武田信玄の死後に勝頼が動く~明智城陥落
天正二年(1574年)2月5日、武田勝頼が美濃明智城を攻略しました。
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永禄十一年(1568年)、足利義昭(よしあき)を奉じて上洛した織田信長(9月7日参照>>)・・・しかし、ご存じのように、その二人の関係は、わずか1年ちょっとでギクシャクしはじめます(1月23日参照>>)。
そんな中、信長は、上洛要請を拒み続けていた越前(えちぜん=福井県)の朝倉義景(あさくらよしかげ)を攻撃(4月26日参照>>)・・・
さらに、この時に朝倉に味方した北近江(滋賀県北部)の浅井長政(あざいながまさ)を巻き込んで、それは、元亀元年(1570年)6月の姉川の合戦(6月28日参照>>)へと突入していきます。
もちろん、かねてより信長の態度に不満を抱いていた義昭は、これをチャンスとばかりに、未だ信長寄りの姿勢を見せていない各地の戦国大名や有力寺院に、自分の味方になるよう声をかけていき、この姉川から、わずか2ヶ月後には、あの石山本願寺も反・信長の姿勢となります(9月12日参照>>)。
やがて、元亀三年(1572年)、義昭期待の大物=甲斐(かい=山梨県)の武田信玄が動き始めます。
配下の秋山信友(のぶとも)に岩村城(岐阜県恵那市)の攻略を命じ、信玄自身は10月3日に甲斐を出陣・・・10月13日には一言坂の戦い(10月13日参照>>)、続く14日には二俣城を包囲し(10月14日参照>>)、二俣城攻略後の12月には、いよいよ三方ヶ原(2006年12月22日参照>>)、さらに、年が明けた元亀四年(天正元年・1573年)の正月早々、三河(愛知県東部)野田城を攻略します(1月11日参照>>)。
以前にもご紹介させていただいた通り(2008年12月22日参照>>)、この時の信玄の西上が、実際に上洛を目的としていたかどうかは微妙なところですが、この後の2月16日の日づけで、義昭の側近=東芳軒常在(とうほうけんじょうざい)に宛てた手紙の中で、去る1月に野田城を攻め落とした事を報告とともに、信長と決戦する意欲も見せていますので、そのまま京都まで行く気だったかどうかは別として、この先、義昭に味方となって信長を倒すつもりであった事は確実でしょう。
それこそ、他を圧倒する軍事力を持っていた信玄の参戦に、義昭は大いに心が躍った・・・と、同時に、信長は絶体絶命のピンチと感じていたに違いありません。
こうなったら強気の義昭・・・3月30日、京都諸司代の村井貞勝(むらいさだかつ)の屋敷を包囲して焼き払ったのです。
この義昭に対抗すべく、続く4月4日には信長が上京焼き討ち(4月4日参照>>) を決行・・・
ところが、信玄は上洛するどころか、ここでUターンし、甲斐へと戻ってしまいます。
そう、ご存じのように、4月12日に信玄が亡くなってしまったのです。
この時、「3年間はこの死を隠せ」との遺言を残したとされ、実際に、息子の勝頼(かつより)が、父・信玄の葬儀を行ったのは天正四年(1576年)4月16日なわけですが・・・(4月16日参照>>)
その死を知ってか知らずか、義昭は7月3日に再び挙兵・・・槇島城(京都府宇治市)に立て籠ったものの、わずか半月ほどで降伏(7月18日参照>>)・・・その後は追放の処分となってしまいました。
その後、信長は、8月には越前征伐を開始して(8月20日参照>>)、浅井・朝倉の両氏を滅亡に追い込みました(8月28日参照>>)。
とは言え、越前という所は、もともと、朝倉氏と対抗できるほどの力を持つ本願寺門徒の地でもあった(8月6日参照>>)わけで、先に書いた通り、本拠の石山本願寺が反・信長にて参戦している以上、越前の本願寺門徒も、一向一揆として信長への対抗姿勢を見せるため、朝倉を倒したとて、まだまだ油断はできない場所・・・
そんな頃、事実上、信玄の後継者となった勝頼が動き始めるのです。
一説には、「信玄の死す」の一報は、半年ほどで京都まで届いたとも言われていますので、この年が終わる頃には、おそらく信長の耳にも、その情報が入っていたものと思われますが、それこそ、記者会見があるわけでもありませんので、聞いたニュースが本当かどうかは半信半疑だったでしょうから、信長は越前にも、武田の動きにも注意を払わねばならなかった事でしょう。
かくして、明けて天正二年(1574年)1月27日・・・そんな信長のもとに、武田の軍勢が岩村へと侵入し、明智城(岐阜県可児市)を取り囲んでいるとの知らせが届きます。
早速、信長は、2月1日、尾張(愛知県西部)と美濃の軍勢を先発隊と派遣し、自らも出陣すべく準備に取り掛かります。
続く2月5日、準備整い、嫡男・信忠(のぶただ)とともに信長は出陣・・・その日のうちに御岳(可児郡御岳町)まで進み、翌日には、高野(瑞浪市)に陣を構えました。
とは言え、このあたりは非常に険しい山々が連なる場所で、なかなか身動きが取れず、思うように攻撃できない状況・・・
それでも、信長は「山々の奥深く入り込んで攻撃せよ」と、軍にゲキを飛ばしますが、やがて、「すでに明智城は落ちた」との一報が舞い込んで来るのです。
実は、武田勢に囲まれた明智城中で飯羽間右衛門尉(いいばさま うえもんのじょう)なる人物が武田勝頼に内通し、奇しくも、信長が出陣した天正二年(1574年)2月5日の日に、明智城は落城してしまっていたのでした。
「是非に及ばず」
さすがの信長も、すでに落ちてしまっていては、どうする事も叶わず・・・やむなく、明智城の事はあきらめ、高野と小里(瑞浪市)に備えのための砦を築いて配下の者を配置し、2月24日には、岐阜へと帰還すべく、現地を後にしました。
この後、勝頼は、カリスマ的存在だった父の影を払拭するかのように領地拡大に奔走し、やがては、あの長篠の戦いへと突き進んで行く事になりますが、そのお話は4月21日の【いよいよ始まる長篠城・攻防戦】>>でどうぞ
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コメント
武田信玄の「影武者」…という人が本当にいたのでしょうかねえ。
「義昭は7月3日に再び挙兵・・・槇島城(京都府宇治市)に立て籠ったものの、わずか半月ほどで降伏(7月18日参照>>)・・・その後は追放の処分となってしまいました。」…これは信長が追放したことになるのでしょうが,これをもって,室町幕府の終焉と私たちは学んできました。
しかし,歴史学者の中にもいろいろな考え方をする人がいるようで,最近では…どうなっているのでしょうか。
歴史は「自然科学」ではなく,「人文科学」に支えられているので…(自分でも行っていることが分からないのですが…。),いろいろな説が出てくるのは仕方がないですね。
…何だ,それは,自然科学も同じだ。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年2月 6日 (水) 10時11分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
本文でもリンクした槇島城の戦いのページ>>の最後の部分や、義昭さんの生涯をご紹介したページ>>にも、チョコッと書かせていただいてるんですが、私も、「義昭が京都を追放された時点での室町幕府滅亡」には合点がいってない派です。
義昭は、三好家が滅んだ後は毛利を頼って西国へ落ちますが、そこでも、慣例的な将軍の公務を行っていますので、やはり、「秀吉からのプレゼントの1万石の領地と引き換えに将軍を辞任する天正十六年(1588年)が、室町幕府滅亡」だと思うんですがねぇ。。。
まぁ、「事実上滅亡」という事なのでしょう。
投稿: 茶々 | 2013年2月 6日 (水) 14時10分