足利尊氏VS新田義興…小手指原の戦い
正平七年・文和元年(1352年)閏2月20日、武蔵に進攻した新田義興軍と足利尊氏軍が激突した小手指原の合戦がありました。
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あぁ、ややこしい南北朝・・・
とにもかくにも、ともに一致団結して鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇・足利尊氏(あしかがたかうじ・高氏)・新田義貞(にったよしさだ)・楠木正成(くすのきまさしげ)以下諸々・・・
しかし、後醍醐天皇がおっぱじめた建武の新政(6月6日参照>>)に反発した尊氏が反旗をひるがえして(8月19日参照>>)京都に攻め込み(6月30日参照>>)、京都にて室町幕府を開いて光明(こうめい)天皇を即位させ(8月15日参照>>)、追われた後醍醐天皇が吉野へ逃げて、ここでも朝廷を開く・・・(12月12日参照>>)
・・・で、尊氏の京都が北朝で、後醍醐天皇の吉野が南朝・・・これが、基本なのですが、この基本が崩れたのが、正平五年・観応元年(1350年)の観応の擾乱(かんおうのじょうらん)(10月26日参照>>) です。
それこそ、鎌倉討幕の時から、兄=尊氏の右腕となって活躍していた弟=直義(ただよし)との、簡単に言えば内ゲバの兄弟ゲンカなわけですが、尊氏を倒したい直義が南朝へと降り、そこに執事の高師直(こうのもろなお)を巻き込んで合戦となるわけですが(2月26日参照>>)、師直を倒した直義が復権すれば、今度は、尊氏と息子=義詮(よしあきらが南朝に降って、直義の討伐を願い出る・・・
そう、時系列での前後はあるものの、北朝のNo.1とNo.2が、どっちも南朝に降った事になるわけで・・・
で、その直義が正平七年・文和元年(1352年)の正月に降伏し、続く2月29日に病死・・・となるのですが、この間、直義討伐のために尊氏は関東にいたわけで、京都の留守を預かる息子・義詮は、南朝へ和睦の使者を送り、南朝も、これを受諾・・・
つまり、この瞬間は日本に朝廷は南朝ただ一つとなり、南北朝では無かったわけですが、この義詮の和睦提案は、あくまで、現時点で将軍がいない京都を守るためのかりそめの和睦・・・
直義討伐のために南朝に降って南朝と和睦したからと言っても、実際に京都に陣取っているのは尊氏&義詮らのグループなわけで、南朝のメインキャラは、未だ吉野にいる・・・その南朝のメインキャラたちに、尊氏のいない間に、実際に京都に来てもらっては困るので、時間稼ぎしたわけです。
この時、南朝のトップと言えば、亡き後醍醐天皇の皇子=後村上(ごむらかみ)天皇だったわけですが、実は、この後村上天皇は、義詮の作戦もお見通し・・・わかっていて和睦提案を受諾したのです。
それは、こちらはこちらで、ここで和睦しておいて後村上天皇の京都行きを承諾させ、その行幸を完全武装で行って、一気に京都を奪ってしまおうという作戦でした。
この作戦は見事成功し、一旦、南朝軍が京都を制圧する事になるのですが、後村上天皇自身は、京都市内には入れず、八幡に陣を置き、これが、以前、後村上天皇のページで書かせていただいた(3月11日の後半部分参照>>)男山=石清水八幡宮での八幡合戦なわけですが、この京都のゴタゴタと同時に起こったのが関東のゴタゴタ・・・
すんません、当時の畿内での状況を説明しようとして前置きが長くなってしまいましたm(_ _)m本チャンはここからです。
先ほどかかせていただいたように、すでに後醍醐天皇はこの世になく(8月16日参照>>)、ご存じのように、楠木正成はとうの昔の湊川(みなとがわ)(5月25日参照>>)、新田義貞は越前で討死(7月2日参照>>)し、この4年前には正成の息子=正行(まさつら)も四条畷(しじょうなわて)に散っています(1月5日参照>>)。
そんな中、このタイミングで関東にて挙兵したのは・・・その義貞の息子=新田義興(よしおき=義貞の次男)、義宗(よしむね=義貞の三男)、脇屋義治(わきやよしはる=義貞の甥)でした。
彼らが、後村上天皇からの「尊氏追討」の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を得た事を宣伝すると、関東各地から続々と味方する武将が参陣・・・その中には、例の観応の擾乱で散った直義の旧臣たちも・・・
こうして10万余騎の味方を得た(またまた太平記の数字です)義興らは武蔵(東京都・埼玉県・神奈川県の一部)へと進攻・・・一方、この時、鎌倉にいた尊氏は、一報を聞いて、すぐさま迎撃すべく8万騎を従えて出陣・・・
かくして正平七年・文和元年(1352年)閏2月20日、両者は武蔵野の小手指原(こてさしばら=埼玉県所沢市)を舞台に激突する事となります。
朝8時、小手指原に到着した新田軍・・・義宗・義興・義治は、それぞれの軍勢を5手に分けてそれぞれ配置・・・
一方、この様子を聞いた尊氏も、自らの軍を5手に分けて現地へ・・・
こうして両軍合わせて20万騎と言われる大軍が、一進一退の攻防を展開するのですが、尊氏軍の第1陣=平一揆(へいいっき)、第2陣=白旗一揆に続く、第3陣を務めたのは花を旗印にした軍団=花一揆(はないっき)の司令官を務めたのは饗庭命鶴丸(あいばみょうづるまる)という18歳の美少年・・・
晴れの舞台に甲冑を花で飾りたて、見るも美しい軍団ではありました・・・が、その若さゆえに命知らずな突進はするものの、その若さゆえに陣の備えが悪く、その突進は向こう見ずで無謀な物となり、それが、逆に邪魔となって、尊氏軍の新手が前へ進めない・・・
このチャンスに、義宗は
「天下にとっては朝敵、俺にとっては親の仇…今、尊氏の首を取らんで、いつ取るんじゃぁ!」
と将兵にゲキを飛ばし、その勢いに少し退き気味となった二つ引両(足利家の家紋)の大旗目指して追い撃ちをかけます。
このリズムの狂いに、形勢は新田軍に傾き、やむなく撤退する尊氏・・・命からがら石浜(東京都台東区あたり?)まで逃走した尊氏は、その場で鎧を脱ぎ棄て、自決を覚悟します。
しかし、近習の侍たちが、その楯となるべく、命がけで敵の追撃軍の中に飛び込んで行ってくれたおかげで、その隙間を狙って、尊氏は対岸へと身を隠す事に成功・・・やがて、日が暮れ始めた事で、義宗は追撃を諦め、笛吹峠(ふえふきとうげ=埼玉県比企郡嵐山町)に陣を構え、激戦のさ中にはぐれた義興&義治らの軍勢を待つ事にします。
そう、実は、義興と義治は、尊氏を追跡している間に義宗軍と離れてしまっていて、すでに手勢は300騎程度になっていたのです。
そこを足利方の仁木頼章(にっきよりあき)・義長(よしなが)兄弟が狙います。
葦の原に身を隠しながら、鶴翼(かくよく)の陣にて、密かに義興らを囲む仁木勢・・・やがて、それに気づいた義興らは魚鱗(ぎょりん)の陣にて迎え撃ち(陣形については9月8日のページで>>)、なんとか、仁木勢を振り切ったものの、義興・義治、ともに3ヶ所以上の傷を負っての逃走でした。
こうして、なんとか、敵を振り切った義興でしたが、すでに手勢は200騎・・・
「この手勢では上野(こうずけ=群馬県)に戻るのも難しい」
と考えた義興は、もはや戦って死ぬ覚悟で、軍を鎌倉に向けます。
途中、はぐれていた仲間(義宗ではありません)と奇跡的に再会し、3000騎となった義興軍は、その奇跡も含む盛り上がりを見せたまま鎌倉へ突入!
たまたま死ぬ気で向かった鎌倉・・・という事は、鎌倉側も、まさか攻め込まれるとは想定していなかったわけで、そこに奇跡のテンションに決死の覚悟が加わり、なんと、新田軍は、そこにいた鎌倉公方=足利基氏(もとうじ=尊氏の四男)を敗走させ、鎌倉を制圧してしまったのです。
笛吹峠の義宗、鎌倉の義興&義治・・・しかも、その笛吹峠には、宗良親王(むねよししんのう=後醍醐天皇の皇子)を担いだ上杉憲顕(うえすぎのりあき)軍も到着・・・
さぁ、どうする?尊氏!!
って事で、そのお話は、両者がぶつかる事になる2月28日【足利尊氏・危機一髪…笛吹峠の戦い】でどうぞ>>
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