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2013年2月15日 (金)

泉州堺事件~土佐藩兵のフランス兵殺傷

 

慶応四年(1868年)2月15日、土佐藩士によるフランス水兵殺傷事件・・・世に言う泉州堺事件が起こりました。

・・・・・・・・

時は幕末・・・

ペリー来航に始まった、開国か攘夷(じょうい=外国を排除)かの嵐は、紆余曲折を経た後(くわしくは【幕末・維新の年表】で>>)、同盟を結んだ薩摩長州(1月21日参照>>)によって倒幕へと向かっていきます。

その薩長の勢いを回避するため、江戸幕府・15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還(たいせいほうかん)(10月14日参照>>)を決行したのが慶応三年(1867年)10月14日の事・・・

しかし、何が何でも幕府を倒したい薩長は、その日のうちに朝廷から討幕の密勅(みっちょく)(10月13日参照>>)を受け、12月9日には大政復古の大号令を発します(12月9日参照>>)

それでもまだ、衝突を回避しようと思っていた将軍・慶喜でしたが、12月25日、江戸市中にてテロ行為を行っていた薩摩藩に対しての藩邸襲撃事件が勃発し(12月25日参照>>)、やむなく、薩摩討伐の許しを朝廷に得るため、年が明けた1月2日、幕府役人が京都へ向かいます。

この幕府の行列を、京都に入れるまいと鳥羽街道と伏見街道で待ち構えていた薩長軍が阻止・・・こうして始まったのが鳥羽伏見の戦いです(1月3日参照>>)

続く1月5日には、薩長軍が錦の御旗を掲げて官軍である事を明白にして幕府軍に勝利を収めた事で(1月5日参照>>)、敗戦を知った慶喜が、単身、大坂城を脱出して(1月6日参照>>)江戸へと戻ったため、1月9日には大坂城が開城されて(1月9日参照>>)鳥羽伏見の戦いは終結・・・

官軍となった薩長軍は、この勢いのまま東(江戸)方面へ向かって行く事になりますが、ここからの戦いは、一般的に戊辰戦争と呼ばれます。

・・・と、こうして戦闘の主力部隊は、東へ移動するわけですが、ここで、京都や大阪の幕府軍が負けた・・・という事は、当然、それまで、その場所の治安などを引き受けていた幕府の侍たちもいなくなるわけで・・・

新しく、その場所の治安維持に務めなければならないのは、官軍側の人たちという事になりますが、ここに絡んで来るのが、すでに日本にやって来ている外国の軍隊です。

ご存じのように、すでに幕府が開国をして、開かれた港には外国の軍隊もいて、官軍の中心となる薩長も薩英戦争(7月4日参照>>)下関戦争(5月10日参照>>)の経験から、外国を受け入れる体制だったわけですが、なんだかんだ言っても、官軍側の人たちは、ほんの1~2年前までは、尊王攘夷を叫んでいた人たちばかりですから・・・

未だ、外国人を敬遠する気持ちも残ったまま・・・

そんなこんなの1月11日・・・土佐藩の箕浦猪之吉(みのうらいのきち)率いる土佐藩八番隊は、かの大坂城落城によって奉行所の同心たちが逃亡してしまって無政府状態となっていた堺の警護を任される事になります。

実は、この1月11日という日・・・この後の堺事件を予感させるようなアメリカ兵射殺事件=神戸事件が起こっています(1月11日参照>>)

聞くところによれば、箕浦は、この神戸事件の事を1月16日には聞いて知っていたと言いますが、それが、彼に影響をあたえたのか否か、とにかく、事件は慶応四年(1868年)2月15日に起こります。

この日の朝、駐兵庫フランス副領事らを迎えるために、堺港に入っていた、フランス海軍のコルベット艦・デュプレクスは、午後になって、湾内の測量を行っていましたが、午後3時頃になって、士官以下数十名のフランス水兵が上陸して堺市内を徘徊したのです。

夕方、この知らせを受けた箕浦ら土佐藩八番隊と六番隊警備隊長・西村佐平次らは、フランス水兵たちに帰艦するよう説得しようとしますが、何せ言葉が通じないわけで・・・

なんやかんやモメながらも、言う事をきかない水兵らを、とりあえずは連行しようとする箕浦らに対して、フランス兵側が、そこにあった藩旗をぶっ倒して逃走しようとしたため、
箕浦は発砲を命令・・・

ある者は射殺され、ある者は海に落ちて溺死し、結果的に11名のフランス兵が亡くなると言う事件になってしまったのです。

即刻、事件に関わった面々は大阪の土佐藩邸に戻され、フランスの要求通りに遺体をすぐに引き渡した新政府ですが、問題はここから・・・

もちろん、自国の兵を殺されたフランスも黙ってはいられませんから。

フランス公使・ロッシュ
事件に関わった者を斬刑に処する事
賠償金の要求に応じる事
土佐藩主が直接フランス軍艦まできて謝罪する事
など5箇条からなる要求を日本側に提示しました。

冒頭に書いた通り、この時、すでに軍の主流は東へと移動していて、畿内は何かと手薄・・・万が一フランス側とモメるような事になれば、戦力では到底勝ちめはありませんから、新政府代表で交渉役となった東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)も、ほぼ、フランス側の要求を飲むしかありませんでした。

ただし、事件に関わった者全員を処分するとなると、世論の反感をかい、未だ冷めやらぬ攘夷論が再び燃え上がるとの事から、これだけは、箕浦以下、大きく関与した者20名を切腹させる事で話をまとめたのでした。

かくして2月23日、堺の妙国寺にて、刑が執行されます。

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妙国寺(大阪・堺市)

この時、次々と切腹する藩士たちは、居並ぶフランス人たちに、自らの内臓を投げつけたと言われています。

その光景を見ていたフランス軍艦長・トゥアールは、フランス側の被害者と同じ、11人が切腹したところで中止を要求・・・結局、残りの9名は助命されました。

これには、
その切腹の光景があまりにも惨かったから・・・
あるいは、この状態では、
逆に彼らが英雄扱いされると判断したから・・・
また、
夕暮が迫って来たため、夜になって自分たちが帰る時の危険を考えて・・・
など、様々に言われますが、結局は、事件そのものよりも、彼らの処刑に注目が集まってしまった事は否めません。

あの(もりおうがい)『堺事件と題した小説を大正時代に発表していますが、やはり、処刑を受けた側の立場に立って、その理不尽さを語っているようです。

もちろん、これは小説なので、創作が含まれているわけですが・・・

とは言え、現在の研究では、フランス側が、この日、湾内の測量をしていたのは、前月に起こったアメリカ軍のボート転覆事故で乗組員が溺死した事を受けての調査測量で、上陸する事も事前に届け出ていたという話もあり、そうなると、冷静に見た場合、完全に日本側の連絡ミスという事にもなるわけで・・・

亡くなった方々の最期が壮絶なだけに、様々に解釈される堺事件・・・またまた、幕末維新の動乱に散った人々を思うばかりです。
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コメント

この話,全く知りませんでした。機会があれば,森鷗外(もりおうがい)の『堺事件』と題した小説を読んでみたいです。それにしても,切腹しながら,自らの腹ワタを投げ込むなんてすごすぎる…。

別の話になりますが,「何が何でも幕府を倒したい薩長は、その日のうちに朝廷から討幕の密勅(みっちょく)(10月13日参照>>)を受け」…これは本ブログでも別のところで取り扱われているかも知れませんが…。

かなり高い確率で,と言うか完全な「偽勅」ですね。薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視などが,かかわっているでしょう。
所謂朝廷工作ですね。

ちゃんと私も調べればよいのですが,時間の関係で…。すみません。

通称「倒幕の密勅」と呼ばれているこの「文章」は,宛名が確か,薩摩藩“国父”島津久光とその実子の藩主忠義です。(島津ではなく,「源」姓で書かれています。)そして,差出人は,忘れました…。もちろん藤原性を名乗る2名だったと思います。3名だったかな…?

通常このような「天皇の意思」(勅)は,まずは,差出人の氏名は自筆で書かれるのが通常ではなかろうかと思われます。

しかし,その「倒幕の密勅」最初から最後まで同一人物が書いたのは明らかです。素人が見ても筆跡が同じ…。

こんなふうにして,歴史は流れていく…。

これに対して,鹿児島県人である私は,「今となっては昔」のことではありますが,何か考え込んでしまいます。

投稿: 鹿児島のタク | 2013年2月18日 (月) 07時55分

付け加え

「倒幕の密勅」の署名は,いずれも廷臣である中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の3人でした。

投稿: 鹿児島のタク | 2013年2月18日 (月) 08時34分

鹿児島のタクさん、こんにちは~

はい、
討幕の密勅については、本文で参照のリンクをさせていただいた10月13日のページ>>でくわしく書かせていただいております。
もちろん、岩倉具視の事も…

また、お時間がある時に読んでいただければ幸いです。

投稿: 茶々 | 2013年2月18日 (月) 15時41分

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