越中一向一揆~蓮乗VS石黒光義
文明十二年(1480年)2月18日、加賀を追われた一向一揆衆が、越中・瑞泉寺に集結している事を受けて、彼らを討つべく石黒光義が福光城を出陣しました。
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戦国時代に、100年に渡る「百姓の持ちたる国」を造った加賀一向一揆(6月9日参照>>)のお話ですが・・・
もともとは、あの応仁の乱(5月28日参照>>)で、加賀(石川県)の守護であった富樫政親(とがしまさちか)が東軍に、弟の富樫幸千代(とがしこうちよ)が西軍にて参戦していた時点で、すでに両者の間で取り合いになっていた加賀という場所・・・
それぞれがそれぞれの近隣の武将を味方にして取り合いが活発になる中、他の仏教勢力に京都を追われた蓮如(れんにょ)が、越前の吉崎にて吉崎御坊(ごぼう)建立した事で(7月27日参照>>)、地元の侍などを巻き込みつつ、一気に本願寺門徒が増えていく北陸地方・・・
その門徒たちの一向一揆としての武力に目をつけた政親は、幸千代が彼らと敵対する高田(たかだ)門徒を味方にしている事を幸いに、一向一揆を味方につけ、幸千代が本拠地としていた蓮台寺城(れんだいじじょう・石川県小松市)を攻め落とし、政親が加賀一国の守護となったのです。
これが、文明六年(1474年)に起こった加賀一向一揆の最初の一揆で、文明一揆(7月26日参照>>)と呼ばれます。
しかし、戦う時には頼った本願寺門徒の勢力ですが、いざ、その地を統治する側に立つと、その強大な力は脅威となります。
以前も書きましたが・・・
なんせ、「力がある」という事は、「上にたてつく」事もできるって事ですから・・・
やがて守護の威勢を脅かす状態になってしまった本願寺門徒たちに対して、政親は、弟との戦いの時に結んだ本願寺との同盟を破棄し、一転、門徒弾圧に乗り出すのです。
度々の政親の攻撃に、徐々に加賀を追われた門徒たちの多くは、越中(富山県)の井波(いなみ)・瑞泉寺(ずいせんじ・南砺市)に逃れます。
もちろん、この状況を打開しようと、門徒たちは、自分たちのトップである蓮如に使者を送り、政親と話し合って、何とか事を穏便に・・・と願うのですが、なんと、この願いを、蓮如の側近である下間蓮崇(しもつませんそう)が、蓮如に伝えずに握りつぶしたどころか、逆に、門徒に「戦え!」と命令したのです。
後で、この事を知った蓮如は、蓮崇を破門にし、文明七年(1475年)8月21日、過激になった門徒たちを鎮静化させるために、吉崎を去ります(8月21日参照>>)。
しかし、教祖様がいなくなった吉崎御坊は、すぐに、政親の命を受けた高田門徒に焼きうちされ、ほぼ壊滅状態となった加賀の信者たちが、ますます瑞泉寺へ集結する事となるのです。
この瑞泉寺は本願寺の末寺で、院主(いんす)は蓮如の子・蓮乗(れんじょう)・・・言わば、一向一揆の越中富山支店といったところでしょうか。
この状況を苦々しく思っていたのが、砺波郡(となみぐん=富山県砺波市)一帯を支配していた石黒光義(いしぐろみつよし)・・・加賀の脅威が、そのまま越中の脅威となったわけですからね。
・・・と、ちょうど、このタイミングで政親が光義に接触して来ます。
「最近、本願寺の僧や宗徒が、一揆とか起こしてムチャクチャやっとるさかいに加賀から追い出したったんやけど、どうやら、ソイツらが瑞泉寺に寄り集まっとるらしい・・・
君の軍勢で、瑞泉寺を焼き払うて、コイツらを根絶やしにしてくれへんか?」
てな内容の書状を送って来たのです。
なんだかんだで、政親は、お隣の守護大名ですからね。。。
エライ人のお頼みをコレ幸いに、「騒動が大きくなってからでは間に合わん」とばかりに、打倒瑞泉寺に動き出す光義・・・しかも、ここに来て、彼には強い味方が・・・
加賀と越中の国境あたりにあった医王山(富山県南砺市)惣海寺(そうかいじ)です。
惣海寺は壮大な伽藍を持つ天台宗のお寺・・・かの蓮如の登場以来、北陸の民衆が一気に浄土真宗に傾いていった事で、やはり苦々しく思っていたのです。
もちろん、光義らの動きを察知した瑞泉寺側も戦闘態勢に入ります。
急きょ、未だ瑞泉寺に来ていない近隣の門徒にも声をかけ、寺から少し離れた山田川付近に集結させます。
その数・・・ほとんどが農民だとは言え、約5000名・・・
かくして文明十二年(1480年)2月18日、惣海寺の宗徒を含む1600名の軍勢を率いて、光義は、居城の福光城(富山県南砺市福光町)を進発したのでした。
予想通り、山田川付近で石黒軍の先陣と一揆勢がぶつかり、激しい戦闘が開始されました(田屋河原の戦い)。
が、しかし、実は、一揆勢は、その軍勢を二手に分けておりました。
瑞泉寺の院主・蓮乗は、もともと二俣本泉寺(ほんせんじ=石川県金沢市)の住職だった人・・・それが、例の父・蓮如の吉崎退去にともなって、彼も本泉寺を追われてコチラ=瑞泉寺に来ていたわけで、当然の事ながら、蓮乗の指示に従う宗徒が、本泉寺にもいるわけで・・・
そう、この山田川で光義軍と戦いながらも、その本泉寺の宗徒=2000を別働隊として、越中に送り込んでいたのです。
その本泉寺隊は、さらに二手に分かれ、一方が惣海寺を焼き討ちし、一方が福光城を背後から攻撃・・・
前には山田川の本隊、後ろには本泉寺の2隊・・・光義軍は、見事に挟み撃ちにされてしまったのです。
もともと数の上では劣る石黒勢・・・思わぬ挟み撃ちで、もはや総崩れとなったしまった軍勢を目の当たりにして、光義は、やむなく安居寺(あんごじ=富山県南砺市)に落ちますが、そこをさらに追撃する一向一揆勢・・・
「もはや、これまで!」
と悟った光義は、この安居寺にて自刃しました。
こうして、砺波一帯は瑞泉寺の支配下となったのです。
これで盛り返して来るのが、加賀で逃げ隠れしたいた門徒たち・・・やがて、それは大きな勢力となり、最大の敵であった富樫政親を自刃に追い込む長享一揆という加賀一向一揆の中で最大の一揆となるのですが、そのお話は、また「その日」に書かせていただきたいと思います。
(ブログを始めて間もなくに、そのお話は1度書いておりますが、加賀一向一揆の初出という事で、一揆全体のあらすじのような内容になってしまっていますので…m(_ _)m)
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コメント
「一向一揆の越中富山支店といったところ…」
学校で使う教科書も、こんな書き方だったらなあ~
こんな書き方だったら、もう少し日本史や歴史に興味も持てたのに…
似たような名前(・・・一族じゃ、仕方ないか)の漢字ばかりで
流れが良く判らなかった ←小中学時代
でも、これを読んで、流れが良く判った
投稿: 夏原の爺 | 2013年2月19日 (火) 18時06分
夏原の爺さん、こんばんは~
わかりやすいと言っていただけるとウレシイです。
ありがとうございます。
投稿: 茶々 | 2013年2月19日 (火) 20時53分