らに、すでに第2代室町幕府将軍を継いでいた足利義詮(よしあきら=尊氏の息子)を攻撃させます。

攻め込まれた義詮が近江(滋賀県)に敗走する間に、京都に取り残されていた光厳・光明・崇光の3人の元天皇とともに皇太子の直仁(なおひと)親王を連れ去って吉野の奥地に幽閉し、自らも京都の南の玄関口=男山に籠ります(3月11日参照>>)

この時の幽閉先は、まるで、罪人が送られる配所のようで、杉の板屋根のみすぼらしい建物に、草ボーボーの野原のような庭・・・あまりのスゴさに「事とふ雨の音までも御袖を濡らすたよりなり」と、天皇一同、涙に暮れる毎日だったようですが、

しかし、この間に、盛り返した義詮が、神器なし指名なしの前代未聞の天皇擁立で、仏門に入るはずだった崇光天皇の弟=北朝第4代の後光厳(ごこうごん)天皇を即位(1月29日参照>>)させてしまった事で、南朝側に崇光天皇らを幽閉する政治的メリットが無くなり、延文二年・正平十二年(1357年)、4年余りの幽閉生活を終え、天皇らは解されました。

京都に戻った崇光天皇は、後嵯峨天皇の仙洞御所であった伏見殿(伏見山荘=現在の京都市伏見区の明治天皇陵のあたりにあったとされる)に入り、余生を送る事になります。

琵琶がとてもお上手だったという崇光天皇・・・やっと、心落ち着ける場所を得た事でしょう。

一時は、持明院統の嫡流として、自らの皇子=栄仁(よしひと)親王を皇位につかせたいと望んだ事もありましたが、実現ならず・・・応永五年(1398年)1月13日65歳で崩御されました。

その後、皇位は後光厳天皇の系統に継承されましたが、南北朝を合一させた第100代後小松天皇(10月20日参照>>)の皇子で第101代の天皇となった称光(しょうこう)天皇が、皇子なく急死してしまったために、崇光天皇の曾孫にあたる後花園天皇が第102代天皇となり、ある意味、曾ジッチャンの夢を果たした事になります。

また、皇位を継げなかった皇子の栄仁親王は、創立された伏見宮(ふしみのみや)家の初代当主となり、後に、この伏見宮家からは、幕末の一大事件=八月十八日の政変の主役とも言える中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)(8月18日参照>>)という逸材が登場する事になります。
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2013年1月11日 (金)

昔々のウソ発見器…「湯起請」と「盟神探湯」

 

文亀四年(永正元年・1504年)1月11日、泉州大木長福寺で行われた吉書始めで盗難が発生・・・九条政基が湯起請により犯人を割り出しました。

・・・・・・・・・

文亀四年(永正元年・1504年)1月11日のこの日、関白や左大臣などを歴任した公家=九条政基(くじょうまさもと)が行って、事件の犯人を特定した湯起請(ゆきっしょう)とは・・・

「神に誓って熱湯の中に手を入れ、事の正邪を決定する方法」で、正しい者は無事なれど、邪悪なる者の手は焼けどでただれる・・・昔々のウソ発見器、というか裁判方法というか・・

今回の1月11日の出来事は、上記の通り、室町時代=戦国時代のの初めの頃の事ですが、もちろん、その裁判方法の起源は、記紀の時代にさかのぼります。

それは『日本書紀』の応神天皇の条に、盟神探湯(くかたち・くがたち)という名前で、文献に初登場します。

第12代景行(けいこう)天皇から成務(せいむ)仲哀(ちゅうあい)応神(おうじん)仁徳(にんとく)5代に渡る天皇に仕えた忠臣武内宿禰(たけのうちのすくね・たけしうちのすくね)の弟・甘美内宿禰(うましうちのすくね)が、兄に取って代わろうと謀反を企んだ時、どちらの忠誠心が勝るか?を計るために盟神探湯を行い、兄の武内宿禰が勝利したという物です。

Takenoutinosukune600 と言っても、この武内宿禰・・・本当に5代の天皇に仕えていたとしたら、その年齢は200歳を越えてしまうほどの長期に渡るであろう事から、飛鳥時代に権力を誇った蘇我馬子(そがのうまこ)主軸に、複数の蘇我氏の人物をモデルにした架空の人物の見方が強い人です。

ただ、盟神探湯を行った記述は、同じ『日本書紀』の第19代允恭(いんぎょう)天皇の条にも登場し、この時は
「諸(もろもろ)の氏姓の人等、沐浴斎戒(もくよくさいかい)して各(おのおの)盟神探湯せよ」
との、天皇の命令が出されたとあります。

当時、氏姓(うじかばね)が乱れまくっており、「これを正さねばならない」となって、味橿丘(うまかしのおか)辞過岬(ことのまがえのさき)にて盟神探湯が行なわれ、正しい者は何ともなく、ウソをついていた者は傷つき、身に覚えのある者は怖がって参加できなかったのだとか・・・

この事は、平安時代初期でも、戸籍の誕生逸話として意識されていた事から、武内宿禰の一件にしろ、允恭天皇の一件にしろ、登場人物や細かな事件は別として、実際に、このような裁判方法が行われていた事は確かであろうというのが、一般的な見方です。

実際の作法としては、まずは、自分の言い分を神に向かって誓い、その後、熱湯の入ったカメの中に手を入れ、中にある小石を取るという物で、上記の通り、誓った内容がウソでなかったら、その手はヤケドせずに無事・・・って事なのですが、

「そんなもん、なんぼ、正直者でも、熱湯に手ぇ入れたらヤケドするやろ!」
と思いますが、上記の允恭天皇の氏姓のところにもあるように、「身に覚えのある者は怖がって参加できない」ってのが重要だったのだでしょう。

むしろ、それに参加する時の態度を見て、判断していたとも考えられますね・・・当時の人にとって「神に誓う」という事は、今より、ずっとスゴイ事で、ウソを言えば、必ず天罰が下ると、どんな悪人もが信じていた時代ですから・・・。

とは言え、この盟神探湯・・・いわゆる法のもとで罪が裁かれる律令制が確立した頃からは、ほとんど行われなくなります。

平安時代や鎌倉時代には、行われた記録がない(発見されていないだけかも知れませんが)にも関わらず、冒頭に書いた通り、なぜか室町時代頃から復活するのです。

今度は湯起請という名前で・・・

方法は、ほぼ同じですが、ちゃんとした神棚をしつらえて、巫女さんやら陰陽師やらがうやうやしくお祓いをしてから湯を沸かし、当事者が誓いの起請文を書いた紙を燃やして、その灰を飲み込んで熱湯風呂ならぬ熱湯カメに挑むという、ちょっとたいそうになってます。

とは言え、さすがに、この室町の頃には、証拠書類や証人などを交えて、散々吟味した後、どうしても真偽が確定できない場合の早期解決のために行われるので、実際に罪を犯している場合は、実施当日の前に自白をさせる方向に誘導する意味合いが大きかったものと思われますね。

結局、この室町時代に復活した湯起請は江戸時代頃まで行われますが、江戸も中期になると、徐々に、神の審判を聞くよりは、もっと科学的に・・・いわゆる、アリバイやら動機やら状況証拠やらを重視して、経験豊富な役職の人が、法に基づいて裁決を下すというのが一般的となります。

ただ、村の境界線争いなどの民事では、両者の言い分の食い違いによってなかなか決着がつかない事があり、村の代表者同志が湯起請を行って決着をつけるという事が、しばらくの間は行われていたようです。

現在では、奈良の明日香にある甘樫坐神社(あまかしにいますじんじゃ)にて・・・ただし、熱湯に浸けるのは手ではなく、笹の葉で、「その葉っぱに色が変わらなければウソをついていないとする」という形の盟神探湯の神事をはじめ、各地の湯立て神事として継承されています。
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2013年1月10日 (木)

秀吉の置きみやげ~上杉景勝の会津転封

 

慶長三年(1598)1月10日、越後の上杉景勝が、豊臣秀吉から会津への転封を命じられました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、越後の龍(虎とも)と呼ばれた上杉謙信亡き後、後継者争いに撃ち勝って(3月17日参照>>)謙信の後継者となった養子で甥っ子の上杉景勝(うえすぎかげかつ)・・・

しかし、亡き謙信の時代から北陸前線に手を伸ばしていた(9月18日参照>>)織田信長から、その内戦のゴタゴタに乗じて、越中(富山県)における境界線を後退させられてしまっており(9月24日参照>>)、もはや風前の灯(6月3日参照>>)のところを、ラッキーな事に、その信長が本能寺で倒れて命拾い・・・

その後、信長亡き後の戦いに撃ち勝ち、実権を握り始めた羽柴(豊臣)秀吉が、小牧長久手の戦い(8月28日参照>>)の時に徳川家康側についた越中の佐々成政(さっさなりまさ)を征伐する際の出陣要請に賛同した(8月29日参照>>)事から、秀吉配下の石田三成に勧められて上洛・・・(6月14日参照>>)

こうして秀吉の傘下となった景勝は、新発田(しばた)攻め(10月28日参照>>)佐渡平定(6月12日参照>>)などの国内統一に奔走する一方で、秀吉の小田原攻め(12月10日参照>>)朝鮮出兵にも参加して(1月26日参照>>)秀吉からの信頼を得、文禄三年(1594年)には清家に準ずる家格を賜り(7月15日の後半部分参照>>)、豊臣姓を名乗る事も許され、慶長二年(1597年)には、家康や毛利輝元らと並ぶ、五大老の1人に名を連ねるまでになります。

ところが、その翌年の慶長三年(1598)1月10日突然、会津への転封を命じられるのです。

・・・と、突然と書いちゃいましたが、実は、その9年前・・・秀吉政権内で外交交渉を担当していた天徳寺法衍(ほうえん)という僧が、上杉家臣の木戸元斎(げんさい)という人物に宛てた書状が残っており、その中に
「秀吉さんは、奥羽を平定した後は、会津を上杉に与えたいって言うではるから、その事を直江くんにも伝えとってね」
てな事が書かれてあるとか・・・

9年前と言えば、あの小田原征伐の年・・・未だ、東北諸将のうち、誰が秀吉につき、誰が敵対するのかが曖昧な頃ですが、その頃から、「東北の玄関口に上杉を配置したい」という秀吉の構想があったようです。

しかし、なぜか、実際に奥州仕置の後に、会津の守りについたのは蒲生氏郷(がもううじさと)・・・そして、今回、その氏郷が死去した後の蒲生家で後継者を巡ってのお家騒動が起こった事で、蒲生家を宇都宮に移して、その代わりに、その会津92万石に加え、佐渡14万石、出羽庄内14万石を加算された合計120万石で、上杉家が転封する事となったわけです。

石高的には大幅アップとなったこのお引っ越しですが、果たして景勝にとって、うれしかったのやら、どうなのやら・・・

Hasedoukankeizucc ・・・というのも、以前upした、この後に起きる長谷堂の戦いの関係図→を見ていただいてもわかるように、完全に領国が真っ二つ状態となってます。

まして、越後は屈指の米どころ・・・さらに上田銀山(魚沼市)鳴海金山(村上市)なども手放す事になります。

秀吉にとって、脅威である家康と未だ信用の置けない伊達政宗(だてまさむね)と・・・この両者に挟まれた場所に、お気に入りの直江兼続(なおえかねつぐ)が執政をとる上杉家を置くことは、秀吉にこそ有利であれ、景勝には、あまり歓迎したく無かったかも知れません。

一方、この上杉の会津転報封や、蒲生家の宇都宮報封を仕切ったのが三成である事・・・
また、この時に、秀吉が「兼続に米沢30万石を与えよ」と景勝に直々に告げたとされる事・・・

などから、三成&兼続が共謀して、氏郷を毒殺して(2月27日参照>>)会津を取ったなんてウワサも囁かれています(あくまでウワサです)

確かに、兼続が30万石となれば、秀吉子飼いの加藤清正=25万石や、未だ20万石の三成自身を越える石高になるわけですが・・・

ただし、鎌倉時代から越後に根づいていた家臣などからは、引っ越しを嫌がる声も多々あり・・・冷静に考えると、デメリットのほうが多いような気がします。

なので、結局は、この会津転封・・・天下人・秀吉から無理難題を押し付けられたとの見方が強いようです。

しかも、この引っ越し・・・
次に越後にやって来る堀秀治(ほりひではる)に大迷惑をかけ、果ては、関ヶ原の前に越後の領民を扇動して(7月22日参照>>)・・・と、秀吉亡き後(秀吉はこの7ヶ月後に死去します)に訪れる関ヶ原・長谷堂に向けて、大きな影響を与えるお引っ越しとなりました。
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2013年1月 8日 (火)

後醍醐天皇のため上京します!…北畠顕家

 

延元三年・建武五年(1338年)1月8日、前年の暮れに鎌倉を攻略した北畠顕家が、京都を目指して鎌倉を発ちました。

・・・・・・・・・

およそ100年の長きに渡って続いた鎌倉幕府・・・この間、事実上政権を握っていた執権=北条氏を倒して(6月22日参照>>)、天皇親政による建武の新政(6月6日参照>>)を開始した後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、それに反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が京へと攻め上り(6月30日参照>>)、その尊氏と湊川(みなとがわ)の戦い(2012年5月25日参照>>)で相対した楠木正成(くすのきまさしげ)は自刃(2007年5月25日参照>>)、天皇の皇子を託された新田義貞(にったよしさだ)北国へ落ち(10月11日参照>>)、後醍醐天皇自身は、一旦、尊氏と和睦します。

しかし、機会を見計らって脱出した後醍醐天皇は、吉野にて南朝を開き(12月22日参照>>)、やがて、ここには、正成の遺児=楠木正行(くすのきまさつら)をはじめとする天皇側の勇士たちが、続々と集まって来る事になるのですが・・・

・‥…━━━☆

その中の一人・・・遠き奥州から馳せ参じるのが北畠顕家(きたばたけあきいえ)です。

Kitabatakeakiie400 ご存じのように、顕家の父=北畠親房(きたばたけちかふさ)は、後醍醐天皇が最も信頼する部下であり、後醍醐政権の参謀であり後見役でもあった人ですが、その出自は村上源氏の流れを汲む公卿でした(5月10日参照>>)

この頃の北畠氏は、親房がすでに出家していましたので、事実上のトップは、息子の顕家・・・そんな顕家は建武の新政が成った元弘三年(1333年)、陸奥守(むつのかみ)に任じられ、天皇の皇子=義良(のりよし・のりなが)親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州(おうしゅ=東北地方)に下ります。

それは、まさしく、義良親王を将軍に顕家を執権に据えた後醍醐政権配下の奥州幕府とも言うべき物で、彼らによって、その地域を治めるという役目を帯びていたわけですが、冒頭に書かせていただいた通り、この2年後に、関東支配担当だった尊氏が、反旗を翻したわけで・・・(11月19日参照>>)

ここに来て、尊氏に京都を制圧されて吉野にて朝廷を開いた後醍醐天皇の事や、北国に落ちた新田義貞の奮戦(3月6日参照>>)を聞きつけた顕家は、鎌倉を攻略する決意を固め、延元二年・建武四年(1337年)8月、10万余騎の軍勢を従えて、白河の関(福島県白河市)を進発したのでした。
(軍勢の数は『太平記』に従っています…実際には、もっと少ないと思われます)

もちろん、尊氏側も、それを迎え撃つ覚悟・・・

ここ鎌倉を守るのは、鎌倉管領となっている尊氏の息子=足利義詮(あしかがよしあきら=後の2代将軍)・・・早速、配下の者に8万余騎の兵をつけて利根川の河畔にて、北畠軍を待ち受けます。

やがて、増水した川を挟んだ東西で睨みあう両者・・・

ともに、川の水が減るのを待っていましたが、らちが明かず・・・結局、家臣の進言に従って、顕家は渡河を強行します。

ところが、この作戦が見事成功!

怒涛のごとく攻め入る北畠勢に、8万の足利勢は、四方八方に蹴散らされ、またたく間に鎌倉方面へと撤退していったのです。

こうして初戦を勝利した顕家は、武蔵の府にて6日間滞在し、鎌倉の様子を探りますが、その間に、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)が千騎で駆けつけたかと思うと、新田義貞の次男=徳寿丸(後の義興…10月23日参照>>上野(こうずけ)にて兵を挙げ、武蔵へと進軍を開始・・・

さらに、敵の敵は味方とばかりに、尊氏離反のキッカケとなった、あの中先代(なかせんだい)の乱(7月23日参照>>)を起こした北条時行(ときゆき=北条高時の遺児)までもが、伊豆で挙兵して箱根に陣取りました。

もはや、四面楚歌となってしまった鎌倉・・・この時、未だ11歳だった義詮は、幼いながらも大将らしく皆を励まし、決死の鎌倉籠城を決意します。

しかし、悲しいかな、この時の籠城組は、わずかに1万・・・途中から仲間を加え、お互いに示し合わせた北畠勢の猛攻に耐えきれず、延元二年・建武四年(1337年)12月28日、鎌倉は陥落・・・足利軍は敗走しました。

かくして鎌倉を手に入れた顕家ですが、当然の事ながら、目指すは、尊氏の手に落ちている京都・・・延元三年・建武五年(1338年)1月8日上洛のため、顕家は鎌倉を進発したのです。

とは言え、当然の事ながら鎌倉を離れた足利勢も黙ってはいず・・・追い打ちをかけるべく、後方から迫ってきます。

また、この北畠軍の進軍に、在京の足利軍ものんびりしているわけにはいかず・・・

この先、西へと進む顕家に、幾多の合戦が待っているわけですが、そのお話は、続く1月28日・・・【京都奪回を目指す北畠顕家~青野原の戦い】でどうぞ>>o(_ _)oペコッ
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2013年1月 7日 (月)

大河ドラマ「八重の桜」第1回感想:ならぬことはならぬ

 

まずは最初に・・・

おかげ様で、一昨日、このブログのアクセス数が800万HITを越えました。

6年前に、深く考えずに開設した時には、考えてもいなかった数字・・・これもあれも、いつも訪問してくださる皆々様のおかげ・・・ありがとうございますm(_ _)m

また、毎年、そのアクセス数に、少なからずの影響を及ぼしてくださるNHK様の大河ドラマ・・・今年の「八重の桜」にて、初めてお越し下さった方も、これをキッカケにご贔屓にしていただけるとウレシイです。

・・・って、事で、やっぱり、昨日始まった「八重の桜」について、黙ってスルーするわけにもいかず、本日は、その感想など書かせていただこうかと思うのですが、なんだかんだで、1年間の長きに渡るドラマの、まだ、第1回が終わった段階・・・

主役の綾瀬さんが、まともに出ていない=子役ちゃん中心のこの時点で「あーだ」「こーだ」と言う事も無い雰囲気なのですが・・・実は、それこそが、今回の「八重の桜」第1回の感想だという気もします。

そう、良く言えば「良い感じ」・・・なのですが、悪く言えば「無難な感じ」で、昨年、第1回目から怒涛の如く起こった批判の嵐を、今回は避けるべく、安全なところに「置きにいった」感がありました。

私は、「平清盛」の最終回の感想(12月25日参照>>)でも書かせていただいたように、個人的に、あの作品は良かったと思っています。

その根源となる物は、(細々した内容は別として)全体的に、作家さん&スタッフさんの「新しい大河ドラマ造りに挑戦」するがの如き姿勢が垣間見え、それに応えるかのような若い役者さんたちの頑張りが感じられたからです。

それこそ、今回のスタッフさん&役者さんも、決して手を抜いているわけではなく、目いっぱいのベストを尽くしておられる事と思いますが、良くも悪くも「平清盛」はインパクトのある個性的な第1回だったわけで、残念ながら、「八重の桜」は、昨年ほどのインパクトは受けなかったです。
(まぁ、インパクトの半分は男性エキストラさんのフンドシ姿のドアップだったかも知れませんが…(*´v゚*)ゞ)

ただ、とても爽やかな映像の連続ではありました。

ロケたっぷりの美しい景色に、美しい人々が生き生きと・・・今回の大河は「東北へのエール」が込められていますので、言ってみれば、そこが一番大事な部分でもあり、見ていて和む映像でありました。

綾瀬はるかさんのプロモーションビデオのようなオープニングにはびっくりしましたが・・・

ストーリーに関してはGOODですね。。。

特に、奥田さんの佐久間象山(さくましょうざん)は、有名なアノ写真から受ける印象そのまま(7月11日参照>>)、おそらく、その表情をかなり研究されて演じられているのでしょう。

第1回の主役と言える八重の兄=山本覚馬を演じた西島さんは、とにかく男前で立ち居振る舞いが美しく、見ている女性ファンはそれで満足・・・

立ち居振る舞いと言えば、松平容保(まつだいらかたもり)を演じた綾野さんも、おそらく、この先、人気爆発の逸材と感じました。

ただ、私には、ちょっと方言が聞き辛かった(ノω・、)・・・まぁ、大阪弁しか話せない私が悪いんですが、ところどころ聞き取れない部分があったのは確かです。

あと、第1回の題名ともなっている「ならぬことはならぬのです」のセリフが、ちと多すぎ?の気もしないではないですが、それが、これから1年のテーマでもあるわけですから、そこのところは致し方なく、推さねばならぬことは推しまくらねばならぬのです。

とにもかくにも、子役ちゃんは、どっからどう見てもカワイイし、ワキを固めるベテラン俳優さんはスゴイし・・・って事で、これからの展開を期待させる第1回でした。

とりあえず、すでにブログにある会津戦争と八重に関するページへのリンクを貼っておきます。
今後の展開がわかってしまう事を承知で「見てやろう」を思われる方は、どうぞm(_ _)m

外国の脅威から江戸を守る…品川砲台場・建設
鳥羽伏見から会津戦争へ~松平容保の決意
敗戦の責任負った会津藩士・神保修理
世良修蔵の暗殺
白河口攻防戦
奥羽越列藩同盟、結成
山本覚馬が建白書提出
東武皇帝が即位?
二本松戦争
会津戦争も佳境に…母成峠の戦い
会津戦争~十六橋・戸ノ口原の戦い
会津戦争~会津若松城下の戦い
山本八重の会津戦争
白虎隊・飯盛山に散る
戦場の華と散った娘子軍・中野竹子
幕末・会津戦争~長命寺の戦い
忠臣・渡辺豹吉の大芝居~飯寺の戦い
いよいよ大詰め…会津若松城への総攻撃開始
会津戦争終結…藩士と領民・それぞれの道
賊軍の会津藩主・松平容保が残した物は
「生き方が男前」…幕末から昭和を駆けた新島八重
戊辰の恨みを越えて~大山巌と山川捨松の愛
上記以外の幕末・維新関連の出来事は【幕末・維新の年表】からどうぞ>>
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2013年1月 5日 (土)

四条畷の戦い~楠木正行の最期

 

正平三年・貞和四年(1348年)1月5日、南北朝動乱四条畷の戦いに敗北し、南朝方の楠木正行らが刺し違えて自刃しました。

・・・・・・・・・・・

元弘三年(1333年)5月に、ともに鎌倉幕府を倒(6月22日参照>>)ながらも、その後、後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、湊川(みなとがわ)の戦い(2012年5月25日参照>>)新田義貞(にったよしさだ)楠木正成(くすのきまさしげ)を倒して(2007年5月25日参照>>)京へと攻め上った(6月30日参照>>)事から、後醍醐天皇は息子たちを義貞に託して北国落ちさせ(10月11日参照>>)、自らは尊氏に降伏するポーズをとりながらも、機会をみて吉野へと脱出して朝廷を開きます(12月22日参照>>)

時に延元元年・建武三年(1336年)・・・ここに、日本に二つの朝廷が並び立つ=南北朝の時代となります。
(さらにくわしくは、【足利尊氏と南北朝の年表】でどうぞ>>)

こうして義貞らが北陸で奮戦する(3月6日参照>>)一方で、吉野の後醍醐天皇のもとには南朝を支持する武将が続々と集まって来るわけですが、その中の一人が、かの楠木正成の息子楠木正行(くすのきまさつら)です。

正成が、死を覚悟した先の湊川の戦いに挑む時、途中の桜井にて、「お前は来るな」と苦汁の訣別をした(5月16日参照>>)、あの息子です。

しかし、そのページにも書かせていただいたように、『太平記』では、この桜井の別れの時に11歳だったとするものの、年齢はもちろん、その桜井の別れそのものが後世の創作との考えもあり、その生年もよくわからない謎多き正行なのですが・・・

とは言え、父の遺志を継いだ正行は、後醍醐天皇にとって強い味方・・・

ただ、南北朝が分裂した後、なかなかに踏ん張っていた南朝方も、延元三年(建武五年・1338年)閏7月に義貞が討死(7月2日参照>>)した頃からは状況が暗転し、その翌月には尊氏が征夷大将軍になる(8月11日参照>>)中、一方の後醍醐天皇が翌・延元四年・暦応二年(1339年)8月に崩御(8月6日参照>>)・・・

また、その天皇を弔うために尊氏が天龍寺を建立したり(10月5日参照>>)、後に婆沙羅(バサラ)三人衆と呼ばれる佐々木道誉(どうよ)(10月12日参照>>)高師直(こうのもろなお)(4月3日参照>>) 土岐頼遠(ときよりとう)(9月6日参照>>)らの、この頃のバサラっぷりを見ても、その形勢は尊氏側の北朝=室町幕府が優勢な事がうかがえます。

そんな状況下で活躍するのが正行・・・

正平二年・貞和三年(1347年)9月の藤井寺の戦い(9月17日参照>>)、続く11月の住吉の合(11月26日参照>>)などで幕府軍に圧勝し、ここに来て、その意地を見せていました。

この連続敗退を受けて、幕府は、高師直・師泰(もろやす)兄弟を大将とした6万余騎の大軍を京に集結させ、正行の本拠地である河内東条(とうじょう=大阪府柏原市東条町)を攻める事を決定します。

その大軍は、12月14日には、25日には八幡に到着・・・もちろん、これを受けた正行は、迎え撃つ覚悟を決めますが、いかんせん、兵の数が少ない・・・

「里の百姓なんどにも、かいがいしく候(そうら)はん皆々、召し具せられ候べく候」
と、一般庶民をも動員するも、なかなか兵は集まらなかったようです。

12月27日・・・この合戦が幕府軍との最後の合戦と心に決め、死を覚悟した正行は、弟の正時(まさとき)はじめ一族を引き連れて、今生の暇乞い(いとまごい)をするため、吉野へと参陣・・・亡き後醍醐天皇の後を継いでいた後村上天皇に拝謁します。

まさに、あの湊川の戦いに挑む直前に後醍醐天皇に拝謁した父・正成の光景と同じ・・・この時、後村上天皇は、
「お父さんと同じ道を歩んだらアカン!無理せんと生きて帰って来るんやで」
と、その命を大切にするよう諭したと言いますが、すでに、正行の心は決まっていたようです。

その後、近くの如意輪堂に立ち寄った正行は、そのお堂の壁板に、一族の名字を書き連ね、最後に辞世の一首を書きとめました。

Kusunokimasatura600 ♪帰(かへ)らじと
 かねて思えば
 梓弓
(あづさゆみ)
 なき数に入(い)
 名をぞとどむる ♪

「もう、覚悟は決まってるさかいに、おそらくこの先の戦いで、亡き人(討死する人)の数に入るであろう者の名前をここに書いておく事にするわな」
と・・・

その日のうちに吉野を発ち、いよいよ正行は合戦の場へと向かいます。

かくして正平三年・貞和四年(1348年)1月5日両者は四条畷(しじょうなわて)にて相まみえる事となります。
(実際に戦場となったのは、現在の大阪府四条畷市楠公から大東市北条あたりだったとみられます)

しかし、最初に兵が思うように集まらずにモタモタしていたうえに、後村上天皇に謁見していた時間を使ってしまっていた正行は、すでに、地の利を失ってしまっていたのです。

そう、正行らが戦場に到着した頃には、すでに幕府軍は有利な地形に完璧に着陣しており、楠木勢を待ちうけていたのです。

『太平記』によれば、高軍は8万の軍勢を半分に分け、一方を騎馬装甲部隊とし、一方を弓射歩兵部隊として、その2隊をうまく組み合わせて陣取っており、対する楠木軍は、わずか3000・・・

ただ、公家の四条隆資(しじょうたかすけ)率いる2万の別働隊が飯盛山から生駒山の背後に陣取って、高軍をけん制する動きを見せていた事から、その動きで敵軍をひきつけておいて、楠木軍が四条畷に撃って出る作戦(北畠親房の立案とも)だったとも、あるいは、その逆で、楠木軍が囮(おとり)となって、本隊である四条軍が・・・という作戦だったとも言われ、はじめのうちは、楠木軍も、なかなかに奮戦し、幕府軍の歩兵部隊を蹴散らしたと言いますが、やはり多勢に無勢はどうしようもなく・・・

やがて、楠木軍の疲労が色濃くなって来るわけで・・・

そこで、正行は、一気に敵将の首を取ろうと、師直との一騎打ちにチャレンジし、見事、その首を仕留めますが、残念ながら、その首は影武者の物でした。

実は、その影武者は上山六郎左衛門という武将・・・この少し前の戦いで、彼の活躍を喜んだ師直が、その褒美として自らの鎧を六郎左衛門に与えていて、六郎左衛門は、その主君の鎧を着て参戦していたわけです。

主君の鎧を着けての参戦に心奮い立つ六郎左衛門は、
「高師直、ここにあり!」
との名乗りを挙げて、あたかも師直のごとく振る舞い、命がけで、その楯となったのでした。

『太平記』では、別人の首だった事を確認して落胆する正行・正時兄弟の描写とともに
「今の師直鎧を不与(ふよ)は、上山命に代らんや。情は人の為ならずとは、加様(かよう)の事をぞ申(もうす)べき」
の一文がありますが、これが、有名なことわざ情けは人の為ならず」の出典です。

「師直が六郎左衛門に情けをかけて、自分の鎧を与えた事で、師直の命が六郎左衛門の命に代わった」なので情けは人の為ならず」とはこの事だ=その情けはいずれ自分に戻って来る・・・という事なわけですね。

ちょっと話が逸れちゃいましたが・・・
気を取り直して・・・その後、正行と師直の距離が一町(約100m)ほどに接近する場面もあましたが、心ははやるものの、もはや体力が限界でなかなか近づけません。

そんな中、師直の周辺が7~80騎ほどの小勢になる瞬間があり、
「この人数ならイケる!」
と、楠木勢の武者たちが一気に突進を試み、その猛攻に、あわや、師直隊は総崩れ・・・

となりかけた時、師直隊の1団の中から一人の武者が・・・

それは九州出身の須々木四郎(すずきしろう)という武将で、弓の・・・それも連射の名人で、十三束二伏(じゅうさんぞくふたぶせ=束は拳1個分、伏は指1本分の幅の長さ)の長矢で百歩先の柳の葉を百発百中で撃ち抜ける腕前だったと言います。

その四郎が、そこらへんに落ちている矢を集め、まるで雨あられのごとく、次々と矢を射りはじめたのです。

すでに、一日中身につけて奮戦した楠木軍の鎧は、体温や汗であちこちに緩みが生じており、その隙間を狙って、四郎は見事に矢を突き刺すのです。

もちろん、その確かな狙いは、雑兵などには目もくれず、大将クラスに照準を定めます。

やがて、弟・正時は眉間と喉を射られますが、もはや、それを抜く力もないほどに疲労困憊・・・一方の正行も、左右のヒザを三ヶ所、右の頬、左目の目尻を深く射られ、さらに、体にも多くの矢を受けたため、もはや、身動きすら思うようにとれなくなり・・・

しかも、周囲を見渡したところ、目に入る部下たちは、皆、それぞれ、幾本かの矢を受けている者ばかり・・・

その状況を見て取った正行・・・
『今はこれまでぞ。敵の手に懸かるな』

そう叫んだかとおもうと、正行&正時、兄弟二人で刺し違え・・・忠義の正成の息子たちは、その父と同じく、忠義のうちに、その生涯を閉じました。

その光景を目の当たりにした配下の者も、皆、それぞれに腹を斬って、その後に続いたと言います。

この正行の死が、この先の南朝の運命を暗示するかのような出来事となった事は言うまでもありません。
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2013年1月 3日 (木)

延暦寺・中興の祖&おみくじの元祖…慈恵大師良源

 

永観三年(985年)1月3日、比叡山延暦寺の中興の祖慈恵大師の名で知られる良源が74年の生涯を閉じました。

・・・・・・・・

上記の、朝廷から賜った正式な諡号(しごう・おくりな=生前の功績を評価する死後に贈られる名)である「慈恵大師(じえだいし)の他にも、「元三大師(がんさんだいし)」「角大師」「豆大師」など・・・多くの呼び名を持つ良源(りょうげん)は、それだけ、その伝説が数知れない事を物語っています。

Ryougen500 実際の良源は、近江国浅井郡虎姫(滋賀県長浜市)に根づく地元豪族・木津氏の生まれで、10代の前半に比叡山に上って仏門に入ったと言います。

とは言え、天台宗の開祖である最澄(さいちょう)(6月4日参照>>)直系の弟子ではないうえに、実家の身分も低い事から、入門当時は、あまり注目を浴びるタイプでは無かっそうですが、17歳で出家した後、ほどなく、その才能が芽生え始め、徐々に一目置かれる存在となっていきます。

それが決定的となったのが26歳の時・・・奈良の興福寺にて行われた法華八講(ほっけはっこう)での事・・・

この法華八講というのは、法華経を対象とする法要の一つで、左右の講座に上った読師(どくし)役の高僧がお経を読み、講師(こうじ)役の高僧が、その注釈を行い、その後、その注釈の内容について門者(もんじゃ)が質問し、講師がそれに答える論議の時間が設けられているという、言わば勉強会みたいな物ですが、ここで、良源は、南都(奈良)の高僧と論議を交し、論破しちゃった・・・

これで、その名が一躍有名になるのです。

さらに、28歳の時に、時の権力者・藤原忠平(ふじわらのただひら=関白だったとも)に認められて、一門のお抱え祈祷師となりますが、そこで、中宮(天皇の妃)となっていた忠平の娘の安産祈願をすれば無事に生まれ、その子の守護を祈祷すれば、その子がライバルを蹴落として皇太子に選ばれ・・・てな事が立て続けに起こり、霊験あらたかな僧として注目を浴びるようになり、

やがて、55歳の時に天台座主=比叡山延暦寺のトップとなるのです。

以後、永観三年(985年)1月3日亡くなる、その日までの19年間・・・上りつめた良源は、荒廃していた延暦寺の堂塔を次々に復興し、現在の比叡山の伽藍の基礎を造ったのです。

また、学問の振興にも力を注ぎ、僧の規律を正すとともに、お得意の論議の場を頻繁に設けて、僧たちのレベルアップに尽力し、多くの弟子を育て上げました。

まさに、比叡山延暦寺の中興の祖・・・なわけですが、

以前、あの浄土真宗の中興の祖である蓮如(れんにょ)さんのページ(2月25日参照>>)でもお話させていただきましたが、この中興の祖というのは、ある意味商売上手でないと、中興の祖にはなれません。

ヤラしい話ですが、お金が無いと伽藍の再建もできませんし、学問僧の教育だってできません。

つまり、この良源さんも、かなりの商売上手・・・もともとの霊的能力もあるうえに、そこをウマくアピールして貴族のお気に入りとなっては、巧みに、その荘園を延暦寺に寄付してもらい、寺の持つ荘園をどんどん増やしていったのですね。

なので、そういうやり方を嫌う僧もいて、そのぶん敵も多く・・・敵に対抗するため、また、多くの荘園を守るため、やがて比叡山も武装していく事になるわけですが・・・

しかし、輩出した多くの弟子たちからは、新たなる思想を生みだす者も現われ、それが、鎌倉の新仏教へも繋がるのですから、良源の残した功績は計り知れないです。

また、後世には、良源自身が如意輪観音(にょいりんかんのん=苦を解いて利益を与える救世観音とも)の化身と言われたり、また、あの平清盛の全盛期には、「清盛は良源の生まれ変わりだ」と称されたりするほど、その死後も、特別視された僧だったのです。

Tunodaisi600 伝説では、2本の角を持ち、骨と皮だけにやせ細った鬼の姿となって疫病神を退治したと言われ、その姿を絵にした「角大師」→のお札が、魔よけの護符として庶民の家々に貼られて信仰されたりしました。

ちなみに、この疫病神というのは、今では、「悪い事を起こさせる神様一般」みたいな感じに扱われれますが、もともとは、その字の通り、疫病をもたらす神で、それは、怨念を残したままこの世を去った人物がなるものとされていたので、その対策は=怨霊を鎮める事・・・

各地に残る御霊神社や、京都の八坂神社も、そのために建てられた神社ですが、庶民は、怨霊を鎮める霊能力を持つ良源さんの護符に、疫病退散の願いをかけたという事ですね。

ちなみのちなみに、現在も、琵琶湖東岸にある玉泉寺(滋賀県長浜市三川町)には、室町時代から続く「元三大師みくじ」というのがあり、これが全国の「おみくじの元祖」と言われています。

ここのおみくじは、参拝者が引くのではなく、代々のご住職が参拝者の話(主に悩みなど)を聞きながら引いて、その解決策を講和のごとく話して聞かせるという物なのだとか・・・

おみくじ、というより占いみたいな感じですが、それこそが、逆に、元祖っぽい気がしないでもないです。

残念ながら、現在は、そのご住職さんが高齢のため、おみくじも堂内の一般公開もされていないのだそうですが、そのお寺の堂内には、バッチリ、あの「角大師」の絵が鎮座しています。

今なお続く庶民の信仰・・・これも、あの延暦寺復興と並ぶ、慈恵大師良源の偉業ですね。
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2013年1月 1日 (火)

明けましておめでとうございます!

Geisyun2013

これまでに経験したことのないような
雨ニモマケズ

爆弾低気圧の 風ニモマケズ

不況にも 政治の体たらくニモマケヌ

ちょっとだけ丈夫なカラダをもち

欲ハ 多めに…

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皆様、本年も、
「今日は何の日?徒然日記」をよろしくお願いします

今年もワイルドにいくぜぃ!
 Kagamimoti2013200 .

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おめでとうございますm(_ _)m
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