北海道の名づけ親~探検家・松浦武四郎
明治二十一年(1888年)2月10日、幕末から明治にかけて活躍した探検家・松浦武四郎がこの世を去りました。
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松浦武四郎(まつうらたけしろう)は、文化十五年(1818年)に、伊勢国一志郡須川村(三重県松阪市小野江町)の郷士・松浦圭介(桂介・時春)の四男として生まれました。
実は、この、松阪という地に生まれ育った事が、彼の人生を決定づけたとも言えます。
それは、この松阪という場所が、伊勢・和歌山・長谷(はせ)の3つの街道と、伊賀越え奈良道が重なる交通の要所であった事・・・
以前、やはり松阪出身の国学者・本居宣長(もとおりのりなが)のページ(6月13日参照>>) で、その宣長が憧れの師=賀茂真淵(かものまぶち)と、人生たった1度の対面をする「松阪の一夜」のお話をご紹介させていただきましたが、地元にいながらにして、憧れの人物と対面できるラッキーに恵まれるのは、この松阪が街道の要所にあって、伊勢参りをする真淵が、ここを通りがかったから・・・
そう、以前、枚岡梅林を訪れた時にチョコッと書かせていただいた(2月22日参照>>) 江戸時代に何度もブームとなった・・・「お陰参り(おかげまいり)」=「伊勢参り」ですね。
物ごころついた時から、自宅のすぐそばを通る伊勢街道を行き交う人々を目にしていた武四郎少年は、
「この人たちはどこから来て、どこへ行くのだろう?」
と、旅人たちがたどった道、これから通るであろう道、果ては、その先にあるまだ見ぬ遠い町へと思いを馳せるようになるのです。
7歳になった頃、近くのお寺に手習いに通いはじめた武四郎少年は、そこにあった『名所図絵』に興味を持って、一心に読みふけります。
やがて、13歳で津藩の儒学者・平松楽斎(ひらまつらくさい)の私塾に通いますが、その3年後・・・無断で家を飛び出して
♪盗んだバイクで走り出す~♪16の夜~~てのは冗談ですが、16歳でいきなり出奔して、たった一人で江戸まで旅をしちゃいます。
さすがにこの時は、連れ戻されてしまいますが、その熱意が伝わったのでしょうか?翌年には、ちゃんと許可を得て、念願の一人旅に出発する事になります。
近畿地方に始まって、北陸や甲信越・・・東北を回って関東から東海へと旅を続け、一旦帰郷した後、19歳の時には四国八十八ヶ所巡りを達成し、翌・20歳で九州一周・・・
ところが、立ち寄った長崎にて病に倒れた武四郎は、出家して文桂と名乗り、平戸のお寺の住職となります。
実は、最初の手習いのお寺で、仏教の事や経典を積極的に学んでいた武四郎にとっては、仏教の世界に生きる事も、もう一つの夢だったのです。
おそらく、体調を悪くして旅する事が困難となり、もう一つの夢に生きる事にしたのかも知れませんが、そこで多くの僧から絵を習う中、またまた旅への夢が膨らんで来ます。
そう、武四郎は、少年時代の頃から、旅をする時には必ず、自身が『野帳(のちょう)』と呼ぶノートを持参していて、その土地の様子を、細かくメモし、詳細なスケッチも描き添えていたのです。
僧侶となって絵の才能が開花するうち、スケッチ旅行への憧れが、またまた盛り返して来たって感じでしょうか?
もちろん、徐々に体調も快復していった事もあるでしょう・・・24歳で住職を辞めて対馬(つしま)へと渡り、さらに朝鮮半島を目指そうとしたと言います。
まぁ、さすがにこれは、鎖国状態の江戸時代では叶える事ができず・・・しかし、戻って来た長崎にて、ここ何年か、日本近海に頻繁に現われていたロシア船が(4月5日参照>>)徐々に南下して脅威となっているとの話を聞き、蝦夷地(えぞち=北海道)を調査する事を決意するのです。
「日本を外国から守るためには、まずは、その国土をしっかりと把握しておかねばならない!」と・・・
弘化元年(1844年)、還俗(げんぞく=1度出家した人が一般人に戻る事)した武四郎は、翌年、28歳にして初めて蝦夷地に渡りました。
以後、41歳になる13年間で6回の調査を行っていますが、そのうち最初の3回は、なんと自費での調査・・・あくまで、個人で旅をして、それを記録していくという物でしたが、おそらく、細かな事まで例の野帳にメモしていく並々ならぬ彼の情熱が周囲の人をも巻き込んでいったのでしょう。
嘉永三年(1850年)には、3回目までの自費調査した野帳の記録を12冊にまとめた『初航蝦夷日誌』が出版されますが、それは、独学で旅した彼らしく予備知識の無い庶民にも読みやすく、「一般人でもわかりやすい」と大評判になります。
ただ、これは、単なる紀行文ではなく、彼自身の思いも書き添えていたので、ある一部の人たちからは反感を持たれる事になります。
そう、現地のアイヌ人と親しくなり、アイヌ語を教えてもらい、その文化のすばらしさを体感していた武四郎にとっては、アイヌの人々を下に見て酷使する松前藩のお侍や和人の商人たちの事が許せず、キワドイ実情とともに、その批判も書いていたのです。
また、測量の専門家でない彼の調査には、間違いが多かった事も確か・・・
ただ、できあがった詳細な地図は、充分に役に立つ物でしたし、それこそ生の体験談は貴重な物・・・特に、幕末になって高まって来た攘夷(じょうい=外国を排除する考え)思想の強い水戸藩などからは重用され、北の大地の現状を知りたい吉田松陰(しょういん)(11月5日参照>>)や梅田雲浜(うめだうんびん=雲濱)(9月14日参照>>)らとも親しく交流し合ったと言います。
なんせ、現段階では、彼が、蝦夷地に最もくわしい人物・・・あの伊能忠敬(いのうただたか)(9月4日参照>>)も蝦夷を旅して地図を造ってますが、なんだかんだで海岸線のみで、内陸部深くに入った人は武四郎が初めてなのですから・・・
その評判は幕府をも動かし、安政二年(1855年)には蝦夷御用御雇(おやとい)に抜擢され、4回目以降の蝦夷地調査は幕府公認のもとで行われ、なんと、この間の調査の記録は150冊を越える膨大な物となったのだとか・・・
やがて迎えた明治維新・・・明治新政府では蝦夷地開拓御用掛(ごようがかり)に任じられた後、明治二年(1869年)に開拓使が設置されると開拓判官に任命され、ここで武四郎は、これまで蝦夷地と呼ばれていた場所に、北海道という新しい名を命名するのです。
これは、彼が、アイヌの人たちから「アイヌは自分たちの事をカイと呼ぶ」と聞いた事から、そのアイヌ語の「カイ」に由来する言葉=「北のアイヌの地」という意味なのだとか・・・そう、アイヌの文化に敬意を表する、彼の考えは、未だ変わっていなかったのですね。
残念ながら、武四郎は「北加伊道」との表記を提案したものの、明治政府によって「北海道」の表記に変えられ、武四郎が意図した「カイ」の意味は伝わり難くなってしまいましたが・・・
もちろん、現在の北海道の地名に、アイヌ語に漢字を当てた独特の地名が多いのも、武四郎がアイヌの人たちを愛するが故の命名なのです。
しかし、異文化を尊重する彼の姿勢は、利益を優先する商人たちと度々ぶつかる事となり、結局、わずか1年で辞職に追い込まれてしまします。
その後は、馬角斎(ばかくさい)と号して趣味の世界に生きる武四郎でしたが、それでも、「全国を旅したい」という信念は変わる事無く、折に触れて旅を続け、その出版も続けました。
晩年には、68歳ににして、奈良県の、あの大台ヶ原に3度も調査登山をし、明治二十一年(1888年)2月10日に71歳で亡くなる前年にも、富士登山を決行したのだとか・・・
♪花咲て また立出ん 旅心
七十八十路 身は老ぬとも ♪
これは武四郎が亡くなる1年前に詠んだ、人生最後の和歌だそうです。
幼い頃に、家の前を通る旅人を見て
「僕も、あの向こうに行きたい!」
と夢見た少年は、狭い価値観にこだわる事ない広い視野を持ち、動乱の時代の真っただ中を、1歩、また1歩と、確実に歩み、おそらくそれは、最後の1日まで夢の途中だったに違いありません。
アイヌの人たちへの仕打ちを生々しく描いた記録のいくつかは発禁となり、上記の通り、明治政府の開拓使のやり方にも反対した事から、明治の頃は、その業績への評価が低かったという武四郎さん・・・大正→昭和→平成となって、時代がやっと、彼に追いついて来たのかも知れません。
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コメント
私は北海度札幌の出身。今日まで北海道の名の由来は知らなかった…。
子供の頃、家ではアイヌ犬を飼っていたが、オスはラン、メスはランコ…
何故、ランにランコなのか親父に聞いた事があった。
その時、「家の犬は蘭越のアイヌの友人から貰うので、蘭越のランを取って名ずけている」と聞いた。
そして、「ランコシと云うのは、樹が沢山、生い茂っている場所」と言う意味と教えられた。
だから今日まで、北海道の地名の由来で知っていたのは、ランコシだけ…
そうか~ 北海道の名付け親は、松浦武四郎と言う、現在で言う三重県人だったのか…
ひとつ勉強になった…
投稿: 夏原の爺い | 2013年2月10日 (日) 15時52分
夏原の爺いさん、こんにちは~
そうですね。
地名にアイヌ語を残して命名した事に、武四郎さんの愛を感じますね。
確か札幌は「乾いた大きな川」という意味だったと思います。
投稿: 茶々 | 2013年2月10日 (日) 17時21分
茶々さん、こんばんは♪
松浦さんの記事、興味深く読ませて頂きました。
私は、大学4年の夏初めて一人旅をした場所が北海道でした。
飛行機で旭川に向かい、 知り合いのお宅に泊めて頂き、札幌、苫小牧と旅を続け、船で帰って来るという10日間の旅でした。
途中、アイヌの方々の優しさに触れ、一生忘れる事のない思い出深い 旅と成りました( 〃▽〃)
以来、旅の楽しさに目覚めてしまい、OLとなってからも有給休暇を利用し、全国各地を一人旅で周りました。
見知らぬ土地で出会う、見知らぬ方々とのちょっとしたふれあいが旅の醍醐味でした。[今は結婚し、長らく一人旅はしていませんが(笑)]
松尾芭蕉さんは「奥の細道」の中で、
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老いをむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。」
と言っていますが、今と違い交通網の発達していなかった昔は本当に、旅は人生そのものだったのでしょうね(^O^)
投稿: 伊集院みちこ | 2013年2月11日 (月) 01時30分
この人物の名前は恥ずかしながら知りませんでした。
松浦武四郎(まつうらたけしろう)さん,高等学校までの日本史等の教科書には,名前は出てこないでしょうね。確か…。
自分の好奇心のための人生だったのでしょう…。しかし,自分だけのためではなく,また,アイヌの方々を愛し,「北海道」が外国…特にロシアに侵略されるのではないかという心配…。
みんな,こんな生き方に憧れつつなかなかできない…。
そう言えば,明治新政府による東京遷都,実は大阪への遷都がほとんど決まりかけていたのが,最後のどんでん返し…。
北海道を守り,経営していくというのが,新政府の大きな課題だったのでしょう。
「大阪では(東京に比して)北海道に遠い。」
と書いてある文章にいくつか当たりました。
ありがとうございます。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年2月11日 (月) 06時03分
いつも楽しく拝読しております。
わたくしは三重県出身・在住ですので、この方のことはちらっとは知っておりました。
でも、今回の記事で知ったことの方が多く、、、お恥ずかしい限りです。
県では藤堂高虎とともに、武四郎氏も大河のテーマにと推挙運動しているようです。正直今までどうでもよかったんですが、70歳にして富士登山…そんなエネルギッシュな方の大河、おもしろそうだなと。
投稿: やんたん | 2013年2月11日 (月) 08時23分
伊集院みちこさん、こんにちは~
>旅は人生そのもの…
ですね~
今では移動が楽になりましたが、人と人との出会いの楽しさは変わる事なく…
私も、北海道は1度だけ…最近は近場ばっかりですが、それも楽しい出会いの一つですね。
投稿: 茶々 | 2013年2月11日 (月) 17時07分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
私も、歴史の教科書で習った記憶はありませんね~(ボーっとしてただけかも知れませんが…)
大阪遷都のお話は、以前、大久保利通が建白書を提出した日づけでチョコッと書かせていただきましたが、やはり、北海道の開拓は、大阪ではちと遠いですからね~
投稿: 茶々 | 2013年2月11日 (月) 17時12分
やんたんさん、こんにちは~
大河…
イイかも知れませんね~
北海道はもちろんですが、若い時の全国行脚など、見ているコチラも旅している気分になれるかも…です。
投稿: 茶々 | 2013年2月11日 (月) 17時14分
もうすぐNHKBSでスペシャル時代劇として題材になります。番組の放送月日はまだ未定です。
主役は松本潤くんです。
そういえば今年は直江兼続の400回忌です。
また着目されるかな?
投稿: えびすこ | 2019年2月17日 (日) 21時56分
えびすこさん、こんばんは~
ドラマの事よくご存じなのですね~
情報、ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2019年2月18日 (月) 02時43分