足利尊氏の都落ち~豊島河原合戦
延元元年・建武三年(1336年)2月6日、後醍醐天皇方の北畠+新田軍と、足利直義の軍が遭遇戦を展開した豊島河原合戦がありました。
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第96代後醍醐(ごだいご)天皇とともに鎌倉幕府を倒した(5月22日参照>>)足利尊氏(あしかがたかうじ)が、その後に後醍醐天皇が行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発して挙兵(8月19日参照>>)・・・
それを迎え撃つべく、天皇の命を受けて進発した新田義貞(にったよしさだ)(11月19日参照>>)でしたが、箱根・竹ノ下の戦いに敗れます(12月11日参照>>)。
一方、押せ押せムードの足利勢が、その勢いまま上京したため、後醍醐天皇はやむなく比叡山への逃れ、一時は京都を占拠する足利勢でしたが、態勢を立て直した義貞軍に、東北から馳せ参じた北畠顕家(きたばたけあきいえ)の軍が加わり、延元元年・建武三年(1336年)1月27日の京都市街での戦いに勝利・・・再び後醍醐天皇側が京都を奪回しました(1月27日参照>>)。
しかし、この時、天皇方は、楠木正成(くすのきまさしげ)の進言で、一旦、兵を京都市街から退かせます。
この、京都市街に天皇方の兵がいなくなった状況を知った尊氏は、再び兵を京都へ戻しますが、実はこれが、正成の作戦・・・翌朝、2~30人の僧を市街へやり、討死した大将の遺体を探すフリをさせたのです。
「新田殿、北畠殿、楠木殿など、主だった方々=7人が討死されたので、供養のために、その遺体を探しております」
と・・・
この話を聞いて、「大将の討死により、多くの兵が散り々々に逃げた」と考えた尊氏は、追撃をかけるべく、京都市街に一部の兵を残して、それ以外の多くを、鞍馬路、小原口、勢多、宇治、嵯峨、仁和寺などへ差し向けてしまったのです。
その夜・・・尊氏が兵を分散させた事を確認した正成は、退いた比叡山より一気に京都市街へと撃って出て、市街に残っていた足利の軍に攻めかかります。
ふいを突かれた足利軍は、それこそ、鞍馬路やら宇治やら嵯峨やらへ散り々々に逃走しはじめますが、その状況を見た各場所に配置された兵たちもが、天皇方の追撃を恐れて逃走しはじめるわ、逃げて来た味方を敵と勘違いしてさらに逃げるわで、足利軍は大混乱となってしまいます。
もはや、尊氏自身も、自軍の統率すらとれない状況で、やむなく丹波方面へと向かいます。
途中、何とか連絡のとれた自軍と、湊川付近で合流した尊氏は、従者としてそばについていた熊野の別当の子孫で薬師丸という稚児を、使者として光厳院(こうごんいん)のもとへ派遣します。
この光厳院(7月7日参照>>)は、かの後醍醐天皇が鎌倉幕府の討幕に失敗して隠岐(おき)に流された時に(3月7日参照>>)、鎌倉幕府によって擁立された天皇で、後醍醐天皇の復権にともなって退位させられていた方・・・なので、尊氏の味方になってくれそうな天皇経験者という事になります。
尊氏としては、後醍醐天皇に対抗するためにも、なんとか、天皇家の人の院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)を受ける事で、官軍の証である錦の御旗が欲しかったのです。
一方、2月2日に、足利軍の撤退を確認した後醍醐天皇は、逃れていた比叡山から都へと戻り、皇居へと落ち着きます。
そうこうしている間に、一旦散り々々になった足利軍も、尊氏が湊川にいると知った事で、徐々にもとの軍勢が戻って来るのですが、一方では「もはやこれまで」と新田軍に降った者も多く、天皇方の軍勢は、ますます増えていきます。
「ここで更なる追撃を…」と考えた天皇方は、顕家と義貞が10万余騎の兵を率いて京都を出立し、摂津・芥川(あくたがわ=大阪府高槻市付近)まで進軍します。
これを知った尊氏は、弟の足利直義(ただよし)に16万の兵をつけて向かわせました。
かくして延元元年・建武三年(1336年)2月6日、両者は豊島河原(てしまがわら=箕面市から池田・伊丹へ流れる箕面川の下流の河原)で遭遇・・・合戦へとなだれ込んだのです。
押しつ押されつ・・・両者は五分五分のまま、その戦いは終日続き、勝敗が着かないまま、日暮れを迎えますが、そこに、遅れて到着した正成・・・
合戦の様子を見て、そのまま正面から攻めかからず、神埼を回って直義軍の後方につけ、そこから攻撃を開始します。
朝からの合戦にて、もはや疲れがピークに達しているところに加え、後方からの新手の登場に驚く直義軍・・・ここで、このまま1戦交えたなら、逆に、360度を敵方に囲まれてしまう危険大・・・
やむなく直義は、正成軍とは1戦も交える事無く、その合い間をぬって、兵庫へと撤退を開始しました。
これを更に追撃して西ノ宮へと到着する義貞・・・「これより先に行かせるか!」とばかりに、湊川に陣を構えて防戦する直義ですが、そこに登場して来るのが、それぞれに加勢する水軍でした。
足利軍には、大友(おおとも)・厚東(こうとう)・大内(おおうち)の水軍・・・
天皇方には、土居(どい)・得能(とくのう)の水軍・・・
両者に新たな手勢が加わった事で、戦いは続くかに見えましたが、未だ士気を保っている天皇方に比べ、足利軍は連日の戦いで疲れ果てていて、その士気は低い・・・
その様子を見てとった大友水軍の大友貞宗(おおともさだむね)の進言により、尊氏は海路、九州へと向かって態勢を立て直す事となるのですが、そのお話は3月2日【足利尊氏・再起~多々良浜の戦い】でどうぞ>>
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