源平・一の谷~生田の森の激戦
寿永三年(1184年)2月7日、源平の合戦の中でも特に有名な一の谷の合戦がありました。
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このブログでは、一の谷の戦いについて、すでに、3度書かせていただいております。
いずれも、名場面と言われる部分なので、つい先にご紹介させていただきましたが、実は、それらの名場面の部分は、言わば戦いの後半部分・・・どちらかと言うと雌雄が決する頃のお話です。
なので、話が前後して恐縮ですが、本日は、その前半部分=生田の森での逸話を中心にご紹介させていただきたいと思います。
(本文の最後に、それらの名場面へのリンクを設置してますので、まずは前半戦のお話を…)
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前年の寿永二年(1183年)、北陸での勝ち戦の勢いのまま上洛する木曽義仲(よしなか=源義仲)の軍に京を追われて(7月25日参照>>)、一旦は、四国の屋島に陣取っていた平家一門でしたが(10月1日参照>>)、その義仲と源頼朝(みなもとのよりとも)が源氏のトップ争いでモメてる間に態勢を立て直し、かつて、あの平清盛(たいらのきよもり)が一時の都を構えた福原(現在の神戸)(11月26日参照>>)へと落ち着いておりました。
一方、明けて寿永三年(1184年)の正月早々に、琵琶湖畔の粟津でその義仲を討ち取った(1月20日参照>>)頼朝の弟=源義経(よしつね)は、1月29日、兄の源範頼(のりより)とともに京を発ち、いよいよ平家軍に迫ります。
この時、彼ら源氏を迎え撃つべく、平家が福原を中心に築いていた城郭は、東は生田の森(現在の生田神社付近)、西は一の谷にまたがる場所で、北には崖の如き険しい山があり、南には海が迫るという、言わば天然の要害・・・
そこに、わずかに行き来できる東西に堀や土塁、柵などを構築して騎馬武者の進路阻むという造りで、特に、西の一の谷側では、山の麓から遠浅の海の中にまで大石を積み上げての防御態勢をとっていたと言います。
さらに、東の大手(正面=生田の森)には平知盛(とももり=清盛の四男)と平重衡(しげひら=清盛の五男)、西の搦め手(からめて=一の谷)には平忠度(ただのり=清盛の弟)、福原に通じる山の手には平通盛(みちもり=清盛の甥)を配置・・・さらに、山中の丹波路の三草山付近には平資盛(すけもり=清盛の孫)を向かわせる万全の態勢。
しかも、一門トップの平宗盛(むねもり=清盛の三男)と建礼門徳子(けんれいもんいんとくこ=清盛の娘で安徳天皇の母)と安徳(あんとく)天皇は、すでに船にて海上に退避という徹底ぶりでした。
一方、攻める源氏は、範頼軍が山陽道を通って東の大手の生田の森へ、義経軍が丹波路から山中を迂回して西へと回り、搦め手の一の谷へと2手に分かれての挟み撃ち作戦を決行します。
2月5日夜・・・早くも鉄壁の一つが破られます。
丹波路を行く義経軍が、内通者に命じて、合戦は翌日との判断をしていた資盛の陣に火をかけさせ、そのドサクサで三草山を突破したのです。
もちろん、この一報を聞いた平家軍は、東西の城戸を更に固めるわけですが、ここで義経は密かに自軍を2手に分け、土肥実平(どひさねひら)に7000の兵をつけて、そのまま一の谷に向かわせ、自らは3000を率いて別の道を・・・そう、これが、ご存じ鵯越(ひよどりごえ)なのですが、そのページにも書かせていただいたように、義経の通ったコースは、あくまで伝承で、実際にはよくわかっていないのですが・・・(鵯越逆落としのページへのリンクは本文の最後あたりにあります)
かくして迎えた寿永三年(1184年)2月7日・・・運命の夜明けを迎えます。
合戦の火蓋が切られたのは西の城戸=一の谷でした。
一番乗りを狙う熊谷直実(くまがいなおざね)は、息子とともに、密かに他者を抜け駆け・・・未だ静まり返った西の城戸に向かって大声で名乗りを挙げますが、わずかの兵数と見切った平家側の反応は無し・・・
しかし、そこに、やはり1番乗りを狙う平山季重(ひらやますえひら)らが到着して名乗りを挙げると、平家側も黙ってはおれず、24騎の武者が踊り出て、両者入り乱れての戦場となりました。
そうこうしているうちに、かの土肥実平の7000の本隊が到着して怒涛の如く押し寄せ、一の谷は本格的な合戦に突入します。
一方、その間に大手の生田の森でも合戦が開始されます。
寄せる源氏は5万騎・・・と、その中に、武蔵の国の住人である河原高直(たかのう)&盛直(もりのう)という兄弟がいました。
戦いが始まろうとする頃、兄の高直は弟・盛直に、その決意を語ります。
「大物の武将は、自分から率先した戦わんでも、部下が手柄を立てたら、それが大将の功名となるけど、俺らみたいな下っ端は、自分で敵の首を取らん限り、功名にはありつけん。
このまま、後方で矢の1本も射らんままではアカンさかいに、これから敵の中深く入り込んで、ひと矢撃ってこようと思う…けど、そうしたら、おそらく命は無いやろから、お前は、ここに残って、俺の武功の証人になってくれ!」
と・・・
すると盛直・・・
「兄弟のうちで、兄貴が討たれて、俺だけが生き残っても、なにも残らへんがな!
俺も行く!
どうせなら、同じところで討死しようぜ!」
お互いの心意気を感じた二人は、わずかにいる配下の者に向かって、故郷で待つ妻子たちに、最期の勇姿を伝えるようにと言い残し、馬にも乗らず、その足で、二人して平家の構築した柵を乗り越え、敵陣へと入ったのです。
「武蔵の国の住人、河原太郎私市(きさいち)高直、同じく次郎盛直…生田の森の先陣ぞや!」
と、高らかに名乗りを挙げる兄弟ですが、なんたって、たった二人・・・
構える平家側は、たった二人で乗り込んで来た彼らに、関東武者の勇気を感じるものの、たかが二人で何ができるものかと、ただ、見守るばかり・・・
ところが、この河原兄弟は、比類なきほどの弓の名手・・・次から次へと放つ矢が、危ない場所を攻撃してきます。
こうなったら平家軍も黙ってはおられません。
こちらも西国一の弓の名手とうたわれた備中の住人=真名辺(まなべ)五郎が得意の弓を射かけ、見事、それが高直の胸板を撃ち抜きます。
身動きがとれなくなった兄に、慌てて弟が駆けよって肩に担ぎあげ、再び柵を乗り越えて戻ろうとしますが、そこをすかさず真名辺の2本目の矢が弟・盛直の胴を貫きました。
哀れその場で倒れた二人は、駆け寄った平家の兵士によって、その首を取られます。
この光景を見ていた大将=知盛は
「敵ながらあっぱれな勇気…彼らこそ一騎当千のツワモノや!惜しんでも余りある!」
と褒めたたえますが、この兄弟の死の一報に、怒りをあらわにしたのが梶原景時(かじわらかげとき)・・・
「河原兄弟を死なせてしもたんは、指揮をとる俺らが不甲斐ないからや!
今こそ、一気に攻める時やぞ!」
との景時のゲキに、一斉に城中に攻め入る源氏軍・・・
と、その先頭をただ一人で駆けていくのは、自らの次男=梶原景高(かげたか)・・・
慌てて景時は
「ただ一人で先駆けする者には褒美は無いぞ!
後方の兵の勢いを見ながら進め!」
と指示します。
しかし景高は
♪もののふの とりつたへたる あづさ弓
引いては人の かへるものかは ♪
との一首を詠んで、敵陣深く突っ込んで行ったのです。
戦場とは言え、さすがに親としての心配が先立ち
「平次(景高の事)を討たすな!」
と叫びながら、長男の景季(かげすえ)、三男の景茂(かげもち)とともに、敵の中へ・・・
しかし、このドサクサで、今度は長男の景季の姿を見失います。
しかも、そばにいた郎党の話では「すでに討死した」と・・・
さすがの景時も、その思い抑える事ができず、
「俺らが戦場で奮戦するのも、子供の事を思えばこそや!
子供を討たせて、父親が生き残ったってどぉもならへんがな!」
とばかりに、大声で敵陣に向かって名乗ります。
「我こそは、鎌倉権五郎景正の末孫、梶原平三景時…東国に聞こえし一騎当千の兵なり!我と思わん者は見参せぃ!」
平家にも、その名聞こえし梶原景時・・・その首取れば、このうえない褒美に預かれるとばかりに、無数の兵が景時を取り囲みますが、それらを蹴散らしつつ、さらに敵陣の奥へと進む景時・・・
「源太(景季の事)はいずこ」
と、声を挙げながら、さらに置くへと進むうち、5人の兵に囲まれ、岩壁に追い詰められている我が子=景季を見つけます。
すぐさま駆けつけ
「ええか、源太、父はここにおる!死んでも敵に背中を見せるな」
と励ましながら、父子で協力して、周囲の兵を討ち果たす二人・・・
「弓矢取りっちゅーもんは、進む時も退く時もタイミングを見計らうもんや!
1騎で勝手な行動をする物やない…さぁ、来い!」
と、我が子をひき抱えて、城外に引き返しました。
この時の景時の戦いぶりは「梶原の二度懸け」と呼ばれ、能『箙(えびら)』の題材となりました。
ちなみに、この時、景季は、箙に梅の花を指して奮戦していたとの事で、その手折った梅が、現在も生田神社の境内にあり、
『箙の梅』と呼ばれているとか・・・ロマンやなぁ(*゚ー゚*)
・・・と、こうして、激戦が繰り広げられた生田の森&一の谷ですが、この流れが変わるのが、例の義経の『鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし』(2008年2月7日参照>>)・・・
まさかと思った崖からの攻撃に、平家の本営は大混乱となり、一の谷の大将=平忠度が討死し(2009年2月7日参照>>)、平重衡が生捕られ(6月23日参照>>)、さらにあの「青葉の笛」で知られる敦盛(あつもり=清盛の甥)の最期(2007年2月7日参照>>)・・・となるのですが、
続きのお話は、それぞれのページでどうぞm(_ _)m
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コメント
私は平家物語が大好きなのですが、ほんとに名場面が多くて、ロマンに満ちてますよね~。
梶原景時はちょっと嫌われ者なイメージでしたが、今回のお話ではそうでもないような…。
気になる人物ではあります。
投稿: りんどう | 2013年2月10日 (日) 00時26分
りんどうさん、こんばんは~
そうですね~
やはり日本人は判官びいきですし、ドラマでも義経が主役ですから、敵対する景時は、イジワルな役どころになってしまいますが、冷静に、ちょっと離れたところから観察する感じで見てみると、意外と、景時の言い分の方が正論だったりするんですよね。
投稿: 茶々 | 2013年2月10日 (日) 02時29分
関西弁で坂東武者を表現された物語、とても面白く読ませていただきました。梶原一族の史跡巡り、勉強の一助になりました。ありがとうございます。
投稿: | 2014年5月30日 (金) 11時00分
コメント、ありがとうございます。。。
スンマセン…大阪弁しかしゃべれないもので…(*´v゚*)ゞ
特にセリフまわしは…
ブログを始めた頃は、頑張って標準語で書いてた時もあったんですが、やっぱ、使い慣れていない言葉では表現し難いです。
投稿: 茶々 | 2014年5月30日 (金) 12時01分