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2013年3月 6日 (水)

流浪となっても次世代へつないだ家康の父・松平広忠

 

天文十八年(1549年)3月6日、三河岡崎城主松平広忠が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

松平広忠(まつだいらひろただ)・・・ご存じ、あの徳川家康のお父さんですが、「超有名な家康のお父さんが?w(゚o゚)w」って驚くほど、その人生に諸説ある人です。

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これ、ひとえに、最終的に戦国の勝者となった家康の経歴詐称による物と考えておりますが・・・(←あくまで個人的な感想です(*´v゚*)ゞ)

なんせ家康は、江戸時代という250年の長きに渡る長期政権を実現した事で、その江戸時代に、徳川家の『公式記録』となる物が複数書かれるわけですが、

現在でこそ、『公式記録』と聞くと、「冷静で公平な第三者的な目線から見た記録」的なイメージを抱きますが、この時代の『公式記録』は、あくまで、徳川家のための記録なわけで、

今で言えば、アイドルを売りだす時のプロモーションビデオみたいな物?・・・プロのメイクにプロのスタイリストがついて、光と影を駆使したプロのカメラマンに何時間も撮影してもらった物から、ええとこどりして編集し、さらにCG処理してシミとシワを消す・・・とまでは行かないまでも、実際に直で見たら「こんな人やったっけ?」てな事にもなるわけで・・・

まぁ、『公式記録』を書いてる人も徳川家に雇われてるので、上の人に、より気に入ってもらうためには、神君家康公は子供の頃に苦労して我慢して、やがては天下を取った的な感じで「徳川バンザイ」「家康さんカッコイイ!」的に、なるべく良く書こうとするのは致し方ないところです。

そんなこんなで、公式記録に多少の違いはあるものの、とりあえずは、このブログ初登場の松平広忠さんですので、まずは、一般的な感じをご紹介させていただきます。

大永六年(1526年)頃、三河岡崎城の城主・松平清康(きよやす)の息子として生まれた広忠・・・

この清康という人は、西郷氏から岡崎城を奪取した後、三河(愛知県東部)の国人たちを制していったツワモノで、東は駿河(静岡県東部)今川氏親(うじちか=義元の父)、西は尾張(愛知県西部)織田信秀(のぶひで=信長の父)とも互角に戦った、松平の戦国初代と言える人物・・・

ところが、この清康が、天文四年(1535年)に尾張森山(守山=愛知県名古屋市守山区)まで進攻した時、なぜか(織田の関与があったとも)、その森山の陣中で、家臣の阿部正豊(あべまさとよ)に斬りつけられて亡くなってしまいます(12月5日参照>>)

未だ25歳という若さ・・・世に『森山崩れ』と呼ばれる事件ですが、これによって、わずか10歳の広忠が家督を継ぐ事になったのです。

と、「継ぐ事になったのです」って言っても、この状況で何事も起こらないわけは無く・・・

当然、これをチャンスと見た一族の松平信定(のぶさだ)に謀反を起こされて岡崎城(愛知県岡崎市)を失い、この後、しばらくは、伊勢やら遠江を流浪する亡命生活を送る事になります。

そんな中、叔母(父の妹)の嫁ぎ先という縁で、吉良持広(きらもちひろ)の庇護を受けるうち、やがて今川義元の支援を受ける事となり、その後押しで、岡崎城の奪還に成功し、天文十一年(1542年)ようやく帰城・・・

やっと落ち着いて、三河刈谷城(愛知県刈谷市)の城主・水野忠政(ただまさ)の娘・於大(おだい)正室に迎え、まもなく、二人の間に長男の竹千代が生まれます(8月28日参照>>)・・・これが、後の家康ですね。

ところが、天文十二年(1543年)に、忠政が亡くなると、その後を継いていた於大の方の兄・信元(のぶもと)が、今川家と絶縁し、織田へと寝返ってしまったのです。

これまで支援してくれた今川家との関係を重視した広忠は、於大と離縁・・・彼女は水野家へ返されてしまいます。

しかし、そんな中でも激しくなる一方の織田勢との抗争・・・なんせ、この頃は、尾張だって統一されてませんから、敵となるその織田勢も信秀一人では無いわけですから・・・

やがて天文十四年(1545年)、信秀の三河進攻に際して、今川に支援を求める広忠ですが、その交換条件として、息子・竹千代を人質に差し出す事に・・・

が、しかし・・・
これが、以前書かせていただいたように、広忠が後妻として迎えた女性の父である田原城主・戸田康光(とだやすみつ)の裏切りによって、事もあろうに、途中で織田に奪われてしまうのです(8月2日参照>>)

もちろん、今川に行くはずの竹千代を奪った信秀としては、
「息子の命を助けたいねやったら、コッチの味方になれや」
って事なわけですが、

広忠の答えは、NO!
「我が子への愛に迷う事はできぬ!」
とキッパリと断わります。

てか、広忠にとって、もはや今川の援助失くしては松平家を維持していけない状況で、それこそ、戦国武将たる者、今川に人質に出す時点で、「我が子の命は相手次第」という覚悟を決めているわけで・・・

こうして、父・広忠がキッパリ断わってしまった事で、人質としての価値もなくなった竹千代君ですが、
とにもかくにも、価値が無くなったからとして殺されなくて良かった良かった(*^-^)

・・・で、この後も、今川と一致団結して織田との戦いに挑む広忠でしたが、そんなこんなの天文十八年(1549年)3月6日、家臣の岩松八弥(いわまつはちや)によって斬られ、その傷がもとで、24歳の生涯を終えたとされます。

とは言え、それこそ、死因についても諸説あります。

病死とする文献もあれば、国内で一揆が起こって、その混乱で殺害されたという物も・・・

ただ、この頃に亡くなったであろう事は確かで、そうなると、その後の動向に悩むのが、広忠の家臣たち・・・

なんせ、当主が亡くなって、その後継ぎは、現時点では敵対する織田にいるわけですから・・・

しかし、どんな状況でも、揺るぐ事無く今川について来てくれる松平は、弱小とは言え、今川にとって大事な相手なわけで・・・(松平には三河という領地もついて来ますしね)

そこで、一役かうのが今川の軍師・太原雪斎(たいげんせっさい・崇孚)・・・竹千代を奪還すべく、信秀の息子・織田信広(のぶひろ)が守る安祥城へと攻め込むのですが・・・その安祥城の戦いについては11月6日のページで>>

とは言え、三河統一を果たした父・清康と、最終的に戦国時代の勝利者となる家康に挟まれて、何かと愚将扱いされる広忠さんですが、それこそ、戦いには相手という者があり、その相手は、自分の計算通りには動いてくれないもの・・・

結果的に、家康が最終的な勝者となれたのも、ここに広忠という人がいてくれたおかげ・・・

奥さんと離縁しようが、息子が拉致されようが、その意志を貫いて、今川に踏みとどまってくれたおかげで、松平家を潰す事無く次世代へつないでいけたわけで・・・

「終わり良ければすべてヨシ!」・・・その点では大いに評価できるかも知れませんね。
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コメント

家康さんが生まれた時、お父さんが17歳で、お母さんが 15歳だったそうですね。

投稿: やぶひび | 2013年3月10日 (日) 18時10分

やぶひびさん、こんばんは~

そうですね~
昔は、20歳過ぎたら、もう、オバサンですからね~(^-^;

投稿: 茶々 | 2013年3月11日 (月) 00時57分

ここら辺の事情にも最近詳しい研究のメスが入っているようですね

もともと広忠を担いだ大久保忠員らは家中の発言権で優位に立とうとしただけのようですが、さらに石川清兼が広忠派として今川家とつながるというウルトラCを成功させて形勢逆転、織田信秀は失意劣勢の中で病死し、さらに信長・信勝の争いへとなだれ込む訳ですが。。

元はといえば松平清康が足元の桜井信定らを完全に支配化におかないうちに尾張に踏み込んで暴れまくった為という気がしなくもないです。

酒井忠尚などは特に広忠の忠臣という感じで、家康が今川氏真に敵対するのに最後まで抵抗し行方不明になったようですが、広忠の苦難を目の当たりにしている者としてそもそも清康を彷彿とさせる軍略主義に家康も傾倒していることに賛成でなかったのではないかと個人的には考えています

投稿: ほよよんほよよん | 2014年3月23日 (日) 03時20分

ほよよんほよよんさん、こんにちは~

三河武士の忠義の話は古文書にも多く登場しますが、一方では清康や広忠の死際を見てもわかる通り、皆が忠義一途では無かったわけで…

家康は不遇の時代に、祖父や父の状況を垣間見、学んで、自らの作戦に活かしていったんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2014年3月23日 (日) 13時48分

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