四条畷の戦い~楠木正行の最期
正平三年・貞和四年(1348年)1月5日、南北朝動乱の四条畷の戦いに敗北し、南朝方の楠木正行らが刺し違えて自刃しました。
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元弘三年(1333年)5月に、ともに鎌倉幕府を倒し(6月22日参照>>)ながらも、その後、後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、湊川(みなとがわ)の戦い(2012年5月25日参照>>)で新田義貞(にったよしさだ)と楠木正成(くすのきまさしげ)を倒して(2007年5月25日参照>>)京へと攻め上った(6月30日参照>>)事から、後醍醐天皇は息子たちを義貞に託して北国落ちさせ(10月11日参照>>)、自らは尊氏に降伏するポーズをとりながらも、機会をみて吉野へと脱出して朝廷を開きます(12月22日参照>>)。
時に延元元年・建武三年(1336年)・・・ここに、日本に二つの朝廷が並び立つ=南北朝の時代となります。
(さらにくわしくは、【足利尊氏と南北朝の年表】でどうぞ>>)
こうして義貞らが北陸で奮戦する(3月6日参照>>)一方で、吉野の後醍醐天皇のもとには南朝を支持する武将が続々と集まって来るわけですが、その中の一人が、かの楠木正成の息子=楠木正行(くすのきまさつら)です。
正成が、死を覚悟した先の湊川の戦いに挑む時、途中の桜井にて、「お前は来るな」と苦汁の訣別をした(5月16日参照>>)、あの息子です。
しかし、そのページにも書かせていただいたように、『太平記』では、この桜井の別れの時に11歳だったとするものの、年齢はもちろん、その桜井の別れそのものが後世の創作との考えもあり、その生年もよくわからない謎多き正行なのですが・・・
とは言え、父の遺志を継いだ正行は、後醍醐天皇にとって強い味方・・・
ただ、南北朝が分裂した後、なかなかに踏ん張っていた南朝方も、延元三年(建武五年・1338年)閏7月に義貞が討死(7月2日参照>>)した頃からは状況が暗転し、その翌月には尊氏が征夷大将軍になる(8月11日参照>>)中、一方の後醍醐天皇が翌・延元四年・暦応二年(1339年)8月に崩御(8月6日参照>>)・・・
また、その天皇を弔うために尊氏が天龍寺を建立したり(10月5日参照>>)、後に婆沙羅(バサラ)三人衆と呼ばれる佐々木道誉(どうよ)(10月12日参照>>)や高師直(こうのもろなお)(4月3日参照>>) や土岐頼遠(ときよりとう)(9月6日参照>>)らの、この頃のバサラっぷりを見ても、その形勢は尊氏側の北朝=室町幕府が優勢な事がうかがえます。
そんな状況下で活躍するのが正行・・・
正平二年・貞和三年(1347年)9月の藤井寺の戦い(9月17日参照>>)、続く11月の住吉の合戦(11月26日参照>>)などで幕府軍に圧勝し、ここに来て、その意地を見せていました。
この連続敗退を受けて、幕府は、高師直・師泰(もろやす)兄弟を大将とした6万余騎の大軍を京に集結させ、正行の本拠地である河内東条(とうじょう=大阪府柏原市東条町)を攻める事を決定します。
その大軍は、12月14日には淀、25日には八幡に到着・・・もちろん、これを受けた正行は、迎え撃つ覚悟を決めますが、いかんせん、兵の数が少ない・・・
「里の百姓なんどにも、かいがいしく候(そうら)はん皆々、召し具せられ候べく候」
と、一般庶民をも動員するも、なかなか兵は集まらなかったようです。
12月27日・・・この合戦が幕府軍との最後の合戦と心に決め、死を覚悟した正行は、弟の正時(まさとき)はじめ一族を引き連れて、今生の暇乞い(いとまごい)をするため、吉野へと参陣・・・亡き後醍醐天皇の後を継いでいた後村上天皇に拝謁します。
まさに、あの湊川の戦いに挑む直前に後醍醐天皇に拝謁した父・正成の光景と同じ・・・この時、後村上天皇は、
「お父さんと同じ道を歩んだらアカン!無理せんと生きて帰って来るんやで」
と、その命を大切にするよう諭したと言いますが、すでに、正行の心は決まっていたようです。
その後、近くの如意輪堂に立ち寄った正行は、そのお堂の壁板に、一族の名字を書き連ね、最後に辞世の一首を書きとめました。
♪帰(かへ)らじと
かねて思えば
梓弓(あづさゆみ)
なき数に入(い)る
名をぞとどむる ♪
「もう、覚悟は決まってるさかいに、おそらくこの先の戦いで、亡き人(討死する人)の数に入るであろう者の名前をここに書いておく事にするわな」
と・・・
その日のうちに吉野を発ち、いよいよ正行は合戦の場へと向かいます。
かくして正平三年・貞和四年(1348年)1月5日、両者は四条畷(しじょうなわて)にて相まみえる事となります。
(実際に戦場となったのは、現在の大阪府四条畷市楠公から大東市北条あたりだったとみられます)
しかし、最初に兵が思うように集まらずにモタモタしていたうえに、後村上天皇に謁見していた時間を使ってしまっていた正行は、すでに、地の利を失ってしまっていたのです。
そう、正行らが戦場に到着した頃には、すでに幕府軍は有利な地形に完璧に着陣しており、楠木勢を待ちうけていたのです。
『太平記』によれば、高軍は8万の軍勢を半分に分け、一方を騎馬装甲部隊とし、一方を弓射歩兵部隊として、その2隊をうまく組み合わせて陣取っており、対する楠木軍は、わずか3000・・・
ただ、公家の四条隆資(しじょうたかすけ)率いる2万の別働隊が飯盛山から生駒山の背後に陣取って、高軍をけん制する動きを見せていた事から、その動きで敵軍をひきつけておいて、楠木軍が四条畷に撃って出る作戦(北畠親房の立案とも)だったとも、あるいは、その逆で、楠木軍が囮(おとり)となって、本隊である四条軍が・・・という作戦だったとも言われ、はじめのうちは、楠木軍も、なかなかに奮戦し、幕府軍の歩兵部隊を蹴散らしたと言いますが、やはり多勢に無勢はどうしようもなく・・・
やがて、楠木軍の疲労が色濃くなって来るわけで・・・
そこで、正行は、一気に敵将の首を取ろうと、師直との一騎打ちにチャレンジし、見事、その首を仕留めますが、残念ながら、その首は影武者の物でした。
実は、その影武者は上山六郎左衛門という武将・・・この少し前の戦いで、彼の活躍を喜んだ師直が、その褒美として自らの鎧を六郎左衛門に与えていて、六郎左衛門は、その主君の鎧を着て参戦していたわけです。
主君の鎧を着けての参戦に心奮い立つ六郎左衛門は、
「高師直、ここにあり!」
との名乗りを挙げて、あたかも師直のごとく振る舞い、命がけで、その楯となったのでした。
『太平記』では、別人の首だった事を確認して落胆する正行・正時兄弟の描写とともに
「今の師直鎧を不与(ふよ)は、上山命に代らんや。情は人の為ならずとは、加様(かよう)の事をぞ申(もうす)べき」
の一文がありますが、これが、有名なことわざ「情けは人の為ならず」の出典です。
「師直が六郎左衛門に情けをかけて、自分の鎧を与えた事で、師直の命が六郎左衛門の命に代わった」なので「情けは人の為ならず」とはこの事だ=その情けはいずれ自分に戻って来る・・・という事なわけですね。
ちょっと話が逸れちゃいましたが・・・
気を取り直して・・・その後、正行と師直の距離が一町(約100m)ほどに接近する場面もあましたが、心ははやるものの、もはや体力が限界でなかなか近づけません。
そんな中、師直の周辺が7~80騎ほどの小勢になる瞬間があり、
「この人数ならイケる!」
と、楠木勢の武者たちが一気に突進を試み、その猛攻に、あわや、師直隊は総崩れ・・・
となりかけた時、師直隊の1団の中から一人の武者が・・・
それは九州出身の須々木四郎(すずきしろう)という武将で、弓の・・・それも連射の名人で、十三束二伏(じゅうさんぞくふたぶせ=束は拳1個分、伏は指1本分の幅の長さ)の長矢で百歩先の柳の葉を百発百中で撃ち抜ける腕前だったと言います。
その四郎が、そこらへんに落ちている矢を集め、まるで雨あられのごとく、次々と矢を射りはじめたのです。
すでに、一日中身につけて奮戦した楠木軍の鎧は、体温や汗であちこちに緩みが生じており、その隙間を狙って、四郎は見事に矢を突き刺すのです。
もちろん、その確かな狙いは、雑兵などには目もくれず、大将クラスに照準を定めます。
やがて、弟・正時は眉間と喉を射られますが、もはや、それを抜く力もないほどに疲労困憊・・・一方の正行も、左右のヒザを三ヶ所、右の頬、左目の目尻を深く射られ、さらに、体にも多くの矢を受けたため、もはや、身動きすら思うようにとれなくなり・・・
しかも、周囲を見渡したところ、目に入る部下たちは、皆、それぞれ、幾本かの矢を受けている者ばかり・・・
その状況を見て取った正行・・・
『今はこれまでぞ。敵の手に懸かるな』
そう叫んだかとおもうと、正行&正時、兄弟二人で刺し違え・・・忠義の正成の息子たちは、その父と同じく、忠義のうちに、その生涯を閉じました。
その光景を目の当たりにした配下の者も、皆、それぞれに腹を斬って、その後に続いたと言います。
この正行の死が、この先の南朝の運命を暗示するかのような出来事となった事は言うまでもありません。
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コメント
昨日たまたま皇居の辺りをぶらついていたら、楠木正成の銅像を見つけました。
この時代の歴史は全然知らないので、またこちらで勉強させていただきましたが、
歴史に興味をもつと、どこを歩いてもネタにぶつかるのが楽しいですね。
今年も宜しくお願いします。
投稿: りんどう | 2013年1月 6日 (日) 10時56分
りんどうさん、こんにちは~
>歴史に興味をもつと、どこを歩いてもネタにぶつかる…
ホントですね~
私も、子供の頃、な~にも考えずに遊びまわっていた場所が、実はスゴイ場所だったって事が多々あります(*´v゚*)ゞ
「あぁ、アノ人(←歴史上の人物)も、この景色を見たのかなぁ」って思うと、ワクワクしますね!
こちらこそ、本年もよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2013年1月 6日 (日) 17時18分