長屋王の邸宅跡の木簡発見で…
天平元年(神亀六年・729年)2月12日、時の左大臣であった長屋王が自害に追い込まれた長屋王の変がありました。
・・・・・・・・・・
長屋王(ながやのおう・ながやのおおきみ)は、大化の改新(6月12日参照>>)を行った天智(てんじ)天皇亡き後の後継者争いである壬申の乱(7月23日参照>>)に勝利して政権を握った天武(てんむ)天皇(2月25日参照>>)の孫・・・
その後、天武天皇の遺志を引き継いだ奥さんの持統(じとう)天皇が、日本初の本格的な都=藤原京を誕生させ(12月6日参照>>)、日本は、皇族による中央集権の律令国家への道を歩み始めるわけですが、
その後、藤原京から平城京へと都が遷る頃(2月15日参照>>)には、天皇の親政というよりは、あの藤原不比等(ふじわらのふひと)(8月3日参照>>)以来、強大な力をつけて来た藤原氏による政治へと移行していく中、皇族の一人として孤軍奮闘するのが長屋王・・・
という事で、藤原氏にハメられた悲劇の王としての印象が強いのですが、一方では長屋王が仏教よりも、神仙思想を重視しており、力をつけて来た仏教界から煙たがられていた・・・なんて話もあり、その抗争は少々複雑なようですが、
とりあえずは、5年も前のページではありますが、長屋王の変については2008年2月12日>>に書かせていただいてますので、そちらでご覧いただくとして、本日は、もう一つ・・・長屋王を一躍有名にした、アノ事について・・・
・‥…━━━☆
それは、昭和六十一年(1986年)から始まった奈良市内の二条大路の南側での発掘調査・・・
ここは、当時、そごう百貨店の建設予定地だったわけですが、当然、どこに何が埋まってるかわからない奈良という土地柄、その建設前に、奈良文化財研究所による調査が行われたわけです。
そんな中、掘っ立て柱が見つかり、堀が見つかり・・・どうやら、ここには、あの甲子園球場の1,5倍にあたる約60000㎡もの広大な敷地を持つ大邸宅があった事がわかって来ます。
宮殿に近い一等地に、このような大邸宅を構える人物・・・それは、藤原武智麻呂(むちまろ=不比等の長男・南家祖)か、橘諸兄(たちばなのもろえ・葛城王=橘三千代の息子)(11月11日参照>>)か、舎人親王(とねりしんのう=天武天皇の皇子)(11月14日参照>>)か・・・と、様々な憶測と期待が渦巻いていたわけですが・・・
そんなこんなの昭和六十三年(1988年)1月13日・・・『長屋王の邸宅跡で名前入りの木簡が出土!』の見出しが新聞紙面を飾りました。
この遺跡が、長屋王の邸宅跡であった事がわかった瞬間でした。
平城京の図:
ちなみに、現在の法華寺が藤原不比等の邸宅跡とされています
しかも、この発見が、その屋敷の主である長屋王を一躍有名にするほどの大発見だったのは、名前入り以外にも、合計5万点を越える大量の木簡が出土した事・・・その内容を解読する事によって、未だよくわからなかった奈良時代の人々の、ごくごく普通の日常が解明されていく事になるのです。
ところで・・・
最初に見つかった木簡に記されていたのは
「長屋親王宮鮑大贄十編」
という文字・・・
これは「大贄」=長屋王の宮殿に「貢物として10編のアワビを送りましたよ」という、平城京宅配便の送り状なのですね。
こんなのが5万ですよ!
ちなみに、親王というのは、ご存じの通り、「天皇の皇子で、この先、皇位につく可能性のある人」を称する表示なので、本来、天皇になっていない高市皇子(たけちのみこ)の息子である長屋王を長屋親王と称する事は無いわけですが、母親の身分は低いものの、高市皇子は天武天皇の長男ですし、長屋王もその長男・・・
なので、実際に親王と称されていたのではなく、その大きな権力に対して敬意を表する意味で「親王」と書いたのであろうという事だそうです。
実際に親王に準ずるような地位にいたわけですし・・・平たく言うなら、バーのホステスさんが、一般サラリーマンのお客さんに「社長さん」って言ったり、商売人がお店の主人を「大将」って呼ぶみたいな物??(←これは大阪だけかも)
とにかく、以来、5万点に及ぶ木簡は、様々な事を教えてくれ、以前、チョコッと書かせていただいた奈良時代の食生活が意外にグルメだった事(5月31日参照>>)もわかるわけで・・・
さらに、その長屋王邸に使用人が何人いたやら、複数の奥さんの生活様式やらも垣間見え、また、その邸宅には、私的な空間だけでなく、家政を取り仕切る執務機関や税を管理する税務署的な場所もあった事もわかっているのだとか・・・
まぁ、細かな事は、おいおい・・・それこそ、私自身も、イロイロと調べながら、順次ご紹介させていただけたらと思っておりますが、とりあえず、その中で、個人的に興味を持ったのは、「長屋王が犬を飼っていた」という事・・・
それも、数の多さや1頭あたりの餌の量からみて、「猟犬」だった可能性が高いのだとか・・・ついつい奈良時代の装束で狩りをする姿を想像してしまいます~
しかも、その餌に米の飯を与えていたらしい事も・・・
この時代の庶民がアワやヒエのような雑穀が主食だった事を考えれば、飼ってる犬にご飯を与えるなど、ちょっと贅沢三昧な気がしないでもなく、ますます長屋王への気の毒感が薄れてしまう今日この頃ですが、まぁ、国のトップクラスとなれば、そんなもんかも知れませんね。
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コメント
こんにちは。前回の記事にコメント書いていたら「いいね」する暇もなく更新されていたので、ちょっとビックリです(汗)。
>当時、そごう百貨店の建設予定地だったわけですが
確か遺跡保存の機運があったにも関わらす、建設を強行したように記憶しています。…で、その後百貨店が潰れたと風の便りに聞いて、「長屋王の祟りでは」とひそかに思ったものです。(^-^;
投稿: 高来郡司 | 2013年2月12日 (火) 19時58分
高来郡司さん、こんばんは~
アハッ!すんません。
始めは、このページの最後に7周年の挨拶文を書いていたのですが、途中で、「分けた方が良いかな?」と思い、ページを分けてから、先に挨拶文をupしました。
>長屋王の祟り
そうですね~
なんか、モメてましたね~
そごうも盛況な頃は何度か行きましたが、今はどうなっているのやら…
投稿: 茶々 | 2013年2月12日 (火) 20時13分
茶々さん、こんばんは!
長屋王邸宅跡―
当時、ちょうど「平城京展」が奈良→京都→東京と巡回展示中で、友人らと京都国立博物館に展覧しに行ったのですが、この「長屋親王」の木簡に関しては、奈良及び京都では図録が完成した後だったので掲載されていなかたんですね。(その後、東京に巡回した際は付録という形でこれらの木簡類が掲載されたというので、今でも古本屋で出回っていないか、探索中です!(確立少ないでしょうけどね…)
「長屋親王」の木簡で発掘で長屋王の立場が注目されますが、この時代(古代~中世)って女系相続が主体なので藤原四子にとっての邪魔者は長屋王その人ではなく、その奥さんであった吉備内親王と吉備内親王が生んだ子供たちの抹殺が主目的だった感じ…
>長屋王の祟り
ありましたね!建設工事中も事故ったり、オープンして奇怪な出来事が続いたのですぐに撤退したのを憶えてますよ。
投稿: 御堂 | 2013年2月12日 (火) 22時10分
御堂さん、こんばんは~
>女系相続が主体
確かにそうですね~
ただ、皇族だけは男系男子だったような気がしないでもないのですが…
とにもかくにも、この後は藤原の天下になってしまったような感じですね。
投稿: 茶々 | 2013年2月13日 (水) 02時17分
茶々さま、
今回も胸のワクワクするような記事のアップありがとうございます。日本史に興味を持つようになったのはここ一年くらいのことなのですが、毎日このブログの更新を楽しみにしています。これからも頑張ってくださいね(o^-^o)
投稿: ハム子 | 2013年2月13日 (水) 12時36分
「奈良時代の装束で狩りをする姿を想像してしまいます~」
ヨーロッパで狩猟と言えば馬
日本の奈良時代の狩は、馬だったのか…?
それとも「徒歩」だったのか…?
こんな事、想像するだけで、楽しいね
投稿: 夏原の爺い | 2013年2月13日 (水) 18時16分
ハム子さん、こんばんは~
励みになるお言葉…ありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2013年2月14日 (木) 03時15分
夏原の爺いさん、こんばんは~
昔、絵本で呼んだ額田王と大海人皇子の蒲生野でのくだりの挿絵で、大海人皇子が馬に乗っていたのが忘れられず、私は、狩りと言えば、つい、馬を想像してしまいますが、本当はどうだったんでしょうね~
投稿: 茶々 | 2013年2月14日 (木) 03時18分
タイトルとは関係ないけれど
やっぱり気になるのでお伺いです。
「天智天皇」普通に読むなら「てんち…」と読むし
今までそう信じてきていたのですが
最近目にする読み方は「てんじ…」なんですよね。
どちらでもよいように書かれているものもありますが
正直私は??なんです^^;
そうなるとやっぱりここは茶々さまにお聞きするしかない!!です^^
投稿: tonton | 2013年2月14日 (木) 19時18分
こんばんは^^
長屋王の邸宅跡・・長屋王の祟り・・
なにやらゾクゾクとしてくるわ→ 懐かしや後白河さんのセリフ(笑)
平城宮跡には、近鉄電車が優雅に走ってますね。
ここを、どこだとお思いで?
奈良は、いいです。大好きです^^
投稿: 真田丸 | 2013年2月14日 (木) 23時29分
tontonさん、こんばんは~
実は私も…学校で習った時は「てんち」だったはずなのに、いつの間に??と思ってるクチです(笑)
ただ、最近の歴史ドキュメンタリーなので「てんじ」と発音されているうえに、PCで変換する時に、「てんちてんのう」だと「天地」が出て来ますが、「てんじ」だと1発で「天智」と変換されるので、最近はそうなのかな?と、そのようなふりがなにさせていただいてます。
(なんせ、学校出てから年数経ってますので…)
…で、そもそも古文書などの文献にはフリガナがうってませんから、はっきり言って「わからない」というのが本当のところでしょう。
浅井長政の「浅井」も、その時々に注目されている専門家や第1人者と呼ばれる方の意見に左右されて「あさい」になったり「あざい」になったりしてます(ここ10年くらいは「あざい」が主流です)
これには、方言が関係しているのではないか?と私は思っているのですが、その事はいずれ本文に書きたいと思っていましたので、ご質問キッカケで近々、考えをまとめてupさせていただきます。
ここで、書くと長くなりそうなので、申し訳ないですが…必ず、近々書きますので…m(_ _)m
投稿: 茶々 | 2013年2月15日 (金) 03時19分
真田丸さん、こんばんは~
>懐かしや後白河さんの…
ありましたね~
実際の後白河さんは、本気で崇徳さんの怨霊にビビッてたような気がしますが…
私も、奈良、好きです。
近鉄電車を通す頃は、あそこはまだまだ田んぼでしたからね~
今じゃ真っ二つになっちゃってますが…
投稿: 茶々 | 2013年2月15日 (金) 03時25分
光明 聖武天皇の皇太子時代に結婚し、養老2年(718年)、阿倍内親王を出産。神亀4年(727年)、基王を生む。神亀5年(728年)、皇太子に立てられた基王が夭折、長屋王を排除、天平元年(729年)に皇后の詔。娘である阿倍内親王の立太子、孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(749年))後、孫の即位を待った。藤原氏の基盤確立、皇后宮職を紫微中台(しびちゅうだい)と改称し、甥の藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。天平勝宝8年(756年)、夫の聖武太上天皇が崩御。その2年後には皇太后号が贈られた。この流れを見ますと、持統はこれを正当化するための、この反映として作られたのではないでしょうか。
投稿: isiyama | 2013年4月11日 (木) 07時24分
isiyamaさん、こんにちは~
「天武天皇を正統な後継者とするために神武天皇を作り上げ、天照大神を崇拝した?」のと、同じ感覚という事でしょうか…
投稿: 茶々 | 2013年4月11日 (木) 14時47分
またまたすみません。光明が排除した長屋親王の邸宅跡に住み、そのうえに長屋親王を聖徳太子創作のモデルにしたと気が付きました。唐招提寺の鑑真が長屋親王がいるヤマトにどうしても行きたいといって来たと知りましたので。
投稿: isiyama | 2013年4月13日 (土) 23時26分
isiyamaさん、こんばんは~
確かに、長屋王は聖徳太子のモデル候補の一人に上がってますね。
投稿: 茶々 | 2013年4月14日 (日) 01時38分