新陰流の開祖~剣聖・上泉信綱
天正五年(1577年)1月16日、新陰流の開祖として知られる剣聖・上泉信綱が亡くなりました。
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戦国の剣豪&剣客と言われる方々には、往々にして伝説&伝承の域を越えない話が多く残されている物で、この上泉信綱(かみいずみのぶつな)も、ご多分にもれずの曖昧な部分も多々あり、文献によっても違いがありで、今回は、あくまで、諸説あるうちの一つとしてお話を進めさせていただきたいと思います。
信綱の上泉家(こういずみと読む場合もあり)は、あの藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の流れを汲み、赤城山の南麓=上野勢多郡大胡(こうずけせたぐんおおご=群馬県前橋市)に根づいた大胡一族の出身とされ、信綱の父の上泉秀継(ひでつぐ=憲綱・義秀)は、大胡城の支城である上泉城の城主だったと言います。
信綱自身の名前も、はじめは秀長、後に秀綱、さらに、下記の通り永禄九年(1566年)から信綱と名乗ったとの事ですが、ややこしいので、本日は、ずっと信綱さんと呼ばせていただきます。
・・・で、この信綱さん・・・こうして、父の上泉城で育ち、自らの才能を剣術に見出しはじめた16歳の頃・・・「ここにいたままでは、剣術の才能をのばす師匠に出会えない!」と感じ、一大決心をして武術修行の旅に出る事にします。
それこそ、年数や年齢が、ちと合わない部分もあり、伝承の域を出ないものではありますが、あの新当流(しんとうりゅう)の剣聖・塚原卜伝(つかはらぼくでん=卜傳)(2月11日参照>>)をはじめ、常陸鹿島(茨城県鹿嶋市)の鹿島武術を継承する鹿島神陰流(しんかげりゅう)の松本政信(まつもとまさのぶ)や、日向(ひゅうが=宮崎県)の陰流(いんりゅう)開祖=愛洲移香斎(あいすいこうさい)・・・また、多くの剣客を輩出した下総香取(しもうさかとり=千葉県佐原市)を訪ねてみたり・・・
とにかく、26歳になるまでの10年間に、各地を巡って高名な剣客に教えを請い、様々な技を会得して上泉村に帰国したと言います。
一説には・・・
その修行中に、尾張(おわり=愛知県西部)のある村を通りがかった時、不逞浪人が、村人の子供を人質に取り、その首に刀を突き付けながら小屋に立て籠るという事件に遭遇します。
村人たちは、子供を助ける術を持たず、ただ泣きながら、見守るばかり・・・
そこにやって来た信綱・・・いきなり、その頭髪を剃って、近くの寺から袈裟(けさ)を借り、坊さんに変身して、村人に「握り飯を2つ作ってくれ」と用意させます。
そして、坊さんのフリをして小屋に近づき、
「子供がお腹をすかせてるやろから、せめて握り飯でも…」
と声をかけます。
浪人から見れば、その姿は、完全に坊さん・・・しかも、武器らしい物も何も持っていませんから、気を許して、小屋に招き入れます。
「こんなアホな事する悪人のお前でも、人の子や…一つはお前の分!」
と言って、浪人に向かって握り飯を投げたのです。
思わず、投げられた握り飯をホイと受け取る浪人・・・その瞬間、信綱は、浪人を組み伏せてしまったのです。
後に、彼に挑戦して来た柳生新陰流の開祖・柳生宗厳(やぎゅうむねよし)・・・まだまだ血気盛んでケツの青かった時代の宗巌をコテンパンにやっつけた(4月19日参照>>)新陰流(しんかげりゅう)・秘剣=無刀取りが、すでに形となっていたのですね。
故郷に戻った後、大胡城主となった信綱は、その後、関東管領・上杉家の被官(ひかん=配下の官僚)である箕輪城(群馬県高崎市)の城主・長野業政(ながのなりまさ)に仕えます。
この業政という武将は、なかなかの勇将で、その下で、得意の武勇を奮う信綱は、「上野国一本槍」と呼ばれて数々の合戦で武功を挙げ、その間は、あの甲斐(かい=山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)でさえ、箕輪城に手を出す事ができませんでした。
しかし永禄四年(1561年)・・・
その業政が病気で亡くなり、未だ14歳の若き当主=長野業盛(なりもり)にバトンタッチした途端、それをチャンスと見た信玄が襲いかかって来るのです。
とは言え、さすが勇将のDNA・・・この業盛も、若年のワリにはなかなかの名将で、何度か信玄の軍を撃退させているのですが、なんせ、相手は皆様ご存じの大物=信玄・・・
残念ながら、何度目かの攻撃を受けた永禄九年(1566年)9月30日・・・業盛は19歳の命を散らし、箕輪城は落城しました(9月30日参照>>)。
もちろん、この時の信綱は、主君&城とともに、その命を終わらせるつもりでありましたが、そこを説得したのが、誰あろう信玄・・・
そう、その剣の腕もさることながら、修行の途中で数々の兵法も身につけていた信綱・・・今回、若き当主を支えて、信玄に対抗する策をアドバイスしたのだって彼です。
その才能を見込んだ信玄が、かの穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)(3月1日参照>>)を使者として遣わし、「メッチャ高い給料で雇うよって、武田に来てよ!」と説得したのです。
しかし、信綱は、これを丁重に断ります。
信玄は、やむなく、
「他家に仕官しない事」
「以後は信玄の一字をとって“信綱”を名乗る事」
を条件に、彼の獲得をあきらめたと言います。
こうして信綱は、息子の上泉秀胤(ひでたね)、甥とされる疋田景兼(ひきたかげかね)(9月30日参照>>)や神後宗治(じんごむねはる)らをお供に、自らの剣術=新陰流(新影流)の発展と流布の全国行脚に出かける事になるのです。
先に書いた柳生宗巌との一戦も、この旅の途中・・・
さらに、第13代室町幕府将軍・足利義輝(よしてる)(5月18日参照>>)に招かれたり、「信綱強し」の噂を聞きつけた第106代・正親町(おおぎまち)天皇(10月27日参照>>)の前で、その技を披露した事もありました。
この時は、従四位下(じゅしいのげ)に叙され、なんと昇殿も許されています。
まさに剣聖です。
しかし、信綱は、信玄との約束通り、どこかに仕官する事はなく、生涯、流浪の旅にあけくれました(故郷に戻った説もありますが定かではありません)。
なので天正五年(1577年)1月16日、推定66歳で亡くなったとするものの、その亡くなった場所も特定されません。
大和(奈良県)の柳生で亡くなったとされ、柳生家の菩提寺にお墓があるそうですが、他にも、様々な伝承が今に伝えられています。
とは言え、敗軍の将から剣聖となった信綱にとって、多くの弟子たちから様々な流派が生まれ、そして、それらが400年経った今でも受け継がれている事こそ本望と言えるもの・・・その死に場所など、彼にとっては後世に伝える必要の無い事だったのかも知れません。
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コメント
次のアンケート企画は、「歴史上最も強い剣豪は誰…?」
で、決まり…!?
小生、この人最有力候補です。(≧∇≦)
投稿: azuking | 2013年1月17日 (木) 05時40分
azukingさん、こんにちは~
>「歴史上最も強い剣豪は誰…?」
イイかも…ですね。
ただ、剣豪って、何となく一般的に名前が知られている人が限られている気がしないでもないですね(゚ー゚;
宮本武蔵の一人勝ちになっちゃうかも…
おっしゃる通り、上泉信綱のほうがシブイ気がするんですがね~
投稿: 茶々 | 2013年1月17日 (木) 13時16分
宮本武蔵の一人勝ちにはならないでしょう。柳生十兵衛やら塚原卜伝やら近藤勇に沖田総司など新撰組の面々を推す人もいるでしょうし、北辰一刀流の千葉周作を推す人、柳生流から柳生連也斎を推す人ナンテのも居るでしょう。或いは大江山の酒呑童子退治から源頼光や、その四天王をあげる人なども居るでしょう。はたまた、剣豪将軍と呼ばれた足利義輝をあげる人、小野派一刀流開祖の小野忠明を推す人、高田馬場での○○人切り(何人でしたっけ?)の堀部安兵衛を推す人、鍵屋の辻の○○人切り(これまた何人でしたかね?)の荒木又右衛門を推す人………………、結構いろんな回答が寄せられて面白い結果が得られそうですよ。
投稿: マー君 | 2013年1月18日 (金) 14時54分
マー君さん、こんばんは~
「宮本武蔵の一人勝ち」というのは、あくまで、戦国の、それも、いわゆる武者修行に出て腕を磨いたような剣豪・剣客のつもりでした。
最近は、塚原卜伝でさえ一般的には知られていない気がして…時代劇、少なくなりましたもんね。
幕末やらも入れたら、それこそ、新撰組だけでも「誰が1番強い!」って推しメンの嵐となると思いますよ。
また、選択肢メンバーを考えておきますね。
投稿: 茶々 | 2013年1月19日 (土) 03時59分