南北朝に翻弄され在位はわずか3年間…崇光天皇
応永五年(1398年)1月13日、北朝第3代・崇光天皇が崩御されました。
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南北朝時代の天皇は、どなたもそうですが、ご多分にもれず、この崇光(すこう)天皇も時代の波に翻弄された天皇であります。
それは、まさに建武元年(1334年)・・・鎌倉幕府が倒れて(5月22日参照>>)、後醍醐(ごだいご)天皇の建武の新政(6月6日参照>>)が行われた翌年の4月に、光厳(こうごん)天皇の皇子として崇光天皇は誕生します。
(諱=いみなは益仁(ますひと)後に興仁(おきひと)ですが、ややこしいので崇光天皇と呼ばせていただきます)
以前から、度々登場しているお話ですが・・・
そもそもは、鎌倉時代の第88代天皇であった後嵯峨天皇が、始めは第3皇子の第89代後深草天皇へ皇位を譲ったにも関わらず、その後、第7皇子の第90代亀山天皇に交代させた事から(2月17日参照>>)、この兄弟の間にしこりが残り、後深草天皇の系列である持明院統(じみょういんとう)と亀山天皇の系列である大覚寺統(だいかくじとう)に分かれて皇位を争う事に・・・(9月3日参照>>)
・・・で、「モメてはかなわん!」とばかりに、そこに幕府が介入して、「両者が交代々々で天皇の座につく」事を約束して、何とか話は収まるのですが、その後、順番が回って来た後醍醐天皇が打倒!鎌倉幕府を目指して挙兵・・・(9月28日参照>>)
しかし、それに失敗し隠岐へ流され(3月7日参照>>)・・・この時に、幕府の推しで天皇となったのが光厳天皇でした。
とは言え、冒頭に書いた通り、結局、その後醍醐天皇らによって鎌倉幕府は倒されます・・・
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この時、光厳天皇は、六波羅探題(ろくはらたんだい=幕府が京都守護のために六波羅に設置した機関)の北条仲時(なかとき)らとともに京を脱出しますが、追われた仲時は自刃し、光厳天皇も拘束されます(5月9日参照>>)。
がしかし、ご存じのように、後醍醐天皇の始めた建武の新政が、あまり評判がよろしくない・・・
・・・で、それに反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が挙兵し、やがて、後醍醐天皇派から京都を奪い取るわけですが、この時、上洛する尊氏に院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)を届けて味方である事を公言した光厳天皇・・・(4月26日参照>>)
ここで、京都を制圧された後醍醐天皇が、吉野にて朝廷を開いて、これが南朝となり(12月21日参照>>)、尊氏の開いた室町幕府が北朝と呼ばれる事になるのですが、
その室町幕府のもと、三種の神器のないまま、光厳天皇の院宣により、弟の光明天皇が、北朝第2代天皇として即位し(内容がだだカブリですが、よろしければ8月15日参照>>)、光厳天皇は上皇として院政を行う事になります。
・・・と上記の通り、光厳天皇の在位自体は、鎌倉幕府時代の事で、事実上北朝となってから即位したのは光明天皇なのですが、光厳天皇の鎌倉幕府政権下での即位は、後醍醐天皇の意志によって天皇系図の数に入れられていないので、記録上は、光厳天皇が北朝初代の天皇となっています。
・・・で、書いてるうちに、メッチャ前置きが長くなってしまいましたがm(_ _)m、その光明天皇の在位=13年の後、正平三年・貞和四年(1348年)の10月に即位したのが、北朝第3代となる崇光天皇です。
その翌年には、未だ15歳の若き天皇の即位を見守る父=光厳天皇と叔父=光明天皇の願いにより、即位の礼の後の大嘗祭(おおにえのまつり)が盛大に行われましたが、同時に、その前後に様々な怪事があったと『太平記』は語ります。
「斑(まだら)の犬が、2~3歳くらいの男児の首を加えて南殿のい縁側に座っていた」
とか凶兆の星が出現したとか・・・以前お話した雲景(うんけい)の魔界体験=「雲景未来記(うんけいみらいき)」(8月3日参照>>)も、この頃ですね。
まぁ、犬が御殿に入って来た事が、実際に凶事なのかどうかは別として、『太平記』が言いたいのは、「戦乱に次ぐ戦乱で困窮のどん底にあった庶民に対して、この式典のために、新たな税が徴収を行った事で、民衆の不満が爆発寸前だったんだよ」って事なのでしょう。
とは言え、治天の君である光厳天皇は、息子の晴れ姿に大いに満足だった事でしょうが、この崇光天皇の在位は、わずか3年で終わってしまうのです。
それは、正平五年・観応元年(1350年)10月に起きた、あの大いなる兄弟ゲンカ=『観応の擾乱(じょうらん)』です。
尊氏と、その弟=直義(ただよし)の敵対を軸にした室町幕府の内乱・・・なんと、この内乱で、一時南朝に降っていた直義が、尊氏の執事だった高師直(こうのもろなお)を倒して(2月26日参照>>)政界に復帰すると、今度は尊氏が京都を脱出して南朝に降伏・・・
このゴタゴタで、一瞬、南北朝が合一されてしまったために、北朝伝来の三種の神器は、南朝の後村上天皇(後醍醐天皇の皇子)へと手渡され、北朝は廃止・・・退位した崇光天皇には太上天皇の尊号が贈られて・・・
しかし、北朝は無くなったものの、未だ、京都には室町幕府という物は存在するわけで・・・幕府そのものを倒したい後村上天皇は、南朝の主力軍であった北畠顕能(きたばたけあきよし)や楠木正儀(くすのきまさのり)らに、すでに第2代室町幕府将軍を継いでいた足利義詮(よしあきら=尊氏の息子)を攻撃させます。
攻め込まれた義詮が近江(滋賀県)に敗走する間に、京都に取り残されていた光厳・光明・崇光の3人の元天皇とともに皇太子の直仁(なおひと)親王を連れ去って吉野の奥地に幽閉し、自らも京都の南の玄関口=男山に籠ります(3月11日参照>>)。
この時の幽閉先は、まるで、罪人が送られる配所のようで、杉の板屋根のみすぼらしい建物に、草ボーボーの野原のような庭・・・あまりのスゴさに「事とふ雨の音までも御袖を濡らすたよりなり」と、天皇一同、涙に暮れる毎日だったようですが、
しかし、この間に、盛り返した義詮が、神器なし指名なしの前代未聞の天皇擁立で、仏門に入るはずだった崇光天皇の弟=北朝第4代の後光厳(ごこうごん)天皇を即位(1月29日参照>>)させてしまった事で、南朝側に崇光天皇らを幽閉する政治的メリットが無くなり、延文二年・正平十二年(1357年)、4年余りの幽閉生活を終え、天皇らは解放されました。
京都に戻った崇光天皇は、後嵯峨天皇の仙洞御所であった伏見殿(伏見山荘=現在の京都市伏見区の明治天皇陵のあたりにあったとされる)に入り、余生を送る事になります。
琵琶がとてもお上手だったという崇光天皇・・・やっと、心落ち着ける場所を得た事でしょう。
一時は、持明院統の嫡流として、自らの皇子=栄仁(よしひと)親王を皇位につかせたいと望んだ事もありましたが、実現ならず・・・応永五年(1398年)1月13日、65歳で崩御されました。
その後、皇位は後光厳天皇の系統に継承されましたが、南北朝を合一させた第100代後小松天皇の(10月20日参照>>)の皇子で第101代の天皇となった称光(しょうこう)天皇が、皇子なく急死してしまったために、崇光天皇の曾孫にあたる後花園天皇が第102代天皇となり、ある意味、曾ジッチャンの夢を果たした事になります。
また、皇位を継げなかった皇子の栄仁親王は、創立された伏見宮(ふしみのみや)家の初代当主となり、後に、この伏見宮家からは、幕末の一大事件=八月十八日の政変の主役とも言える中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)(8月18日参照>>)という逸材が登場する事になります。
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