後醍醐天皇のため上京します!…北畠顕家
延元三年・建武五年(1338年)1月8日、前年の暮れに鎌倉を攻略した北畠顕家が、京都を目指して鎌倉を発ちました。
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およそ100年の長きに渡って続いた鎌倉幕府・・・この間、事実上政権を握っていた執権=北条氏を倒して(6月22日参照>>)、天皇親政による建武の新政(6月6日参照>>)を開始した後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、それに反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が京へと攻め上り(6月30日参照>>)、その尊氏と湊川(みなとがわ)の戦い(2012年5月25日参照>>)で相対した楠木正成(くすのきまさしげ)は自刃(2007年5月25日参照>>)、天皇の皇子を託された新田義貞(にったよしさだ)は北国へ落ち(10月11日参照>>)、後醍醐天皇自身は、一旦、尊氏と和睦します。
しかし、機会を見計らって脱出した後醍醐天皇は、吉野にて南朝を開き(12月22日参照>>)、やがて、ここには、正成の遺児=楠木正行(くすのきまさつら)をはじめとする天皇側の勇士たちが、続々と集まって来る事になるのですが・・・
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その中の一人・・・遠き奥州から馳せ参じるのが北畠顕家(きたばたけあきいえ)です。
ご存じのように、顕家の父=北畠親房(きたばたけちかふさ)は、後醍醐天皇が最も信頼する部下であり、後醍醐政権の参謀であり後見役でもあった人ですが、その出自は村上源氏の流れを汲む公卿でした(5月10日参照>>)。
この頃の北畠氏は、親房がすでに出家していましたので、事実上のトップは、息子の顕家・・・そんな顕家は建武の新政が成った元弘三年(1333年)、陸奥守(むつのかみ)に任じられ、天皇の皇子=義良(のりよし・のりなが)親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州(おうしゅ=東北地方)に下ります。
それは、まさしく、義良親王を将軍に顕家を執権に据えた後醍醐政権配下の奥州幕府とも言うべき物で、彼らによって、その地域を治めるという役目を帯びていたわけですが、冒頭に書かせていただいた通り、この2年後に、関東支配担当だった尊氏が、反旗を翻したわけで・・・(11月19日参照>>)
ここに来て、尊氏に京都を制圧されて吉野にて朝廷を開いた後醍醐天皇の事や、北国に落ちた新田義貞の奮戦(3月6日参照>>)を聞きつけた顕家は、鎌倉を攻略する決意を固め、延元二年・建武四年(1337年)8月、10万余騎の軍勢を従えて、白河の関(福島県白河市)を進発したのでした。
(軍勢の数は『太平記』に従っています…実際には、もっと少ないと思われます)
もちろん、尊氏側も、それを迎え撃つ覚悟・・・
ここ鎌倉を守るのは、鎌倉管領となっている尊氏の息子=足利義詮(あしかがよしあきら=後の2代将軍)・・・早速、配下の者に8万余騎の兵をつけて利根川の河畔にて、北畠軍を待ち受けます。
やがて、増水した川を挟んだ東西で睨みあう両者・・・
ともに、川の水が減るのを待っていましたが、らちが明かず・・・結局、家臣の進言に従って、顕家は渡河を強行します。
ところが、この作戦が見事成功!
怒涛のごとく攻め入る北畠勢に、8万の足利勢は、四方八方に蹴散らされ、またたく間に鎌倉方面へと撤退していったのです。
こうして初戦を勝利した顕家は、武蔵の府にて6日間滞在し、鎌倉の様子を探りますが、その間に、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)が千騎で駆けつけたかと思うと、新田義貞の次男=徳寿丸(後の義興…10月23日参照>>)も上野(こうずけ)にて兵を挙げ、武蔵へと進軍を開始・・・
さらに、敵の敵は味方とばかりに、尊氏離反のキッカケとなった、あの中先代(なかせんだい)の乱(7月23日参照>>)を起こした北条時行(ときゆき=北条高時の遺児)までもが、伊豆で挙兵して箱根に陣取りました。
もはや、四面楚歌となってしまった鎌倉・・・この時、未だ11歳だった義詮は、幼いながらも大将らしく皆を励まし、決死の鎌倉籠城を決意します。
しかし、悲しいかな、この時の籠城組は、わずかに1万・・・途中から仲間を加え、お互いに示し合わせた北畠勢の猛攻に耐えきれず、延元二年・建武四年(1337年)12月28日、鎌倉は陥落・・・足利軍は敗走しました。
かくして鎌倉を手に入れた顕家ですが、当然の事ながら、目指すは、尊氏の手に落ちている京都・・・延元三年・建武五年(1338年)1月8日、上洛のため、顕家は鎌倉を進発したのです。
とは言え、当然の事ながら、鎌倉を離れた足利勢も黙ってはいず・・・追い打ちをかけるべく、後方から迫ってきます。
また、この北畠軍の進軍に、在京の足利軍ものんびりしているわけにはいかず・・・
この先、西へと進む顕家に、幾多の合戦が待っているわけですが、そのお話は、続く1月28日・・・【京都奪回を目指す北畠顕家~青野原の戦い】でどうぞ>>o(_ _)oペコッ
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コメント
茶々さま、こんにちは。
福島出身の祖母の実家は「安龍」という姓でありまして。龍を安んじ奉る=ずばり、南朝の遺臣そのものです。
辺境の臣民の労に報いるにも、南朝側には何の手立もない…せめてということで、姓氏を賜ったのではないでしょうか。
北畠顕家卿に従い京に攻め上った奥州の民の、はじめて日本の歴史に参加した素朴な感動が今に伝わってくるようにも思えます。
投稿: レッドバロン | 2013年1月10日 (木) 08時48分
茶々さん、どうも(・∀・)ノ
南朝には南朝の生き様がありますね。
公家っぽいような名前の人が兵を率いて前線に立つというのは少々燃えます。
高校までの授業では基本的に、
朝廷は二つに別れたけどそのうち戻りました。
で終わってしまう南北朝時代。
こういった細かいところ(いわゆる文化面ではない)は面白いのですからこういったことを教えれば歴史の授業を寝ずに過ごす学生も多くなるような気がするのですが.....
しかし非常に見やすくまとまっていて見るのが楽しいです、一気にどんどん出したらネタギレになってしまうかもしれないので、小出し小出しで構わないので←オイ
長く続けてほしいです。
投稿: 総長代行 | 2013年1月10日 (木) 11時46分
レッドバロンさん、こんにちは~
ほぉ~「安龍」という姓ですか…
なんか、カッコイイですね(*^.^*)
>奥州の民の、はじめて日本の歴史に参加した素朴な感動…
ホントですね~
投稿: 茶々 | 2013年1月10日 (木) 15時27分
総長代行さん、こんにちは~
そうですね~
合戦なんか見てみると、戦国と同じくらいオモシロイんですが、授業だけでは、あまり興味の沸かない時代ですね。
>小出し小出しで…
アハハ…
今回は、次の青野ヶ原まで行こうか行くまいか迷ったんですが、行っちゃうと長くなりそうだったので…つい、小出しに…(*´v゚*)ゞ
投稿: 茶々 | 2013年1月10日 (木) 15時31分