南北朝~京都争奪の八幡合戦
正平七年・文和元年(1352年)3月24日、八幡に陣取った南朝軍を、北朝軍が攻撃・・・八幡合戦が開始されました。
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ともに鎌倉幕府を倒し(5月22日参照>>)ながらも、後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が【(8月19日参照>>)、反旗と翻して京都に攻め昇り(6月30日参照>>)、光明(こうみょう)天皇を即位させて(8月15日参照>>)開いた室町幕府が北朝・・・
一方、尊氏によって京都を追われた後醍醐天皇が吉野で開いた(12月21日参照>>)のが南朝・・・
*さらにくわしい個々の出来事については【足利尊氏と南北朝の年表】>>から、それぞれのページへどうぞ
その延元元年・建武三年(1336年)から、約半世紀に渡る南北朝時代が始まるわけですが、あの鎌倉討幕の頃から、後醍醐天皇の手足となって働いた楠木正成(くすのきまさしげ)や新田義貞(にったよしさだ)は途中の合戦で討死し、その後醍醐天皇も延元四年・暦応二年(1339年)8月に崩御(8月16日参照>>)・・・
この間、おおむね北朝優位に展開する中で、南朝は京都を奪回する事すらできていませんでしたが、正平五年・観応元年(1350年)になって、尊氏と弟の直義(ただよし)の内紛=観応の擾乱(じょうらん)が勃発(10月29日参照>>)・・・直義討伐のため、尊氏は関東へと向かいました。
この間、兄に反発する直義が南朝に降ったかと思えば、入れ換わりに尊氏が南朝に降ったり、執事の高師直(こうのもろなお)が討死したり(2月26日参照>>)しながらも、正平七年・文和元年(1352年)の正月に尊氏が直義を拘束(その後病死)・・・
これで、何とか北朝の内紛については一件落着したものの、今回のゴタゴタをチャンスと見た亡き新田義貞の息子=新田義興(よしおき=義貞の次男)、義宗(よしむね=義貞の三男)、脇屋義治(わきやよしはる=義貞の甥)らが挙兵し、小手指原の合戦などを展開して鎌倉を占拠・・・(2月20日参照>>)
危機一髪をくぐりぬけながらも何とか勝利して、鎌倉を奪回する尊氏でした(2月28日参照>>)。
この時、留守となった京都を預かった尊氏の息子=義詮(よしあきら)は、父がいない京都を守るためのかりそめの和睦を、亡き後醍醐天皇の後を継いでいる皇子=後村上(ごむらかみ)天皇に打診します。
これを受けた後村上天皇は、あっさりと承諾・・・それは、義詮の企む「かりそめ」を知って、わざと和睦に乗ったのです。
後村上天皇の作戦は、このあいまいな間にさっさと、自分の京都行きを承諾させて、その京都行きを完全武装で決行し、「そのまま、京都を奪ってしまおう」というもの・・・
こうして、正平七年・文和元年(1352年)2月26日、幕府には、天皇の警固のためと偽って完全武装で吉野を出立した南朝勢は、閏2月27日の朝、突如として京都市中に乱入し、京の町を制圧・・・義詮は、命からがら近江(滋賀県)へと退却する事となってしまいました。
ただ、制圧したとは言え、上記の通り、市中は戦闘状態・・・「今は危険」と判断した後村上天皇は、北畠親房(きたばたけちかふさ)・顕能(あきよし)父子らを京にやって政務を行わせ、自身は京都市中には入らず、八幡(京都府八幡市)に滞在します。
ここで、後村上天皇により、御所を吉野の賀名生(あのう)に遷すと言って、北朝3代の崇光(すこう)天皇をはじめ、先代の光明院、先々代の光厳(こうごん)院、皇太子らを吉野へと向かわせたのです。
一方、近江へと退いていた義詮のもとには、父=尊氏の関東での勝利の一報が届き、息子としても、ここは1発、再起をかけねばなりません。
もちろん、東国での尊氏の勝利によって、義詮のもとにも北朝を支援する武将が続々と集まってくる・・・
こうして、再起の決意をした義詮が、3月11日に近江を発ち、17日に東寺に入って、そこに陣を置くと、この動きを知った北畠顕能が、速やかに都を去って、男山(京都府八幡市)の麓に陣を取り、戦闘準備に入ります。
なんせ、石清水八幡宮のある男山は天然の要害・・・防戦するには、コチラに陣を構えた方が有利です。
かくして正平七年・文和元年(1352年)3月24日、南朝から寝返っってきた赤松則祐(そくゆう・のりすけ)の援軍を得て士気もあがる義詮勢は、30000騎の大軍を率いて宇治方面から木津川を渡り、洞ヶ峠に陣を構えます。
またまた同じ地図で恐縮ですが・・・
先日の赤松則村の山崎合戦(3月15日参照>>)でも、明智光秀(あけちみつひで)の山崎の合戦でも使用した地図(←)
「どんだけ、ここは、京都にとって重要なポイントなんだ?!」 って感じですね~
一方、これを迎え撃つ南朝側からは、楠木正儀(くすのきまさのり=正成の三男)とともに、和田五郎なる若武者が差し向けられる事になります。
五郎は未だ16歳・・・周囲には「若すぎる」と、その出陣を危ぶむ声もありましたが、合戦の前に参内した和田五郎は
「親類兄弟は、皆、度々の合戦に決死の覚悟で挑んで華々しく散りました。
今日の合戦は、公私ともに一大事・・・この命賭けて戦い、敵の大将の首を討ち取るまでは、この場に戻って来ない覚悟で参ります!」
と、力強く宣言・・・この姿に南朝の公卿たちも、皆が心躍ったと言います。
木津川に架かる御幸橋から見る男山(左)…川を挟んで右側手前に見えるのが天王山
男山&石清水八幡宮周辺、写真に写り込んでいる桜の名所の背割堤への行き方は本家HP:京都歴史散歩「男山周辺散策」でどうぞ>>
こうして敵陣に向かった彼らの前に、義詮の執事を務める細川清氏(ほそかわきようじ)・土岐大膳(ときだいぜん)らが6000を率いて登場・・・
やがて、険しい山道の中、土岐大膳の家来・土岐悪太郎のメチャメチャ目立つ笠符(かさじるし=敵・味方を識別するための目印)を見つけた和田五郎は、「敵だ!」と叫びながら、長刀(なぎなた)の柄を短く持って勝負に挑みます。
しかし、そこを、横から現われた細川の郎党・関左近将監(さこんのだいぶ)が悪太郎の横を走り抜けて五郎を討たんと近づきます・・・が、そこは五郎の中間が放った矢が見事命中します。
やむなく、悪太郎は関左近将監を小脇に抱え、大太刀を振り回しながら、敵の中を逃走・・・これを逃すまいと追う五郎でしたが、いつしか、その姿を見失ってしまいました。
ところが、もはや悪太郎の運は尽きていたのか?・・・降り出した夕立にドロドロになっていた足元の土が崩れ、さらに泥沼のようになっている部分に足を取られ、抱えていた関左近将監ともども身動きがとれなくなってしまうのです。
そこに追いついた五郎・・・今度は長刀の柄を長く持ち、見事、二人を討ち取りました。
しかし、悪太郎を討ったとは言え、未だ合戦の勝負がついたわけでもなく、しかも、敵は予想以上に膨大な数・・・夜が迫るとともに楠木正儀が八幡の陣へと引き返したため、この日の戦闘は終了・・・その後、しばらくのこう着状態が続きます。
ただ、そんなこう着状態の中でも、幕府軍は着々と八幡の包囲を強化し続けていきます。
やがて5月4日、そんなこう着状態を打破しようと、南朝方は、夜討ちに手慣れた800人の精鋭部隊を編成し、幕府の包囲陣に奇襲をかけますが、突入直後こそ混乱したものの、幕府軍は動揺せず、大した成果を挙げる事はできませんでした。
ならば・・・と、南朝方は、楠木正儀と和田五郎を後方支援に回すべく、密かに包囲網を脱出させますが、なんと、ここで・・・和田五郎は突然発病し、亡くなってしまうのです。
しかも、一方の正儀は、父=正成(8月25日参照>>)や兄=正行(まさつら)(1月5日参照>>)とは、少々器が違っていたとみえ、「今日行くか?明日にするか?」と、敵陣への攻撃の日取りを迷うばかりで、いっこうに行動に起こしません。
そうなると、長期にわたる籠城戦に耐えかねて、南朝側から幕府側へ降伏する武将もチラホラ・・・
結局、籠城戦が50日余りに達した5月11日・・・後村上天皇は夜陰にまぎれて密かに包囲網を突破し、大和(奈良県)へと脱出・・・吉野へと戻ったのでした。
こうして、八幡合戦は終了を迎え、何とか京都を奪回した北朝=室町幕府・・・しかし、翌正平八年・文和二年(1353年)6月9日には、幕府の対応に不満を持った山名時氏(ときうじ)・師氏(もろうじ)父子が挙兵して一旦京都を制圧し、その後、尊氏の次男・足利直冬(ただふゆ)を担いで謀反の兆し(6月9日参照>>)・・・
しかも、幕府側には困った事が・・・そうです。
南朝勢が一時京都を制圧した時に、北朝3代の崇光天皇以下、光明院・光厳院、さらに皇太子までもが吉野へ連れ去っていたわけで・・・この時点での北朝には、「天皇がいない」事になってしまっているのです。
しかも、三種の神器もありません・・・
やむなく、この後、神器なし指名なしでの前代未聞の北朝第4代・後光厳(ごこうごん)天皇の即位という事になるのですが、そのお話は後光厳天皇のご命日の日づけ=1月29日でどうぞ>>
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