女戦国大名・寿桂尼…「死んでも今川を守ります!」
永禄十一年(1568年)3月14日、女戦国大名と称される今川寿桂尼が、この世を去りました。
・・・・・・・・・
つい先日、亡き夫に代わって、男顔負けの領国経営をやってのけた女戦国大名=「鬼瓦」こと赤松洞松院(とうしょういん)さんをご紹介させていただきましたが・・・(3月11日参照>>)
今回の寿桂尼(じゅけいに)さんも・・・
と言うより、洞松院さんの場合は、未だ応仁の乱(2008年5月20日参照>>)の雰囲気も冷めやらぬ頃であり、幕府権力も失墜とまではいかない戦国も初頭で、群雄割拠というほどでもない時代・・・しかも、当時の最高権力者であった管領=細川政元(まさもと)(6月23日参照>>)の妹であり、応仁の乱をけん引した細川勝元の娘であったわけで、言わば武家の頂点とも言える家柄だった・・・
しかし、寿桂尼さんの場合は、時代は、まさに群雄割拠の真っただ中で、しかも、ご本人は、京都の公家=中御門宣胤(なかみかどのぶたね)の娘・・・おそらくは、雅なお姫様としての教育は受けていても、領国経営など、武家としての教育は受けて来てはいないはず・・・
そんな中で、(失礼ながら)どこの馬の骨ともわからぬ、武力第一の戦国武将を相手に女当主をこなしたのですから大した物です。
そんな彼女は、その生まれた年もわからず、駿河(静岡県東部)の守護=今川氏親(うじちか)に嫁いで来た年も、はっきりとはわかっていません。
様々な文献に残る出来事や、亡くなった頃の雰囲気から、おそらくは永正二年(1505年)頃に、15歳前後で結婚したと考えられていますが・・・
その頃のお公家さんは、それこそ「生きるか死ぬかの瀬戸際」に立たされていたわけで・・・
というのも、今回、寿桂尼さんが正室となった氏親の今川氏は、いわゆる守護大名・・・つまり、室町幕府から正式にその場所を治めるよう言い渡された由緒正しき領主なわけですが、この頃は、その守護大名から戦国大名への転換期とも言える時期なのです。
それまでの守護大名は、領地経営など、現地の事はほとんど守護代に任せて、自らは京都にいる事が多かったわけですが、そうやって留守にしている間に、守護代やら、配下の者に、武力で以って領地を奪われて・・・いわゆる戦国の定番=下剋上ですね。
ご存じのように、公家の収入源は荘園なわけですが、実力でその領地を奪った戦国大名から、それまで通りの年貢を納めてもらうなんて事は期待でき無いわけで、奪われたぶん、即座に収入が減ってしまう事になるわけです。
なので、お公家さんとしては、何とか有力武将とイイ関係になって、荘園を守ってもらい生活の安定を計らねばならなくなって来る・・・
そんな中、中流公家の中御門宣胤は、由緒正しき守護大名の家柄である今川家の中でも、特に文化的にも貴族たちとの交流が深かった氏親の曽祖父=範政(のりまさ)から、若き日に『万葉集』の口伝を受けた事もあるほどの親しさ・・・ここは一つ、「家柄&武力ともに1級品の今川家との縁を強めなければ!」と相なったのです。
こうして、都から駿河へと嫁ぎ、氏親の正室となった寿桂尼・・・(もちろん寿桂尼は夫を亡くして出家してからのお名前ですが、それ以前のお名前がわからないので、本日は寿桂尼さんと呼ばせていただきます)
・・・で、文献によって様々なので諸説ありますが、一応、氏親さんの子供とされる人物が男子:6人、女子:7人、合計13人いると言われている中で、寿桂尼さんが産んだとされているのが、長男の氏輝(うじてる)と、五男の義元(よしもと)と、後に北条氏康(うじやす)に嫁ぐ瑞桂院(ずいけいいん)という女の子の3人と言われます。
とは言え、当然ですが、夫の氏親が元気な間は、寿桂尼さんも、ごくごく普通の守護大名の嫁として奥さんに徹していたわけで、いわゆる表舞台に登場する事は無かったわけですが・・・
そんな中、その氏親が、大永六年(1526年)に病死し、後を継ぐべき長男の氏輝が、未だ14歳で、前年に元服を済ませたばかりの若さであった事から、生母である寿桂尼が、その後見人として補佐する事となり、彼女が表舞台に登場して来るのです。
いや、しかし・・・これは、いきなり登場では、おそらくありません。
・・・というのも、由緒正しき今川家には、それこそ、由緒正しき譜代の家臣も大勢いて、実力のある武将も多く、若き氏輝の補佐役には事欠かなかったはず・・・そんな中で、寿桂尼が後見人となるのは、生母だからという理由だけではなく、やはり、それまでに、その実力を、皆が知っていたという事でしょう。
そう、実は、もともと体が弱かった夫の氏親さんは、けっこう前から病床についており、思うように政務をこなせなかった事が伺える記録が多く残ります。
そんな中、今川家では、氏親の名で、当時としてはめずらしい『今川仮名目録』という法律を発布していますが、これは、検地を実施してこれまでの土地所有制度から脱皮し、分国法を制定して室町幕府からのしばりからも脱皮するという・・・それこそ、幕府政権下の守護大名から、今ハヤリの戦国大名へ、今川家が脱皮した事を物語る物ですが、
この法律の発布が、氏親が亡くなる、わずか2か月前の事・・・もはや、その頃の氏親は寝たきりになっていたと言われていますから、おそらく、その制定に寿桂尼が大きく関わり、晩年の氏親の政治を支えていた物と思われ、彼女自身も、自らの手腕に自信を持っていたし、周囲も大いに認めていたという事ではないでしょうか。
こうして、当主交代から2~3ヶ月後の頃から、今川家が発給する文書に彼女の名前が見えるようになります。
おもしろいのは、この時の寿桂尼さんの文書・・・一般的には、戦国大名が発給する文書には、自身の書である事を証明する(直筆でなく右筆が書いた物であっても、自らの意図示す場合)「花押」というサインというか直筆マークというか・・・そんなのを本人が書くわけですが、
彼女の場合は、そこにハンコが押されています。
もちろん、花押も作れなくは無かったでしょうが、当時の正式文書には書札令というなんやかんやと制約される決まりのような物があったので、女の身の彼女では作るのが難しかったのかも知れませね。
・・・で、これが『歸(とつぐ)』という「帰」の旧字で、男性の使用するハンコに比べると少し小ぶりな物・・・研究者の間では、これは、中国の古い詩にある
♪之子(このこ)于(ここ)ニ歸グ、其ノ室家ニ宣シ♪
からとった「歸」では無いか?とされ、おそらくは、父=宣胤が、お嫁入り道具の一つとして彼女に持たせたのではないか?と言われています。
とにかく、こうして2年間、息子に代わって政務をとった後、大永八年(1528年)、16歳に成長したわが息子=氏輝に、速やかににバトンタッチ・・・と行きたいところですが、どうやら、未だ氏輝は、少々頼りなかったようで、わずか半年で、またまた寿桂尼さんの発給文書が見られます。
結局、享禄五年(1532年)頃になって、やっと氏輝が常に文書を発給する状況となっている事から、おそらくは、そのあたりまで、彼女がサポートしていたのでしょう。
その後は、しばし、静かになり・・・いわゆる、夫を亡くした妻の一般的な過ごし方=夫の菩提を弔う日々を過ごしていたようです。
しかし、それから、わずか4年後の天文五年(1536年)3月17日に、またまた急展開・・・その氏輝が24歳の若さで亡くなってしまうのです。
もともと身体が弱かった事から、病死と言われますが、「水死」とする文献もあり・・・さらに、同じ日に彦五郎なる次男も亡くなったとの話もあります。
ただ、この彦五郎なる人物は、寿桂尼の産んだ子との見方もありますが、そうでない可能性も高く、さらに、実在の人物では無い可能性があるほど史料が少なく、もちろん、死因を記した記録も残ってはいません。
ただ、もし、この二人が、同じ日に亡くなったのが事実だとするならば、6人いたとされる氏親の息子のうち、この二人を除けば、六男の氏豊(うじとよ)が尾張(愛知県西部)の今川家に養子に入った以外の三男・四男・五男は、すべて僧になっていた・・・つまり、今川を継ぐ武将として今川館にいた二人が、二人とも同時に亡くなった事になるわけで・・・
故に・・・ドラマなどでは、その領国経営ぶりに「この後の今川家を氏輝に任せられない」と判断した寿桂尼が、自らの策略で、わが息子を死に追いやった風に描かれますが(ドラマだと、その方がオモシロイ)、当然、真相は薮の中です。
・・・で、上記の通り、後継者がいなくなった中、四男の象耳泉奘(しょうじせんじょう )は最初から後継者争いに参加しなかった(この方は後に奈良の唐招提寺にて高僧となっていますが、氏親の四男以外にも義元の息子とする説もあり、正史としては今川家出身という以外の事はよくわかっていませんので息子に数えない場合もあります)ので、今川の後継者は、三男の玄広恵探(げんこうえんたん)と五男の梅岳承芳(ばいがくしょうほう)の間で争われる事になりますが、
先に書いた通り、この五男が、寿桂尼の実子で後の今川義元・・・三男は、側室の子供という事ですので、当然、寿桂尼は実子の味方として、即座に、時の将軍=足利義晴(よしはる)に、義元への相続を願い出ています。
この素早さもあって、上記のような疑惑が生まれて来るのも、致し方無いところです。
が、しかし、その将軍家からの許可書類が出されるのは、氏輝の死から2ヶ月後の5月2日・・・そのため、この間に両者の武力的な衝突=花倉の乱(6月10日参照>>)が勃発し、敗色が濃くなった玄広恵探は、その許可書類の存在を知ってか知らずか、自ら命を発ち、名実ともに、今川の後継者は義元という事になりました。
ちなみに、このドサクサの中で、「寿桂尼が玄広恵探側に寝返った」と、武田家家臣の駒井高白斎(こまいこうはくさい)の『高白記』に書かれている事から、そのような見方をする研究者もおられるようですが、一方では、先の将軍家の許可書を得た寿桂尼が、乱を早く終わらせようと、その書類を持って玄広恵探側についている福島氏のもとを訪れたものの、福島氏がそれを保留にしてしまったという経緯があり、その事が、部外者である武田の家臣から見て、寿桂尼が福島氏に走ったと勘違いをしたのではないか?との見方から、寿桂尼は、一貫して義元の味方であったとの意見もあります。
私としては、やはり後者・・・寿桂尼は、一貫して義元推しだったと思います。
なんせ、この後は、義元の教育係でもあった太原崇孚(たいげんすうふ・雪斎)という心強い参謀がいた事で、彼女は、孫を連れて温泉旅行に出かけたりなんぞして、ゆっくりとした平穏な日々を過ごしていた事がうかかえますから、やはり、夫の死後、ずっと抱え続けていた重荷を、やっと下ろしたという感じだったのではないでしょうか。
しかし・・・
ご存じのように、それから24年後の永禄三年(1560年)5月19日、義元はあの桶狭間で織田信長に討たれてしまいます(5月19日参照>>)。
その8年後の永禄十一年(1568年)3月14日に寿桂尼は、おそらく80歳前後で亡くなりますので、この先、孫の氏真(うじざね)が継いだ後の、今川の転落ぶりを、見る事なくこの世を去るのですが、
その死の寸前に残した遺言は・・・
「我が墓を、今川館の艮(うしとら)の方角に建てよ」
艮の方角とは、ご存じ東北=鬼門・・・
そう、彼女は、死んでもなお、今川家を守りたかったのです。
残念ながら、その思い空しく・・・義元時代に結んだ同盟を破棄した武田信玄が駿河への進攻を開始するのは、彼女の死から、わずか9ヶ月後、その年の12月の事でした・・・【武田信玄・駿河に進攻~薩埵峠の戦い】参照>>
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コメント
今川寿桂尼も来年の大河ドラマに出ますね。
来年は「大黒柱になった女性がキーワード」になりそうです。
「2017年の大河ドラマがなぜ井伊家の人物なのか?」と思っていたんですが、井伊直政に官位が追贈されてから2017年で100年なんですね。
もう撮影が始まったようです。
投稿: えびすこ | 2016年9月 9日 (金) 10時41分
えびすこさん、こんばんは~
そうなんですか~
再来年は西郷さんの記念の年なんだとか…
だったら、大坂の陣400年の時に「真田丸」をやって欲しかったですけどね~残念(><)
投稿: 茶々 | 2016年9月10日 (土) 04時36分
寿桂尼の存在を初めて知ったのは、今から29年前に放送された、NHK大河ドラマ「武田信玄」において、今は亡き岸田今日子さんが演じたからです。まさしく、戦国時代の女傑にして、今川家のゴッドマザーと言える存在感でしたね。寿桂尼は、孫である今川氏真を後見したわけですから、優れた政治手腕を発揮することで、武田信玄(出家前は、晴信)を恐れさせたのではないでしょうか。おそらく、信玄が最も恐れた女性だったような気がします。それこそ信玄は、寿桂尼が生きてる間は、駿河攻めを開始することはできなかったでしょう。そして、寿桂尼が死去した後は、駿河攻めによって、氏真は、大名としての地位を失いましたが、氏真の子孫が幕末の時代まで存続したことが、最終的には、寿桂尼にとっての救いになったかもしれません。
投稿: トト | 2017年4月 5日 (水) 07時51分
トトさん、こんにちは~
「武田信玄」は見てませんでしたね~多忙な頃だったので…
寿桂尼さんは戦国屈指の女傑ですね。
投稿: 茶々 | 2017年4月 5日 (水) 10時38分