幕末・足利三代木像梟首事件
文久三年(1863年)2月22日、京都・等持院に安置されていた室町幕府将軍の木像の首と位牌が盗まれ、賀茂川の河原に晒される・・・世に言う「足利三代木像梟首事件」がありました。
・・・・・・・・・
ちょうど、このあいだの大河ドラマ「八重の桜」でやってましたね~
とは言え、まずは、大きな出来事をピックアップして、この頃の大まかな流れを見てみましょう。
★安政元年(1854年):
ペリーが江戸湾に再来し、日米和親条約を締結します。
★安政五年(1858年):
13代将軍・家定が病没し、家茂が14代将軍に…
★安政六年(1858年):
大老・井伊直弼が安政の大獄を実施。
(10月7日参照>>)
★万延元年(1860年)3月:
桜田門外の変で井伊直弼が暗殺される。
(3月3日参照>>)
★文久元年(1861年)10月:
皇女・和宮が下向(公武合体政策)
(8月26日参照>>)
桜田門外の変の後あたりから、安政の大獄で弾圧された尊王攘夷派の志士たちによる天誅(てんちゅう)と称する報復行動が、幕府の統制が緩んだ京都にて活発となり、佐幕派(幕府寄り)や公武合体派の人物や安政の大獄協力者などがターゲットとして狙われるようになります。
・・・で、治安が最悪となった京都の町を守るべく、新たに京都守護職という役職が設置される事になりますが、すでにある京都諸司代や町奉行を統轄するこの役職には、やはり、強大な武力を持ち、藩内の論調も安定してる親藩(徳川家の親戚)でないと・・・
この条件に当てはまるのは、福井藩と会津藩ですが、福井藩の松平春嶽(しゅんがく=慶永)は、すでに幕府で政事総務職についていたので、この役目は、会津藩主の松平容保(かたもり)に・・・と白羽の矢が立ちます。
最初はお断わりしていた容保でしたが、会津の初代藩主・保科正之(ほしなまさゆき)(12月18日参照>>)の「将軍家と盛衰存亡をともにすべし」という家訓を楯に迫られ・・・
★文久二年(1862年)閏8月1日:
松平容保が京都守護職に就任します。
★同年の12月24日:
容保は上洛し、黒谷の金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)に入ります。
★文久三年(1863年)1月2日:
容保が孝明天皇に拝謁し、天盃と御衣を賜ります。
一方江戸では・・・
★同じ文久三年(1863年)2月4日&5日:
小石川伝通院(でんつういん)にて浪士組を一般募集
これ↑は、この3月に予定されている将軍・家茂の上洛に先駆けて京都に入り、その身辺警護させるための人員を募集した物で、後に新撰組となるメンバーが応募してるアレです。
・・・と、今回の「足利三代木像梟首事件(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)」は、まさに天誅の嵐吹く京都に将軍がやって来る寸前に起こった出来事なわけですね。
事件の経緯としては、文久三年(1863年)2月22日深夜、室町幕府の初代将軍の足利尊氏(あしかがたかうじ)の墓所として知られる等持院(とうじいん)に安置されていた初代・尊氏、2代・義詮(よしあきら)、3代・義満(よしみつ)の3体の木像の首と位牌が盗まれ、翌未明に、これらの木像の首が、賀茂川の河原に晒されていた・・・という物です。
・・・で、そのそばには
「逆賊である足利尊氏・義詮・義満の像に天誅を加える…けど、今現在、コイツらよりもっとヒドイやつらがおる。
早い事、その罪を反省して正さんと、俺ら有志でいてまうど!」
てな内容の立札が立ててあったと・・・
ちなみに、木像晒し首が発覚した、この2月23日という日は、江戸で募集されたかの浪士組が上洛を果たした日でもあります(2月23日参照>>)。
とにもかくにも、時代劇でよく見る、あの晒し台の上に、木像の首が乗っかってる光景は、いかにも異様・・・てか、これまで、天誅と称するテロ行為で、何人も人が殺され、実際にその生首が晒されていたわけですから、それらを見ている京都の人々にとっても、逆に異様だったかも・・・
ただ、実際に殺人したわけでも無いし、現代の感覚で行けば、ちょっとしたイタズラにも思えるこの行為(もちろん、イタズラではなく窃盗ですし、イタズラでもやってはいけません)・・・
しかし、これには、イタズラでは済まされないポイントが・・・
それは、かの立札にある後半部分にもある事なのですが・・・
そう、このブログを読んでくださっている方々はお解りですね。
昨日もお話した南北朝時代・・・かの足利尊氏は、南朝の後醍醐(ごだいご)天皇に対抗して、前政権の鎌倉幕府が擁立していた光厳院(こうごんいん=北朝初代の天皇)に院宣(いんぜん=上皇の意を受けて側近が書いた文書)を賜り(4月26日参照>>) 、その弟で猶子(ゆうし=契約関係によって成立する親子)の光明(こうみょう)天皇を北朝の天皇として即位させています(8月15日参照>>)。
で、ご存じのように、最後に南北朝が合一する時、なんだかんだで北朝有利に進められてしまった結果(10月5日参照>>)、本来は、北朝・南朝から交代々々でその後の天皇を出すはずだった約束は破られ、その後は、ずっと北朝側の天皇に・・・
つまり、この幕末の時代の天皇であった第121代孝明天皇、そして、その皇子である第122代明治天皇も、北朝の流れを汲む血筋なわけです。
そこを考えれば、足利将軍は逆賊では無い事になる???
これには、以前水戸黄門様の『大日本史』編さんのところ(10月29日参照>>)でもご紹介したように、その『大日本史』で「南朝が正統」としちゃった中、尊王攘夷の思想はその水戸学から来ているので(10月2日参照>>)、大日本史が正統とした南朝に反発した足利将軍は逆賊という事になるわけですが、
一方では、孝明天皇や明治天皇が北朝の流れである事も、当時の人・・・特に武士は皆知っていたわけで・・・
その後、明治時代になっても、そこのところが問題となり、結局は「南北朝の時代に限って南朝が正統」として、その時代以外は、どっちも正統という玉虫色になってるようですが、幕末当時の人たちの心情という物は、どうだったんでしょうかね???
それこそ、あくまで、個人的な想像ですが、
そこに、この事件にとっては、北朝・南朝うんぬんより、「天皇家に反発した幕府」というポイントが重要だったという事があるような気がするのです。
この事件に激怒した容保が、それまで、「言路洞開(げんろとうかい=話し合いで解決)」しようという姿勢をとっていたのを、徹底的に始末する強硬路線に切り替えたと言われていますが、そこには、やはり、この事件に「現幕府を倒す」という意味が込められていた事が重要だったという事なのでしょう。
まぁ、今回の事件の犯人は、尊王攘夷思想を持つ平田派国学者の一派・数名だったわけですが、そこに、過激派の志士たちを監視するために会津藩から送り込まれていた大庭恭平(おおばきょうへい)が関与していた事も、容保を激怒させた一因でしょうが・・・
・・・と、ここまで見ていると・・・
そう、今回の大河ドラマ「八重の桜」は、まったく以って、そのまま描かれていますね。
(京都守護職を引き受けた容保が泣いちゃったのには、ちと驚きましたが…)
確かに、歴史好きとしては、あの3年前のように、主人公がどんな重大事件にも関与するハチャメチャな創作を織り込まれても困り物なのですが、あまりにも、その通りだと、「ただ、一般的な歴史をなぞっているだけ」という感がぬぐえないのも確か・・・
何となく、今のところ、その中央での一般的な歴史の流れのドラマと、八重の周辺の出来事との二つのドラマを見せられている感じ・・・
なので、このブログでも、初回の感想以来、ドラマの感想は1度も書いていないのですが・・・
が、しかし、思えば、まだまだ序盤です。
おそらく・・・
サスペンスで言えば、事件に絡む人々の人間関係や背景を紹介している段階で、まだ、肝心の事件は起こっていない・・・この段階で、物申すのは失礼千万!!
という事で、「八重の桜」に関しては、これからが請うご期待!・・・で、もうちょい「その時」を待つ事にいたしましょう。
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コメント
こんばんは、
私今までこの事件は足利尊氏の像だけ首が晒されたと思っていました。
でも、義詮と義満の像も首を晒されていたのですね。八重の桜で知りました。
とりあえず、皇族はみんな大切な人達!
南朝とか北朝とか関係なく、天皇に逆らうんじゃない!
みたいな考えだったのかしら、と思っています。(南北朝や幕末は難しいです(^-^;)
八重の桜に関しては、今のところは割と楽しく観ています。
とはいえ、平清盛のときのワクワク感がないのが残念。
我が家では、覚馬を演じる西島さんが人気です。西島さんの演技も良く、ドラマで覚馬がでてくるとテンションが上がります。o(*^▽^*)o
ただ、このままだと覚馬の桜になってしまうのではと心配です。
八重が活躍するのが幕末では、会津戦争のみであるのが理由なのでしょうけど。
とりあえず我が家は大河=必ず観る の方程式があるので、じっくりこれからを観ていきます。
いい作品になるといいですね!
投稿: ティッキー | 2013年2月22日 (金) 22時16分
ティッキーさん、こんばんは~
もともと水戸学の尊王は、幕府のための尊王でしたが、それが倒幕へと変わる象徴が「木像梟首事件」という事なのでしょうね。
ホント、「覚馬の桜」になってますね。
もちろん悪くは無いんですが、昨年の批判の嵐がトラウマなのか、無難な一般的な路線を進んでいる感じで、もうちょっと冒険した方がオモシロイのかな?なんて思ったりもします。
とは言え、それこそ、視聴者の好みは様々なので造り手の方々は大変だと思います。
投稿: 茶々 | 2013年2月23日 (土) 01時17分
松平容保も辛かったでしょうね。大河でやっていたとおりですが…。
ことを元に戻せば,2代将軍秀忠の“たった一度の浮気”で(?),存在するようになったお家ですから…。
私,鹿児島の人間ですが,このあと,会津は薩摩と連合し,長州を京から追い落とし(蛤御門の変),その後,有名な薩長同盟により,悲惨な目にあう。
20代の頃,会津に行ったことがありましたが,隣のお客さんのタクシーの運転手さんが,「今でも福島県民は鹿児島県民を恨んでいます。」と言われました。
でも,そう言われてもな~。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年2月23日 (土) 07時56分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
そうですか…
今でも…、やっぱ恨んでいはるんですね~
てか、今、会津に住んでいらっしゃる方は、やはり会津の方だった方が多いんでしょうか?
下北に行ったのはお侍さんだけ?とか、
一旦行ったけど、廃藩置県で戻って来た?とか、
そんな感じなんでしょうか?
投稿: 茶々 | 2013年2月23日 (土) 08時43分
茶々さまこんにちは
>昨年の批判の嵐がトラウマなのか、
>無難な一般的な路線を進んでいる感じ
その批判の嵐に一蓮托生した(←動詞として変?)
清盛クラスタの皆さんが、twitter上でまた
新たな「あそび」を展開しています(*^_^*)
#源平合戦でありそうな番組表
朝から笑いました~~
杏さん演じる北条政子も人気が高かったので、
若干、鎌倉時代に突入しちゃってますが(^_^;)
投稿: hana-mie | 2013年2月23日 (土) 09時21分
茶々様,こんにちは…。
福島県民から恨まれている鹿児島県人です。(泣)
確かに,会津藩は下北半島へ移封ですね。しかし,ちょっと待った…。下北へ行ったのはどの段階だったかな!?
すみません,勉強不足です…。
でも,実は鹿児島県民と福島県民は,明治後,交流を深めていますよ。残念ながら,兄弟都市(県),姉妹都市までは,いっていませんが…。
私は鹿児島県で小学校の教員をしていますが,福島県とは,教員同士の人事交流を実施しています。3年間ごとの相互交流です。私の友人も選ばれて福島へ行っていましたが,去年帰ってきました。
まあ,明治新政府は薩長(土肥)を中心とした政府でしたが,廃藩置県の際に,県庁所在地を城下町である会津にせずに,現在の福島市にしたということでも,一悶着あったようです。
しかし,変な言い方ですが,薩摩だけでなく,長州を恨んだ方が筋が通っていると思うのですが…。途中から裏切ったらなあ。鹿児島は…だから,かえって恨みが大きいのかもしれません。
話は変わりますが,私は会津城下のすぐ近くの町で生まれた野口英世が大好きです。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年2月23日 (土) 13時03分
hana-mieさん、こんばんは~
このブログでも、未だに、「平清盛」の最終回の感想のページには、毎日、一定の数のお客様が訪問してくださいます。
個性的でインパクトが強かったぶん、批判も多かったですが、ファンの方の「好き度」はハンパ無いですね。
イロイロおもしろい事を考えてくださいます。
投稿: 茶々 | 2013年2月24日 (日) 00時18分
鹿児島のタクさん、こんばんは~
そのぶん、反骨精神で頑張られた会津の偉人たちは多いですね。
投稿: 茶々 | 2013年2月24日 (日) 00時20分
足利三代の木像が梟首されたのは三条大橋の西側のあそこやったんですか。あそこやったらよう目立ちますね。この記事,現在の京都の風景と歴史の記述がよくシンクロしててよろしおすわ。
ところで,
>政治総務職 は当時のことばどおり
「政事総裁職」のほうがよろしいのではないかと。「政治総務職」やと総務大臣か自民党総務会長みたいなので。
投稿: 徳左衛門 | 2013年2月24日 (日) 00時34分
>てか、今、会津に住んでいらっしゃる方は、やはり会津の方だった方が多いんでしょうか?
知行地が残っていれば帰ってこられたでしょうがどうなんでしょうね。
他家となりますが松本の戸田松平家では諸士は知行取りの格式のみ残して蔵米取り改められていた上、譜代大名故の転封も多く、極限られた者以外地縁血縁もなく、明治に入ると東京へと上るか時代に背を向け更なる辺地へと流れるかして、その殆どが松本を去っています。
もとより三河、近江、美濃(織田、徳川軍団)の出身者が多く、地元民とは言葉も微妙に異なっていたりもする。此処は会津も同じなのではと推察します。果たして会津武士は会津弁で天下国家を論じたのだろか?読者の内に保科家々臣の末裔の方がおられたら是非ご教示願いたいところです。
追伸:NHK八重の桜HPの山川大蔵の紹介に18歳で物頭役(いわゆる侍大将)とあったので足軽大将だと指摘したのに一向に直りません。何故でしょう?困った物です
投稿: 野良猫 | 2013年2月24日 (日) 00時35分
訂正: 誤 「格式のみ残して蔵米取り改められていた」 → 正 「格式のみ残して蔵米取りに改められていた」
投稿: 野良猫 | 2013年2月24日 (日) 00時39分
徳左衛門さん、いつもありがとうございます。
訂正させていただきました。
投稿: 茶々 | 2013年2月24日 (日) 02時33分
野良猫さん、こんばんは~
そうなんですよね~
「藩ごと流罪になった」と言われたくらいですので、けっこうな数の方が下北に向かわれたと想像するのですが、どんな感じだったのかな?と、ちょっと疑問に思った次第です。
投稿: 茶々 | 2013年2月24日 (日) 02時37分
こんにちは。
木像梟首事件の話は大まかに知っていましたがそういうことなんですね。
忙しくて、大河「八重」は何回か録画はしたけど見ていない状態です。
ドラマの松平容保公はこれからもがんばってほしいですね。
ところで松平容保は秀忠の直系の子孫だと思っていましたが違うんですね。
有名な武将も戦に負けて家が滅びたと思ったら子孫が今もいたり意外な事実が多いですね。
歴史は面白く深いです
投稿: ハルブル | 2013年2月24日 (日) 07時41分
ハルブルさん、こんにちは~
そうですね。
戦国時代の場合は、敗戦で逃走して、その領地を統治できなくなったら、一般的に「滅亡」と称しますが、血筋としては、そのまま続いている場合が多々ありますね。
おっしゃる通り、逆に、領地を統治したままであっても、領主にあととりがいない場合は養子をもらって後を継がせたりします。
江戸時代の場合は、男子がいないまま藩主が亡くなった時は、その藩はお取り潰しになるので、側近たちも「政務は俺らがするから、早く子供を…」って必死だったみたいです。
投稿: 茶々 | 2013年2月24日 (日) 16時38分
大河ドラマ見て、変な例えですが、新入りに度胸試しをさせる不良グループを連想しました。
この時点での尊王攘夷派は本気で倒幕をするつもりだったのか、新任の京都守護職をからかっただけなのか、はたまたただの度胸試しか…
眉につばつけないと読めない古川愛哲氏の『九代将軍は女だった』を立ち読みすると、京都人にとって、「夷」は「あずまえびす」であり「攘夷」は徳川武家政権を倒すこと、とあります。えっ、いつの時点での話?
ちょっとしたイタズラが歴史を変えるということは今日でも起こるような気がします。
会津藩が下北に移動したのは明治3年ですが、それまでどこでどうしていたのか不勉強のためわかりません。これまた大変だったみたいですが。
投稿: りくにす | 2013年2月26日 (火) 20時06分
りくにすさん、こんばんは~
私としては、尊王攘夷が倒幕に変わるのは、やはり、安政の大獄から桜田門外の変にかけての頃だと思います。
以前、藤田東湖のページ>>で、チョコッと書かせていただきましたが、もともとは、朝廷との上下関係を守る事で幕府を維持するための水戸学だったのが、あのペリーとの条約を勅許無しで進めちゃった事で、その幕府自身が朝廷との上下関係を破ってしまった事にあるのでは?と…
投稿: 茶々 | 2013年2月27日 (水) 00時21分