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2013年1月22日 (火)

今も昔も信仰あつき…「蟻の熊野詣」

 

寛治四年(1090年)1月22日、白河上皇熊野三山へ行幸されました。

・・・・・・・・・・・

って事で、本日は、昨年の大河ドラマ「平清盛」でも触れられていた熊野詣(くまのもうで)について、ご紹介させていただきたいと思います。

熊野詣の熊野は、ご存じの通り、和歌山県は紀伊半島の岬の突き出たあたり一帯を指す地名で、もともとは、「樹木が生い茂っていて、昼なお暗い」といったイメージを指す形容詞=「隈々しい(くまぐましい)」に由来した地名だと言われています。

・・・で、そこにある熊野三所(社)権現とか、熊野三山とか呼ばれている大きな3つの神社、熊野本宮大社(ほんぐうたいしゃ・熊野坐神社)熊野速玉大社(はやたまたいしゃ・新宮)熊野那智大社(なちたいしゃ)を中心に、平安時代頃から仏教修行の道場として注目を浴びるようになります。

現在、稲荷社、八幡社に次ぐ、3番目に多く全国に散らばる熊野神社をいう神社名の本源が、ここなのですね。

平安時代に隆盛を極めたのは、当時、一大ブームとなっていた末法思想による阿弥陀如来信仰から・・・

ずいぶん前に【藤原頼通と平等院】>>のところで書かせていただきましたが、
「お釈迦様が亡くなって2千年が経つと、仏教の教えがすたれ、天災や戦争などの不幸が続く、『末法の世』なってしまう。永承七年(西暦では1052年)がその『末法の世』の第一年である」
というのが末法思想で、

それが、
「阿弥陀如来を信仰する事によって、極楽浄土に往生できる」
というという事なのです。

・・・で、本宮は阿弥陀如来、新宮は薬師如来、那智は千手観音十一面観音を安置している事から、現世と来世の2世のご利益を得る事が出来るとして、特に、今の地位を失いたくない貴族や公家が、こぞって熊野詣に出かけた事から、やがて、それが庶民にも広がって行き、「蟻(あり)の熊野詣」と表現されたくらい、大勢の人が参拝に訪れるようになったのです。

天皇の行幸としても、延喜七年(907年)の宇多天皇を皮切りに、冒頭に書かせていただいた白河上皇は、その生涯で9回鳥羽上皇21回後白河法皇に至っては、なんと34回も熊野に参拝しています。

もちろん、天皇や貴族にとっては、堅苦しい都での日常を離れて、しばしのんびりできるという意味合いもあったのでしょうが・・・

Narisnpaimandara650
那智参詣曼荼羅「補陀洛山寺本」(青岸渡寺蔵)

とは言え・・・
この平安時代のブームから、鎌倉→室町、そして江戸時代に入れば伊勢神宮と並んで参拝者が絶えなかった熊野詣も、明治の神仏分離&廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって、周辺の神社の数は激減し、熊野詣の風習もなくなってしまい、もはや、どこに道があったかもわからなくなっていた部分も多くあったのが一時期の現状でした。

しかし、それを有志によって復活させ、現在の熊野古道として整備された関係者の方々の努力には、歴史好きとしては感謝感激・・・今では、世界遺産となって、再び訪れる人も多くなりましたね。

それこそ、災害からの復活も徐々に行われている今日この頃・・・

ところで、この熊野古道の起点が、大阪の八軒屋船着場だったという事をご存じでしょうか?

Dscn7130a800 現在、京阪&市営地下鉄の天満橋駅近くに、起点の石碑が建てられています
(くわしい場所は、本家HP:大阪歴史散歩「中之島」でどうぞ>>)

もちろん、ここらあたりは「熊野古道」とは呼ばれず、その名も「熊野街道」で、世界遺産にも指定されていませんが・・・

そもそも、京都から三十石船で淀川を下り、現在の天満橋付近にあった八軒屋船着場に上陸して、ここから南へ歩いて、ほぼ海岸沿いを田辺まで行き、田辺から東の山奥に向かっていくというのが、陸路のルート・・・

Kumanosannkeidoucc_2
↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストはルートをわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

もちろん、平安時代に三十石船はありませんので、京都からの移動には船の他にも西国街道を行ったりしたわけですが、この起点の場所からは、「○○王子」とつく熊野権現の化身とされる御子神を祀った社が道沿いに点在していて(総称して九十九王子と呼ばれます)、それが参拝者の目印でもあり、旅の安全を祈願する場所でもあったのです。

ちなみに、九十九という数字は「多い」という意味で、実際に数が99社あるという意味では無いです。
また、今回の地図では、王子の中でも格式が高いとされる五躰王子社の5つと出発点に近い阿倍野王子のみを書かせていただきましたが、たとえば、藤白王子と切目王子の間だけでも、25社ほどの王子があります。

一方、海路で詣でる場合もあり・・・
その時は、淀川を下って大坂につき、神崎から再び船に乗って、やはり田辺から上陸するか、さらに紀伊半島をグルッと回って新宮へ・・・というのが、一般的なルートだったとか・・・

ただし、清盛の場合は、本領が伊勢なので、伊勢から海路で熊野詣をした記録も残っていますので、その場合は、東側から新宮へという事なのかも知れませんが、例の平治の乱(12月15日参照>>)の時は陸路だったようです。

ところで、私事で恐縮ですが、1度、この私も熊野街道に挑戦いたしました。

もちろん、最終的には、大阪からのルートを制覇すべく、まずは和歌山の一の宮藤白神社(藤白王子)から、少々の山越えをともなうルートを丸1日歩いてみたわけですが、なんと、その時にデジカメに撮った写真をPCに保存する前に、SDカードを初期化してしまうという大失態をヤラかしてしまい、記念となる写真が1枚も残らず・・・これが、最初の最初だっただけに、テンションだだ下がり&出ばなををくじかれた感満載となってしまい・・・結局、それから、まだ、行けて無いのです(p_q*)

いつか・・・必ず・・・平安時代に思いを馳せながら旅したいと思っておりますが、いつになる事やら・・・
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コメント

茶々さまの悲しい!?思い出~SDカードの初期化とはいやはや…。
私も数年前、安かろうの写真屋さんで現像したばかりに
SDカードがウィルス感染してしまったらしく

その後に撮った家族旅行の大切な写真がどんどん啄ばまれ
時間とともに削除されて涙となりましたよ^^;

「熊野詣」私も是非1度は出掛けてみたいものです。
そして「熊野神社」ご多分に洩れず実家の近くの鎮座していました。懐かしいです^^

投稿: tonton | 2013年1月23日 (水) 19時44分

tontonさん、こんばんは~

思い出の写真が消えてしまうのはショックですよね~

しばらく、間を置いてから、また挑戦してみます。

投稿: 茶々 | 2013年1月24日 (木) 02時01分

茶々さん、こんばんは!

現在、那智勝浦町では観光イベントとして、「あげいん熊野詣」とういうものを毎年10月の最終日曜日に開催してるそうですよ。

総勢90名近くの参加者がかつての時代衣装をそのままに再現し、熊野古道の中でも大門坂から表参道、熊野那智大社、那智山青岸渡寺を経て、那智の滝に至るコースを御幸行列するのだとか-

京都でも大原女まつりなどで行列を組むイベントがありますが、こちらも壮大な感じ!!

投稿: 御堂 | 2013年1月25日 (金) 18時39分

御堂さん、こんばんは~

熊野古道も盛り上がってるんですね~
市女笠をかぶる「つぼ装束」っていう姿ですね。
アレで道を歩くのは、ちと疲れると思いますが…あこがれます~

投稿: 茶々 | 2013年1月25日 (金) 21時23分

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