秀吉の置きみやげ~上杉景勝の会津転封
慶長三年(1598)1月10日、越後の上杉景勝が、豊臣秀吉から会津への転封を命じられました。
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ご存じ、越後の龍(虎とも)と呼ばれた上杉謙信亡き後、後継者争いに撃ち勝って(3月17日参照>>)謙信の後継者となった養子で甥っ子の上杉景勝(うえすぎかげかつ)・・・
しかし、亡き謙信の時代から北陸前線に手を伸ばしていた(9月18日参照>>)織田信長から、その内戦のゴタゴタに乗じて、越中(富山県)における境界線を後退させられてしまっており(9月24日参照>>)、もはや風前の灯(6月3日参照>>)のところを、ラッキーな事に、その信長が本能寺で倒れて命拾い・・・
その後、信長亡き後の戦いに撃ち勝ち、実権を握り始めた羽柴(豊臣)秀吉が、小牧長久手の戦い(8月28日参照>>)の時に徳川家康側についた越中の佐々成政(さっさなりまさ)を征伐する際の出陣要請に賛同した(8月29日参照>>)事から、秀吉配下の石田三成に勧められて上洛・・・(6月14日参照>>)
こうして秀吉の傘下となった景勝は、新発田(しばた)攻め(10月28日参照>>)や佐渡平定(6月12日参照>>)などの国内統一に奔走する一方で、秀吉の小田原攻め(12月10日参照>>)や朝鮮出兵にも参加して(1月26日参照>>)秀吉からの信頼を得、文禄三年(1594年)には清家に準ずる家格を賜り(7月15日の後半部分参照>>)、豊臣姓を名乗る事も許され、慶長二年(1597年)には、家康や毛利輝元らと並ぶ、五大老の1人に名を連ねるまでになります。
ところが、その翌年の慶長三年(1598)1月10日、突然、会津への転封を命じられるのです。
・・・と、突然と書いちゃいましたが、実は、その9年前・・・秀吉政権内で外交交渉を担当していた天徳寺法衍(ほうえん)という僧が、上杉家臣の木戸元斎(げんさい)という人物に宛てた書状が残っており、その中に
「秀吉さんは、奥羽を平定した後は、会津を上杉に与えたいって言うではるから、その事を直江くんにも伝えとってね」
てな事が書かれてあるとか・・・
9年前と言えば、あの小田原征伐の年・・・未だ、東北諸将のうち、誰が秀吉につき、誰が敵対するのかが曖昧な頃ですが、その頃から、「東北の玄関口に上杉を配置したい」という秀吉の構想があったようです。
しかし、なぜか、実際に奥州仕置の後に、会津の守りについたのは蒲生氏郷(がもううじさと)・・・そして、今回、その氏郷が死去した後の蒲生家で後継者を巡ってのお家騒動が起こった事で、蒲生家を宇都宮に移して、その代わりに、その会津92万石に加え、佐渡14万石、出羽庄内14万石を加算された合計120万石で、上杉家が転封する事となったわけです。
石高的には大幅アップとなったこのお引っ越しですが、果たして景勝にとって、うれしかったのやら、どうなのやら・・・
・・・というのも、以前upした、この後に起きる長谷堂の戦いの関係図→を見ていただいてもわかるように、完全に領国が真っ二つ状態となってます。
まして、越後は屈指の米どころ・・・さらに上田銀山(魚沼市)や鳴海金山(村上市)なども手放す事になります。
秀吉にとって、脅威である家康と未だ信用の置けない伊達政宗(だてまさむね)と・・・この両者に挟まれた場所に、お気に入りの直江兼続(なおえかねつぐ)が執政をとる上杉家を置くことは、秀吉にこそ有利であれ、景勝には、あまり歓迎したく無かったかも知れません。
一方、この上杉の会津転報封や、蒲生家の宇都宮報封を仕切ったのが三成である事・・・
また、この時に、秀吉が「兼続に米沢30万石を与えよ」と景勝に直々に告げたとされる事・・・
などから、三成&兼続が共謀して、氏郷を毒殺して(2月27日参照>>)会津を取った?なんてウワサも囁かれています(あくまでウワサです)。
確かに、兼続が30万石となれば、秀吉子飼いの加藤清正=25万石や、未だ20万石の三成自身を越える石高になるわけですが・・・
ただし、鎌倉時代から越後に根づいていた家臣などからは、引っ越しを嫌がる声も多々あり・・・冷静に考えると、デメリットのほうが多いような気がします。
なので、結局は、この会津転封・・・天下人・秀吉から無理難題を押し付けられたとの見方が強いようです。
しかも、この引っ越し・・・
次に越後にやって来る堀秀治(ほりひではる)に大迷惑をかけ、果ては、関ヶ原の前に越後の領民を扇動して(7月22日参照>>)・・・と、秀吉亡き後(秀吉はこの7ヶ月後に死去します)に訪れる関ヶ原・長谷堂に向けて、大きな影響を与えるお引っ越しとなりました。
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