美人の代表…小野小町、伝説の後半生
今日、3月18日は『小野忌』・・・あの小野小町の忌日とされています。
・・・て事で、昨年は、その小野小町(おののこまち)について書かせていただいたのですが、あれやこれやの都合上、前半生の部分だけになってしまっていましたので、本日は、それこそ伝説に彩られた後半生をご紹介させていただきます。
まだの方は、まずは、昨年のページから>>ご覧いただくとありがたいですm(_ _)m
・・・・・・・・・・
・・・と、あの紀貫之(きのつらゆき)(12月21日参照>>)に、「衣通姫のようだ」「なまめかしいイイ女だ」と絶賛された美貌のもと、数々の浮き名を流した恋多き女であった小野小町も、生きている人間である以上、歳はとっていくもので・・・
『百人一首』にもある、あの有名な
♪花の色は うつりにけりな いたずらに
わが身世にふる ながめせし間に ♪
の歌でもわかるように、歳とともに、その美貌の衰えを、ご本人自身が感じるようになるのです。
小野小町の邸宅跡とされる京都・隋心院
隋心院へのくわしい行き方は本家HP:京都歴史散歩「六地蔵から日野・醍醐・小野へ…」でどうぞ>>(別窓で開きます)
♪今はとて わが身時雨(しぐれ)に ふりぬれば
事のはさへに うつろひにけり ♪
「私が歳をとってしもたよって、アンタがかけてくれる言葉も、なんや、昔と違うみたに思うわ」
と、小町が言えば、
♪人を思ふ こころこの葉に あらばこそ
風のまにまに ちりもみだれめ ♪
「俺の心が葉っぱやったら、風に散らされるかも知れんけど…俺の気持ちは、そんなモンやないねんで」
と、やさしく答えたのは小野貞樹(おののさだき)という人・・・それこそ、生没年もわからず、貞観二年(860年)に肥後守(ひごのかみ)に任じられたとかのわずかな記録が残るだけの人ですが、おそらく、この時、小町の恋人だったのでしょうね。
さらに・・・
たぶん、上記の歌より晩年とおぼしき歌には、六歌仙の一人・文屋康秀(ぶんやのやすひで)からの「あがたみ(田舎見物?旅行?)」のお誘いに
♪わびぬれば 身をうき草の ねをたえて
さそふ水あらば いなんとぞ思ふ ♪
「わびしい暮らしやよって、誘てくれんねやったら、どこでも行くわよ」
と返答・・・かなり、切羽詰まった感じ???
・・・と、ここらあたりで、彼女の本当の姿に迫る事のできる史料は、ほぼ、終了です。
昨年のページにも書かせていただいたように、小野小町の実像がわかるような史料はほとんど無い中で、彼女が作ったとされる歌の数々を読み解きながら、その人となりを推測して行かねばならない・・・しかも、その歌も本当に彼女が作ったのかどうかも危うい場合もありで、結局は、伝説の域を越えないわけですが、
そんな中、彼女の伝説は人から人へと伝えられ、さらに室町時代頃になって、『謡曲』や『御伽草子』の題材となり、文章の形として残されるようになります。
・・・で、それらの題材となったとされるのが『玉造小町子壮衰書(たまつくりこまちそうすいしょ)』という平安後期に成立したとおぼしき作者不詳の詩文で、その中の、老いて町を徘徊する老婆が、
「昔、ウチは大金持ちのお嬢様で、来る日も来る日も、あんな贅沢やら、こんな贅沢やらして暮らしてたんやけど、親兄弟も死んで家も没落してしもて…」
と、往時の贅沢三昧を自慢しつつ、現在の悲惨さを綿々と語るという物語・・・
つまり、実際に登場するのは小野小町では無いのですが、昔から、小野小町がモデルとされ、小町の物語として読み継がれて来ています。
また、その内容が、「類い稀なる美貌を武器に贅沢三昧をして他を顧みなかった浅はかな前半生の裏返しとして、老後は、家も無くなり、夫も子もなく、路頭に迷う生活になってしまった」=「最後に人にさげすまれるほど醜く老いて朽ち果てるのも、因果応報…報いである」という教えっぽい感じになっている事から、おそらく、どこかの僧侶が著した書物と思われ、一説には弘法大師空海の作とも言われます。
ただし、あの吉田兼好(よしだけんこう)は『徒然草』(2月15日参照>>) の中で、
「小野小町が事、きはめて定かならず。衰えたるさまは『玉造』といふ文に見えたり…」
と、その内容を疑うとともに、
「小野小町が登場してくんのは、弘法大師が亡くなってからやろ」
と、すでに、この時代に指摘しています。
なので、この『玉造小町』の時点で、早くも伝説なのですから、さらにそれを題材にした謡曲や御伽草子となると、もっと伝説という事になるわけですが、やはり、興味をそそられるのは、その伝説がどこまで事実に近いか?という事よりも、なぜに、そのような伝説となったか?の方ですね~
観阿弥(かんあみ)作の謡曲『卒都婆小町(そとばこまち)』では、
高野山を出て都に来た僧が、倒れた卒塔婆(そとば=供養のために経文などを書いてお墓の後ろに立てる縦長の木片)に腰掛けて休憩している乞食の老婆に、
「それは、仏体そのもやねんから、そんなとこに座ったらアカン」
と注意をすると、
「そんなん…もう、字も見えへんようになってるし、こんなんただの朽木やん」
と、老婆が反論・・・
さらに僧が、
「朽木の中にも花を咲かすもんもある…まして、仏体を刻んでる木やねんから…」
と続けると
「ワテも見た目は朽木やけど、心には花を持ってる…むしろ、手向けになってええんちゃうん?」
と、ああ言えばこう言うの問答をくり返し、結局、僧を説き伏せてしまうのです。
老婆の説法のスゴさに驚いた僧が、その名を聞くと、それは100歳になった小野小町であったと・・・
しかも、現在の小町は、若き日に愛を告白され、「百日通ってくれたらつき合ってア・ゲ・ル❤」と約束しながらも、99日通った後の100日目に亡くなってしまった深草少将(ふかくさのしょうしょう)の怨霊にとりつかれているという設定になってます。
とは言え、さすがに能楽を大成した観阿弥の作だけあって、落ちぶれた老後を描いてはいるものの、その教養の高さも垣間見え、学識が高いが故に悩まされる哀れさなどもあって、そこに悪意はありませんが、
逆に、悪意に満ちた伝説が『あなめ伝説』です。
これは、もともとは『日本霊異記(にほんりょういき)』にあるお話で、
ある男が、深草の市に向かう途中に原っぱを通りかかると
「あなめ、あなめ…(あぁ、眼が痛い)」という苦痛にうめく声が聞こえる・・・
ふと見ると、そこには野ざらしのドクロがあり、その空洞の眼のくぼみから1本のススキが生えているのに気づき、それを抜いてやると、ドクロからお礼を言われた・・・というもの・・・
と、このように、大もとの話は、小町とは関係ないのですが、なぜか、またぞろ、この話が小町と結びつけられ、このドクロは小町のドクロという伝説になるのです。
絶世の美女が老婆となり、最後にはドクロ・・・
おそらく、実際の小野小町は、年齢とともに、その美貌に衰えを感じ始めた頃で、その消息を絶ち、その先はわからない・・・にも関わらず、その後伝説が付け加えられる・・・
それって・・・
ひょっとして、平安の世の男性は、よほど美人に翻弄され、その美人のために人生を棒に振った経験があるのでは?
だから・・・
そんな美人に惑わされて道を踏み外さないよう
「こんな美人もいつか老婆になって、いつか亡くなるのだ」という事を、日頃から肝に銘じ・・・そういう戒めのために生まれた伝説なのではないでしょうか?
美人の代名詞としてターゲットにされた小野小町さんは、それこそ、お気の毒としか言いようがありませんが・・・
と同時に、今も昔も、あいも変わらず美人に弱い男性諸君よ!!
どないかならんのかいな??(^-^;
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コメント
茶々さま、こんにちは。
私は、『かの美女で有名な小野小町さんも、歳とった顔はそれはもうしわくちゃで、見る影もなかったそうやで。歳には勝てんということや。』
ってな感じで、伝え聞いていますよ。
そりゃ、昔は、パックもエステもなかったわけですから、いくらセレブな姫君でも、お肌の曲がり角は何倍も早く、さぞやえげつなかったことでしょう^^;
『大きなお世話よ。放っといて!』って、泉下の小町さんは、仰ってることでしょうね(笑)
投稿: 真田丸 | 2013年3月19日 (火) 18時03分
「私が歳をとってしもたよって、アンタがかけてくれる言葉も、なんや、昔と違うみたに思うわ」と、小町が言えば
「俺の心が葉っぱやったら、風に散らされるかも知れんけど…俺の気持ちは、そんなモンやないねんで」と、小野貞樹
↑関西(大阪)弁?
京言葉だと、雰囲気があるけど…
関東(江戸)弁や、東北弁、鹿児島弁だと…
ましてや、山梨弁や静岡弁…
勝手に言葉を変えて想像すると、相当イメージが違うな…
(ゴメン!)
投稿: 夏原の爺 | 2013年3月19日 (火) 18時21分
真田丸さん、こんばんは~
サギ写の写メでごまかす事もできませんからね~(笑)
投稿: 茶々 | 2013年3月19日 (火) 20時03分
夏原の爺さん、こんばんは~
大阪弁しかしゃべれないもので…(*´v゚*)ゞ
投稿: 茶々 | 2013年3月19日 (火) 20時04分
茶々様
こんばんは。
茶々様は何でもご存知の“知識人”ですね~。
今回のブログ…和歌を楽しませてもらいました。
女性も男性も(特に女性は?…これは怒られそう)…若かりしときの方が素敵なのかな?
本日の私の感想というか,まとめ…
「花は盛りに 月は隈なきのみを見るものかは」…。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年3月19日 (火) 20時13分
鹿児島のタクさん、こんばんは~
♪乙女の姿しばしとどめん~♪
と、坊さんでも思うくらいですから、見た目が若く美しいに越した事はないのでしょう。
投稿: 茶々 | 2013年3月19日 (火) 20時29分
夏原の爺 様
本ブログ愛読者 様
確かに鹿児島弁だと,何となく雰囲気が崩れるかもしれませんね。(笑)でも,それは,共通語エリア,また,関西エリアの大きな方言エリアの方々からはそう思われるでしょうね。
確かに,関西弁(京言葉・大阪弁)は,短歌の現代語訳に…特に男女間でしょうか,なんかいい感じですね。
私は鹿児島人で年齢的にも,割と鹿児島弁を操られますから…。
「じゃっドン,鹿児島(かごっま)弁でん,男女ん言葉ん,やりとりゃ,よかふぃ言(ゆ)がなったっでなあ。(笑)」(共通語訳:そうですが,鹿児島弁でも,男女間の言葉のやりとりの機微は,上手に言い表すことができるのですよ。)
…うまく鹿児島弁に直せませんでした。鹿児島弁は文字に表現すると面白みが半減します。(発音記号を使わないと正しく文字化するのは難しいと思われます。鹿児島でも地方に行けば行くほど!)
と言うか,県外の人は分からないと思います。文字にすると,フレーズの流れ,アクセントが消えてしましますから。
当然,残念ながら,若い鹿児島人はここまでの鹿児島弁を使いこなせません。また,一概に鹿児島弁と言っても,それぞれの地域でかなりことなります。
こういう私も先輩方からは,「お前のかごっま弁は,なっちょらん!」とがられて(がられる=怒られるの意)います。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年3月20日 (水) 07時22分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
方言をそのまま文字にするのは難しいですね~
おそらく、鹿児島をはじめとする九州の方々も、いや、全国の方々がそうでしょうが、地元からみると、ほんの少し離れただけで、もう、言葉が違います。
それもあってか、関西の人で自分たちの方言の事を「関西弁」という人はほとんどいませんね。
特に、京都弁と大阪弁は大きく違いますから…
でも、それを文字で伝えるのは難しいです。
投稿: 茶々 | 2013年3月20日 (水) 14時06分
小野小町伝説って「美貌と才能を鼻にかけての傲慢な振る舞いの報いで、見る影もなく零落し苦しむ」系のものが多いですね。やはり仏教の因果応報を説くのにアレンジされたのでしょうか。
おそらく実際の小町の老後は、若いころの華やかな暮しには及ぶべくもないが、質素にしていれば暮らしていけぬことはない穏やかな隠棲生活。少数の使用人に看取られながら初老で亡くなり、本人も使用人も子供がいないために、使用人も亡くなった後は祭祀をする人もいなくなり…というところだったんじゃないかな~と考えています。そうであってほしいと私としては思います。
投稿: おぺりん | 2013年3月21日 (木) 19時08分
おぺりんさん、こんばんは~
おっしゃる通り、
若い頃のように華やかでは無いけれど、特別不幸では無い晩年を過ごされた事を願うばかりですね~
投稿: 茶々 | 2013年3月22日 (金) 02時45分