京都奪回を目指す北畠顕家~青野原の戦い
延元三年・建武五年(1338年)1月28日、追撃する足利軍を北畠顕家が迎撃した青野原の戦いがありました。
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ともに鎌倉幕府を倒しながらも、その後に後醍醐(ごだいご)天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)・・・(11月19日参照>>)
湊川(みなとがわ)の戦いで楠木正成(くすのきまさしげ)を自刃に追い込み(5月25日参照>>)、京都を制圧した尊氏に対し、後醍醐天皇は、新田義貞(にったよしさだ)に二人の皇子を託して北国落ちさせ(10月11日参照>>)、自らは一旦和睦した後、吉野に脱出して朝廷を開き(12月11日参照>>)・・・時代は、いよいよ南北朝に突入します。
*後醍醐天皇が南朝、尊氏が北朝です…個々のくわしい事は【室町前期・南北朝の年表】でどうぞ>>
そんな畿内の様子を聞き、はるばる奥州から救援に駆けつけたのが、後醍醐天皇の側近中の側近である北畠親房(きたばたけちかふさ)(5月10日参照>>)の息子=北畠顕家(きたばたけあきいえ)・・・
延元三年・建武五年(1338年)1月・・・尊氏の息子=足利義詮(よしあきら=後の2代将軍)が籠る鎌倉を制圧した顕家は、全軍を率いて、一路、東海道を京へと目指します(1月8日参照>>)。
この時、北朝リーダー尊氏は、北陸にて奮戦する義貞(3月6日参照>>)の対応に追われ、西上する北畠軍へ目を向ける余裕は無かったわけですが、それこそ、一旦、鎌倉を明け渡して逃走した義詮も、黙っておとなしくしているワケはなく、北畠勢が鎌倉を出立した途端に攻撃を仕掛け、すぐさま鎌倉を奪回し、後方からの追撃を開始したのです。
やがて1月20日・・・美濃(岐阜県)にまで進軍したところで、「まもなく、追手が追いつく」との情報を得た北畠勢・・・
「ここは、ひとまず、背後に迫る追手を打破する事が先決」と、顕家も、追手の足利勢の迎撃を決意し、少し軍を戻して、美濃と尾張(愛知県西部)あたりでの決戦とあいなります。
一方、追う足利勢には、美濃の守護=土岐頼遠(ときよりとう)(9月6日参照>>)がいて、その地の利を生かした作戦を展開・・・軍をいくつにも分けて配置し、順次、抜け目なく北畠軍に攻撃を仕掛けて来ます。
押しつ押されつ・・・しばらくの間、両者ともに一歩も退かぬ戦いが展開されましたが、やがて延元三年・建武五年(1338年)1月28日、美濃青野原(あおのがはら=岐阜県大垣市)にて、この追撃戦の最終決戦を迎えました。
しかし、実は、こうなると、足利勢は、かなり不利・・・そう、はなから兵の数が違うのです。
だからこそ、頼遠は、兵を分散させて、アチラコチラで戦いを繰り広げていたワケで、全部が一堂に会すると、とてもじゃないが、相手にならない数・・・『太平記』によれば、頼遠率いる軍勢が1000騎に対して、北畠軍は6万余だったと言いますが、この数字は、イロイロ盛ってるとしても、多勢に無勢であった事は確かでしょう。
それでも、選りすぐりの精鋭を集めて果敢に、北畠勢に攻撃を仕掛ける頼遠勢は、「最後の1騎になるまで退くな!」と、お互いに励まし合って奮戦しますが、そこは致し方無く・・・
やがて、頼遠も負傷し、やむなく撤退を開始・・・青野原の戦いは、北畠軍の勝利となりました。
この青野原での敗戦を伝え聞いた京都の尊氏・・・北畠軍は、このまま近江(滋賀県)へと入り、京に迫って来るものと考え、高師泰(こうのもろやす=高師直の兄?)や佐々木道誉(ささきどうよ)ら5万の軍勢を派遣し、美濃と近江の境界線となる黒地川(黒血川・くろぢがわ=岐阜県不破郡)を背に陣取らせ、この地にて、北畠軍を迎撃する事としました。
なんせ、万が一、ここを破られて顕家が近江に入り、北陸の義貞勢と合流でもされたら、それこそ、尊氏にも脅威の集団となる事間違い無し・・・何としてでも死守せねば・・・
ところが、待てど暮らせど、黒地川に顕家が現われる事はありませんでした。
そう、顕家は、そのまままっすぐ近江へ行かず、伊勢路へと迂回して奈良方面へと向かったのです。
『太平記』では、この顕家の迂回作戦を、新田義貞との合流を嫌ったためとの見解を見せています。
ご存じのように、義貞は、尊氏の最大にして最強のライバルとのイメージが強い・・・一方の顕家は、後醍醐天皇や父の北畠親房(きたばたけちかふさ)(5月10日参照>>)に忠実な公卿・・・ここで新田軍と合流して、仮に勝利したとしても、合戦後は勝ち組の将として義貞の利となるのは明白なわけで・・・
武士政権より天皇派であった顕家は、義貞に手柄を立てさせたく無かったのだ・・・と、
もちろん、それも無い話ではないでしょうが、現在では、他にも様々な要因があったと考えられています。
まずは兵糧の欠乏・・・
鎌倉からここまで、ほぼ戦いながらの大軍の移動ですから、そろそろ兵糧も少なくなって来ていて、そうなると、兵士の士気も低下・・・
しかも、近江との境目で待っているのは、京都から派遣されたばかりの、未だ元気ハツラツの足利軍の精鋭たちですから、とても、まともに相手できないと考え、兵の態勢を整えるために迂回したのでは?という事・・・
また、以前の鎌倉出陣のページ(冒頭にもリンクした1月8日のページです>>)にも書かせていただいたように、この北畠軍には、あの鎌倉幕府第14代執権・北条高時(ほうじょうたかとき)の遺児=北条時行(ときゆき)が合流しています。
なんだかんだで義貞は、鎌倉を攻撃して高時を死に追いやった直接対決の相手(5月22日参照>>)・・・敵の敵は味方とは言え、さすがに、直の父の仇との合流は避けようとしたのでは?とも・・・
さらに、一旦制圧した京都という地を、度々奪われては、その度にはるか奥州の自分を頼るというこれまでの不甲斐なさ自体に嫌気がさしていたのかも知れません。
とにもかくにも、ここで顕家は、南朝の本拠地=吉野を目指して、伊勢から奈良に向います。
後から思えば、これが、顕家の生涯において、最大のターニングポイントだったわけですが・・・そのお話は、また後日・・・
・・・で、もちろん、この迂回の情報は、いずれ、京都にいる尊氏にも届くわけで・・・尊氏は、早速、かの青野原でも奮戦していた桃井直常(ももいただつね)・桃井直信(ただのぶ)兄弟を奈良へと派遣・・・
こうして、戦いは奈良の地へと移行していきますが、そのお話は、いずれかの「その日」にさせていただく事にしますねm(_ _)m
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コメント
茶々さん、こんばんは!
北畠顕家といえば…大河ドラマ「太平記」を想い出します。演じたのは後藤久美子さんでしたね。
放映したその年の終盤頃、阿倍野区にある阿部野神社の境内にある北畠公園に顕家の銅像が建ったので、友人らと見に行ったのですがホント、ゴクミそっくり!(笑)
如何せん、私が描く顕家のイメージは道奥(みちのく)の野原を駿馬に乗って駆け巡る、って感じなので、立像よりかは騎馬像姿の方が良い感じでたんちゃうやろか!と友人らと話してたのが懐かしいです。
当時、同じ学科の連中が南北朝時代をイメージする基本的なバイブルとして読んでいた本に田中俊資さんの『楠木正行』(全5巻)というのがあって、その中で後村上天皇が顕家を回想するシーンがあるんですね。
後村上天皇がまだ義良親王と呼ばれた時期に陸奥将軍府で乗馬の手ほどきを受けるというシーンなのですが、まさに“道奥の野原を駿馬に乗って駆け巡る”顕家の姿が目に浮かぶようで、今でも印象深く想像しちゃう訳なんですよ!
投稿: 御堂 | 2013年1月28日 (月) 21時45分
御堂さん、こんばんは~
そうそう、後藤久美子さんでしたね。
なぜ、後藤久美子さんだったんでしょうね?
武士らしくない雰囲気を醸し出したかったんでしょうかね?
でも、私も御堂さんと同じく“道奥の野原を駿馬に乗って駆け巡る”というようなイメージですね~
もちろん、武士の雰囲気では無く、貴公子ではありますが、ちょっと活発でヤンチャな貴公子のイメージです。
投稿: 茶々 | 2013年1月29日 (火) 02時12分
こんばんは。
ついてきた奥州の武将達の思いはここまで戦い抜いた武功の恩賞。
そろそろ吉野の偉いさんから恩賞の手形を欲しがり立ち寄る声があがっていたのではないのか?与力の武将の束ねが崩れるのを恐れた顕家は断れずに伊勢へ寄り道したのでは?
大河ドラマでは疲れた顕家が、父のもとへ転がり込んだ姿がとてもよかったですが。
謎の転進は南朝の戦機の喪逸になる。
投稿: シバヤン | 2023年1月28日 (土) 19時46分
シバヤンさん、こんばんは~
>恩賞の手形を欲しがり立ち寄る…
なるほど…
それもあるかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2023年1月29日 (日) 03時17分