エリートコースを捨てて…信西の孫・貞慶
建久三年(1192年)2月8日、法然らを批判した『興福寺奏状』で知られる鎌倉時代の僧・貞慶が、隠遁生活を願い出ました。
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昨年の大河ドラマ「平清盛」での阿部サダヲさんの名演技のおかげもあって、一躍、時の人となった信西(しんぜい)入道・・・
本日の主役である貞慶(じょうけい)は、その信西の孫にあたります。
ドラマでも描かれていたように、信西は、もともと高階通憲(たかしなみちのり)と名乗っていた藤原一族の人・・・なので、貞慶も藤原氏という貴族の人だったわけですが、
ご存じのように、平治元年(1159年)の暮れに勃発した、あの平治の乱で信西は首をはねられ都大路に晒され(12月15日参照>>)・・・当然その息子である貞慶の父=藤原貞憲(さだのり)も配流に処せられました。
この時、貞慶・・・わずか5歳・・・
何もわからぬままの生家の没落・・・幼い貞慶には、当時、興福寺の住職であった叔父の覚憲(かくけん)を頼るより他に道はなく、そのまま興福寺へと入り、11歳の時に出家して東大寺戒壇院で受戒・・・以後、僧侶として生きて行く事になります。
しかし、この貞慶・・・祖父=信西の比類なき頭脳を、そのまま引き継いでおりました。
法律を学び、万巻の書物を読み・・・それこそ、ジッチャンに負けず劣らずの勉強家で、しかも、得た知識を見事に使いこなす能力も兼ね備えていましたから、またたく間に当代きっての学問僧と噂されるほどに、その頭角を現していきます。
やがて、、大法会などにも奉仕し、後鳥羽(ごとば)天皇や、時の権力者=九条兼実(かねざね)らの信頼を一身に受けるようになりますが・・・
そんなこんなの建久三年(1192年)2月8日、いきなり兼実のもとを訪ねた貞慶は、
「興福寺を去って笠置山に隠遁(いんとん)したいのです」
と願い出たのです。
何のつまづきもなく、見事に学問僧としてのエリートコースを歩み続けていた彼の突然の願い出に、戸惑う兼実は、当然、引きとめますが、貞慶の決意は固く、翌年、弥勒菩薩の信仰篤き笠置寺にて隠遁生活を開始したのです。
兼実の日記には、
「仏教界の損失…非常に悲しむべき事」
とあり、ものすごく残念がっていた事がうかがえます。
彼が興福寺を出た理由には、
「春日神の夢のお告げがあった」とか、
「僧たちの堕落を嫌って…」とか、
「騒がしい奈良を離れたかった」とか、
様々にあるようですが、この後の活躍ぶりを見るならば、「官からの離脱」というのも大きな理由であった事でしょう。
実は、当時の、興福寺や東大寺や延暦寺の僧というのは、言わば官僚でもあったのです。
国家が認めた、あるいは国家推し進める仏教に奉仕する立場の僧ですから、出世を望むなら公家の仏事などへの尽力を欠かさず行い、学問僧として認められたければ、勉強に勉強を重ねて、談義や論義で相手に勝ってさえいれば、その地位は国家に守られて、順風満帆なわけですが、
それは、逆に考えれば、国家が認めない事はやってはいけない事になるわけで・・・
たとえば、貞慶は、隠遁後の承元三年(1209年)に、奈良の北山非人に代わって曼陀羅堂の再興を願う願文を書いて提出していますが、非人とは、それこそ文字通りの「人に非(あら)ず」という事ですから、国が人と認めていない彼らを手助けする事は、官の立場の僧にはできない事になるわけです。
一般的な救済活動もそうです。
「病に苦しむ人たちを助けたい」
と思っても、そのような人たちの多くは、一般から忌み嫌われる最下層の身分の人たちですから、官の立場では、彼らに接触する事はできないのです。
また、辻説法など、道端で庶民を集めて法を説く事も、国家の僧には許されなかった事でしょう。
「いずれ、仏教界の頂点に立つであろう」
という周囲の期待を裏切って、
約束されたエリートコースを捨てて、
それでも貞慶がやりたかったのは、何者にも縛られない、自らの思い通りの仏の道では無かったか?と思います。
革新的で新しい鎌倉時代の仏教と言えば、法然(ほうねん)(2月18日参照>>)や親鸞(しんらん)(11月20日参照>>)に注目が集まり、彼らを批判して流罪に追いやる立場にあった貞慶には、保守的な僧として、なかなかスポットが当たる事がありませんが、
それこそ、
法然や親鸞の、「念仏を唱えた者だけが救われる」という思想が、貞慶の思想と相反する物であったから、反対の立場で『興福寺奏状』を起草して、専修念仏の停止を求めたのあって、
貞慶は、決して保守的な人では無く、むしろ革新的・・・彼もまた、鎌倉時代の新しい仏教を求めた人であったのかも知れません。
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