会津騒動で改易…会津藩主・加藤明成
万治四年(1661年)1月21日、会津騒動を勃発させて改易処分となった会津藩2代め藩主・加藤明成が70歳の生涯を閉じました。
・・・・・・・・・・・
加藤明成(かとうあきなり)は、あの賤ヶ岳七本槍(4月21日参照>>)の一人に数えられた加藤嘉明(よしあき)の長男・・・
父・嘉明が、あの関ヶ原の時に、「石田三成(みつなり)憎し」の武闘派メンバーの一人(3月4日参照>>)として東軍につき、その後の大坂の陣でも徳川方として参戦した(4月29日参照>>)事から、豊臣恩顧なれど徳川政権下で生き残り、寛永四年(1627年)に会津40万石を与えられて初代藩主となっていたのを、その父の死を受けて、明成が第2代藩主として、後を継いだわけです。
とは言え、この明成さん・・・残る文献では、暗君・暴君・イイとこ無しのボロカスです。
『古今武家盛衰記』には、「暗将にて、武備を守らず、臣庶の困窮を顧(かえりみ)ず」とあり、『野史』でも、「財をむさぼり民を虐(しいた)げ、好んで一歩(いちぶ)金を玩弄(がんろう)す…人呼んで一歩殿」と・・・
民衆の困窮に何の策を講じる事もなく、自分が金を集める事に夢中になっているダメ藩主だったので「一歩殿」なんてニックネームで呼ばれていたという事ですね。
が、しかし、一方では、先の会津地震で倒壊した若松城を建てなおすのと同時に、猪苗代湖の水を会津盆地に引き込む灌漑工事をはじめ、様々な土木工事を行って、会津の町を近世の城下町として整備したのも明成だと言われています。
なので、おそらく、実際には「100%の暗君でイイとこ無し」って事はなかったように思いますが、負け組に弁解の機会は無いのが封建社会の常・・・
そう、実は、明成さん・・・会津騒動というお家騒動を起こして、負け組となってしまうのです。
それは寛永十六年(1639年)4月16日の事・・・彼が2代め藩主となって8年目の春、父の時代からの重臣であった堀主水(ほりもんど)という人物が、一族郎党=300余名を従えて明成に反発し、会津城下を去ってしまったのです。
彼は、もともと多賀井という姓をい名乗っていたのを、大坂の陣で、堀の中での組み撃ちで敵将の首を挙げた事から、前藩主の嘉明から「堀」という姓を賜り、以来、重臣として大活躍・・・明成の代になっても家老として、藩政の中心となっていた人でした。
しかし、こういう人って、後を継いだ新藩主から見れば表裏一体です。
うまく行けば、先代より引き継いだ家臣たちをまとめてくれる強い味方となりますが、一歩間違えば、自らの腕を振るおうとする新藩主に、何かと前例を持ちだして苦言ばかりを呈する、煙たくてうっとぉしいご意見番となってしまうわけで・・・
明成と主水の関係は、残念ながら、完全に後者となってしまっていたのです。
対立が表に出るキッカケとなったのは、ほんの些細な事・・・明成の家臣と主水の家来による、日常茶飯事的な、ちょっとしたケンカでした。
しかし、上記のように、日頃からうっとぉしいジイサンにウップンたまりまくりの明成は、このケンカをことさら大げさに扱い、主水の大恥をかかせるような裁決を下したのです。
とは言え、本来なら、いくら不服でも、主君の采配に従うのが家臣なわけですが、実は主水さんの方も、それに負けてないような性格・・・なんせ、好みの女性を見つけたら、その人が人妻であっても、「その権力で以って無理やり離縁させてお妾にする」てな事をやっていた人だったのだとか・・・
・・・で、この明成の判決に不満を抱いた主水が、会津を出る・・・というワケですが、その時に、従者の持つ鉄砲の火縄に点火をしたまま城下を出て、少し離れた中野村(門田町)から、なんと!若松城に向けて発砲して近くの橋を焼き落とし、関所を破って出て行ったとの事・・・
この一連の主水の行動を江戸屋敷にて伝え聞いた明成・・・それこそ、黙ってはいられません。
「これは、藩主を侮辱する行為やぞ!絶対に許さん!天地の果てまでも追いかけて厳罰にしたる!」
と怒り心頭で、追手を差し向けます。
会津を出て、一路、南へ逃走中の主水は、鎌倉にて妻子を駆け込み寺の東慶寺に入れ、自らは、兄弟たちとともに、あの高野山へと逃げ込みます。
もともと、お寺は治外法権な部分がありますが、この女性向けの東慶寺と男性向けの高野山は、特に、誰も手を出せない感満載のお寺・・・
案の定、明成が要求した主水らの身柄引き渡しも、高野山はあっさりとお断わり・・・すると、明成は、怒りのあまり、「会津の所領に変えてでも、主水を追捕します!」と幕府に訴えたのです(『藩翰譜』)。
所領に変えてでも???
一家臣の追討のために、40万石を捨てるの???
と驚いちゃいますが、ここは、記録通りに話しを進めていきますと、そのテンションのまま、明成は出兵の準備を開始し、今にも、高野山を攻撃する勢い・・・
これに驚いたのは幕府・・・「このまま聖地に攻撃されてはエライ事に…」と、慌てて、高野山に、主水を引き渡すよう申し入れます。
一方、それを知った主水らは、コチラも慌てて高野山を出て、その足で紀州藩主の徳川頼宣(よりのぶ)のもとへ行き、加藤家が「昔は、こんなに豊臣恩顧であった」てな話や「最近、城を建て変えて反逆を企んでるんじゃないの?」てな感じの7カ条に渡る理由を並び立て、逆に、明成を討伐する許可を願い出たのです。
この訴えによって、明成も呼び出されて詮議を受ける事になりますが、その時には、それこそ、主水が会津を出る時に行った一連の行為を「藩主への反逆」として訴えます。
結果、明成の訴えが「もっともだ」と聞き入れられて主水の訴えは退けられ・・・寛永十八年(1641年)3月、哀れ主水は拷問の果てに斬首。
さらに、弟たちも切腹にしたうえ、東慶寺にも兵を差し向けて妻子までをも処刑しました。
・・・と、これが、やっちまいました(p´□`q)゜o・・・です。
そう、主水らの処刑は、なんだかんだで幕府の采配ですから、それをどう執行しようとかまわなかったわけですが、東慶寺への攻撃はいけません・・・
以前、書かせていただいたように、ここは、神君家康公が、自ら、治外法権の権限を与えた特別なお寺(5月8日参照>>)・・・そこに手を出しちゃったら、さすがに万事休す・・・
「確か、君・・・前に『会津の所領に変えてでも、主水を追捕します!』って言うたよね?」
「ほな、その通りに、したろやないか~」
と、以前のイケイケ発言を逆手に取って、将軍・徳川家光は、明成に改易を申し渡したのです。
ただし、前藩主の嘉明の功績が、「あまりにも良い」と評価されていた事から、明成の息子=明友(あきとも)に石見吉永藩(島根県太田市)1万石が与えられ、加藤家は何とか存続・・・
明成は隠居という立場で、息子のもとに身を寄せ、万治四年(1661年)1月21日、70歳でこの世を去りました。
40万石から、わずか1万石になったとは言え、何とか存続しただけでも、良かったのかも知れませんが、それこそ、負け組に弁解の機会が与えられていないのだとしたら、この一連の騒動も、記録の通りではなく、何かしらのウラがあるかも知れないわけで・・・
ひょっとしたら、この関連で、ついでに潰されたんじゃないの?
と、かんぐりたくなるような松下長綱(まつしたながつな)の改易(9月10日参照>>)とともに、徳川家による外様潰しの疑いも残るような会津騒動でした。
.
「 江戸時代」カテゴリの記事
- 元禄曽我兄弟~石井兄弟の伊勢亀山の仇討(2024.05.09)
- 無人島長平のサバイバル生き残り~鳥島の野村長平(2024.01.30)
- 逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア(2023.11.25)
- 徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方(2023.08.22)
- 徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局(2023.06.12)
コメント
一言。
今の国会議員や地方議員にも大勢一歩殿がいますね〜。(≧∇≦)
投稿: オルガ | 2013年1月22日 (火) 13時27分
オルガさん、こんにちは~
いますね~
なんとか、今の国会議員さんにも、私利私欲を捨てて、頑張っていただきたいです~
投稿: 茶々 | 2013年1月22日 (火) 15時24分
茶々様、こんにちは(^0^)。
堀主水の妻子が逃げ込んだ東慶寺というのは、あの豊臣秀頼の娘さん・天秀尼のいらしたお寺ですよね?
それで思い出したのですが、妻子は処刑されたとずっと思われてたのですが、実は天秀尼のおかげで命が助かっていたそうです(以下、歴史作家永井路子先生の本より)。
堀一族をよこせ!と押し寄せる兵たちに、天秀尼は毅然と!
「お下がり、昔からここへ逃げ込んだものは、決して引き渡さないという掟を知らないのか。規則無視は許されませぬぞ!」と、かつて、養母の千姫がしてくれたように身体を張って守り、千姫を通じて幕府に訴え、ついに妻子の助命を聞き入れさせたとのことです。
なんでも、その後無事に帰った妻の実家から古文書が発見され、会津のお墓も見つかり、妻は80歳代まで生を全うされたとのことです(^-^)v。
投稿: ZAIRU | 2016年1月21日 (木) 13時47分
ZAIRUさん、こんにちは~
そうなんですか?
もともと東慶寺は特別扱いですし、幕府の外様潰しの件もありますから…
いろいろと勘繰ってしまいますね。
投稿: 茶々 | 2016年1月21日 (木) 14時43分
茶々様、こんばんは。この寒いのに外出しなければならず凍えながら帰ってきました。
上のお話ですが、私も単なる美談ではなく、結果として幕府が外様潰しに利用した可能性は大!と思っています。
とはいえ、天秀尼の尽力により一人の女性の命が救われたのは、また新たな資料が出ないうちは今のところ事実のようで・・・(Wikiの天秀尼の項目にも事件の顛末があります)。
ご存知のように天秀尼さんは不幸な生い立ちで若くして亡くなられていますが、運命を受け入れつつも自分の意思でしっかりと生を全うされたと信じたいですね。
関西在住なので距離がネックですが東慶寺はいつか行ってみたい場所のひとつです。
投稿: ZAIRU | 2016年1月21日 (木) 22時36分
ZAIRUさん、こんばんは~
私も東慶寺…てか、鎌倉にも行った事が無いんです。
いつか機会があったら行ってみたいです。
投稿: 茶々 | 2016年1月22日 (金) 03時14分