足利尊氏・危機一髪…笛吹峠の戦い
正平七年・文和元年(1352年)閏2月28日、先の小手指原の戦いで決着がつかなった新田義宗と足利尊氏が激突した笛吹峠の戦いがありました。
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とりあえず、おさらいしときますと・・・
鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ・高氏)が反旗をひるがえして京都に攻め込み(6月30日参照>>)、京都にて室町幕府を開いたのが北朝・・・
一方、京都を追われた後醍醐天皇が吉野で開いたのが南朝・・・(12月12日参照>>)
・・・で、ご存じのように、おおむね北朝優位で展開する南北朝時代ですが、そんなこんなの正平五年・観応元年(1350年)の観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>) が起こって、北朝が内部分裂・・・
分裂した弟の直義(ただよし)討伐のために、尊氏が関東に行ってるスキに、これを「チャンス!」と見た、今は亡き後醍醐天皇の皇子=後村上(ごむらかみ)天皇が、京都の留守を守る尊氏の息子=義詮(よしあきらに偽りの和睦を申し出て挙兵・・・(3月24日参照>>)
一方、尊氏のいる関東でも、今は亡き新田義貞(にったよしさだ)の息子である新田義興(よしおき=義貞の次男)、義宗(よしむね=義貞の三男)兄弟が挙兵します。
これを尊氏が迎え撃ったのが、先日ご紹介した正平七年・文和元年(1352年)閏2月20日の武蔵野小手指原(こてさしばら=埼玉県所沢市)の戦い(2月20日参照>>)だったわけですが・・・
そのページに書かせていただいたように、義宗軍が尊氏を蹴散らすものの、別隊の義興らは本隊とはぐれ・・・しかし、決死の覚悟で挑んだ鎌倉攻めで鎌倉公方の足利基氏(もとうじ=尊氏の四男)を敗走させる事に成功し、鎌倉を制圧・・・
一方、義興らの行動を知らない義宗は、逃げた尊氏を深追いする事無く、笛吹峠(ふえふきとうげ=埼玉県比企郡嵐山町)に陣を構えて、はぐれた義興らの到着を待つ事にしました。
その様子を伝え聞いた尊氏・・・
一旦は石浜(東京都台東区あたり?)に撤退するも、即座に態勢を立て直して、すぐさま笛吹峠へ向かいます。
もちろん、そこには尊氏の敗戦を聞いて駆けつけた新手の軍も加わって・・・
一方、その頃には、笛吹峠に陣取った義宗のもとに、宗良親王(むねよししんのう=後醍醐天皇の皇子)を奉じた上杉憲顕(うえすぎのりあき)の軍という強い味方も到着しますが、なんだかんだで義興らの軍とは、未だはぐれたまま・・・
その、未だ準備整わないところに、態勢を立て直した尊氏が襲いかかるのです。
正平七年・文和元年(1352年)閏2月28日・・・笛吹峠に押し寄せた尊氏率いる大軍は、巧みな戦法を駆使して一気に攻めかかり、戦況を優位に進めます。
・・・と、ここに長尾弾正(ながおだんじょう)と根津小次郎(ねづこじろう)という二人の勇士がいました。
ともに上杉憲顕配下の彼らは、分の悪い上杉・新田連合軍を何とか盛り返そうと一策を講じます。
それは、足利軍の兵に変装して、二人だけで敵軍に紛れ込み、「尊氏のみを討ってしまおう」という作戦・・・
二人ともに、その目印を二引両(足利家の家紋)につけ替え、長尾弾正は髪をザンバラにふり乱して顔を隠し、根津小次郎は自らの刀で額を突き指して、その流れる血で人相を変え、討ち取った敵の首を刀の鋩(きっさき)につけての突入・・・
途中、「誰の手勢か?」と怪しまれた時には、「新田一族の大物を仕留めたので、御前で首実検をして確かめてもらいたい!将軍はどこにおられるか~」と、さも「討ち取ったり~!」と言わんばかりに高々と掲げます。
「おめでとう!!」と祝福する兵が「あちらに…」と指さす場所を確認すると、そこは、もはや弓なら完全に射程距離に収めたほどの近い距離・・・二人は、そっと目くばせをし、悠々と近づいて行きました。
尊氏、万事休す・・・
ところが、尊氏の運は、まだ尽きていませんでした。
尊氏の配下の中に、彼ら二人の顔を見知っていた者がいたのです。
「そこ!味方にまぎれて将軍に近づく武士は長尾弾正と根津小次郎や!皆、騙されんな!」
と、大声で叫びました。
すぐさま、尊氏を守るべく、300騎余りが左右から駆け付け、二人と尊氏の間に割って入ります。
こうなれば、もはや計画は遂行できません。
太刀の先で貫いた例の首をその場に投げ捨て、ふり乱した髪をかきあげ、敵陣に突入します。
さすがは名うての勇者二人・・・向って来る者をバッタバッタと斬り倒し、兜も鎧も真っ二つ!!
とは言え、いかんせん、彼らはたった二人・・・あっちこっちから攻められるわ、雨あられのような矢は飛んで来るわで、さすがに、これ以上は何ともできません。
やむなく撤退する二人は、尊氏に向かって
「ホンマ!お前は悪運の強いやっちゃで!」
と、声高らかに捨ゼリフを残して、上杉の陣営に戻っていったのでした。
(…って、この状況で、無事に戻っていける物なのか??)
結局、この日の戦いは、足利優勢のまま日暮れとなるのですが、夜が更けるにつれて、両者の陣営のかがり火が、一つ、また一つと着いていきます。
そう、笛吹峠に陣取る新田軍のかがり火のポツポツ感に比べ、峠を囲むように陣取る足利軍のかがり火は煌々と燃えるばかり・・・
それを見て
「これやったら、明日も、また負け戦か…」
と、気落ちする上杉憲顕・・・
結局、上杉軍はかがり火を捨て、信濃(長野県)へと撤退を開始・・・これを受けた義宗ら新田軍も、早々に越後(新潟県)への撤退を開始しました。
さらに、これらの状況を聞きつけた上総(千葉県中部)・下総(千葉県北部)の武将たちが援軍として駆けつけ、いつしか尊氏の軍は80万騎(太平記の言い分です)に膨れ上がります。
・・・で、この大軍の一報を聞きつけた鎌倉の義興らも、続く3月4日、やむなく、戦わずして鎌倉を放棄する事とし、国府津山(こくふつやま=小田原?)まで撤退し、そこに籠って再起のチャンスを計る事としたのです。
ただし・・・
残念ながら、義興は、この6年後に、合戦ではなく、騙し討ちでこの世を去る事になるのですが、そのお話は【新田義興の怨念?神霊矢口の渡し】のページでどうぞ>>
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