秀吉に「日本無双」と言わせた男…宮部継潤
慶長四年(1599年)閏3月25日、豊臣秀吉の配下として、その政権の一翼を担った善祥坊こと宮部継潤が亡くなりました。
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宮部継潤(みやべけいじゅん)は近江国浅井郡宮部村(滋賀県長浜市)の小豪族の出身で、もともとは比叡山の山法師であったと言われています。
なので、お坊さんの名前=宮部善祥坊とも呼ばれます。
僧侶をやめて、故郷の宮部に戻ってからは、地元の戦国大名=浅井長政(あざいながまさ)に仕え、対・織田信長との数々の合戦にも出陣し、多くの武功を挙げる、なかなかの勇将だったそうです。
ところが・・・姉川の戦い(6月28日参照>>)、堅田の戦い(11月26日参照>>)を経た後、その浅井・朝倉の残兵を匿う比叡山を信長が焼き討ちした(9月12日参照>>)とされる元亀三年(1572年)秋・・・
当時、朝倉攻めの最前線であった横山城の城将をしていた羽柴(後の豊臣)秀吉からのお誘いに応じて、その秀吉の配下となるのです。
以前、姉川の戦いに向けて、信長が岐阜を出陣した日の日づけで書かせていただいたページ(6月16日参照>>)にupした位置関係図を見ていただくと、その位置関係がわかりやすいかと思いますが、
浅井長政の居城・小谷城の南東にあるのが横山城・・・継潤の拠点である宮部村は、ちょうど、小谷城と横山城の中間あたりにあります。
つまり、織田方の最前線にいる秀吉が、浅井方の最前線にいる継潤を寝返らせる事に成功したというわけですね。
そして、ご存じのように、その翌年の天正元年(1573年)8月、信長は、浅井・朝倉を一気に滅亡させています(8月27日参照>>)。
いかに、宮部という地と継潤という人物が、小谷攻めに重要だったかがうかがえますね・・・なんせ秀吉は、甥の秀次(後の豊臣秀次)(7月15日参照>>)を人質に差し出してまで、味方に引き込んだのですから・・・
とは言え、浅井の滅亡後は、その秀次も秀吉のもとに返され、以後、継潤は秀吉の与力となって、「秀吉様ドップリ」の大活躍をする事になります。
秀吉が、信長から中国地方の平定を任された頃からは、秀吉の弟・秀長(ひでなが)の片腕として働き、作戦参謀として、その指揮系統を全面的に任されるほどに・・・
その活躍が認められ、天正十年(1582年)には、その前年に秀吉が落とした因幡鳥取城(10月25日参照>>)の城代にまで昇り詰めます。
また、あの本能寺の変の時に、驚異の中国大返し(6月6日参照>>)で、秀吉が畿内に戻った時から、続く、清州会議(6月27日参照>>)やら信長の葬儀【(10月15日参照>>)やら、柴田勝家(しばたかついえ)との賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)やらで、秀吉が中国方面の攻略にかまっていられなくなった段階で、その留守を守るべく、中国方面に対する玄関口を死守したのも継潤でした。
さらに、その後、秀吉が行った九州征伐でも大活躍・・・
と、この九州征伐とは、ご存じの通り、「薩摩(鹿児島県西部)に本拠を持つ島津を倒す」という事ですが、その最大の戦いとなったのが、天正十五年(1587年)4月17日の高城・根白坂の戦いです(戦いの経緯は4月17日参照>>)。
この時、羽柴軍に包囲された高城を救援すべく向かう島津勢と、それを阻止せんと根白坂に砦を構築した羽柴勢・・・
そこに、島津勢が奇襲をかけたものの、羽柴勢は、その奇襲を事前に察知していた・・・と、その4月17日のページにも書かせていただきましたが、『写本軍事録常紀之部』によれば、その奇襲を察知して、事前に準備を整えたのが継潤だったとの事・・・
実は、この日、「城兵の命の保証を約束する代わりに高城を速やかに明け渡すか否か?」という内容の事前の、島津とのやり取りがあったのですが、その時の敵の動向を不審に思った継潤が、密偵を派遣して様子を探り、「何かあるかも知れない」と自陣の前に堀と柵を構築して準備していたのです。
ただ、いくら準備を整えていたとは言え、そこに突入を喰らわした島津義弘(よしひろ)隊は、なんと1万5000の大軍・・・勇将の誉れ高い義弘は、槍を引っ提げて自ら先頭に立ち、堀を越えて柵に取りかかろうとします。
その時、かねてより準備していた綱を切り、柵を堀側に倒して、柵に群がっていた島津勢ごと堀に落とし、ここで約800名ほどが討死しましたが、義弘は、その屍を踏み越えて、次なる内柵へと進み、その進撃に、やむなく、少し後ろに下がる宮部隊・・・
と、その状況を川の向こう側に陣を取っていた秀長が目に留めます。
「根白の方を見渡せば、薩摩の軍兵雲の如く取り巻きて 鉄砲の音 鬨(とき)の声 矢叫び相交じり、天地も動く計なり」
まさに、島津の大軍に宮部隊のみで、孤軍奮闘状態・・・
早速、その救援に向かおうとする秀長隊でしたが、馬が川に足を取られて、なかなかに進まず・・・すると、それに気づいた藤堂高虎(とうどうたかとら)隊と黒田孝高(よしたか=官兵衛・如水)&長政(ながまさ)父子らが、慌てて宮部隊の救援へと向い、そうこうしているうちに秀長隊も合流し、大軍となったおかげで、島津隊を敗走させる事に成功・・・こうして根白坂砦は守られたのです。
ご存じのように、この敗戦によって、島津は秀吉に降伏する事を決意するわけで・・・まさに、継潤の踏ん張りあればこその九州征伐だったわけです。
この働きに感動した秀吉は、継潤に『日本無双』の感状を与え、継潤は正式に鳥取城の城主となりました。
晩年、高齢を理由に隠居してからは、秀吉の御伽衆として、常にその相談相手になっていたとか・・・
そんな継潤・・・前年の8月に亡くなった秀吉(8月18日参照>>)の後を追うように3月3日に亡くなった前田利家(3月3日参照>>)の、さらに後を追うがのごとく慶長四年(1599年)閏3月25日に、この世を去ります。
果たして、彼のもとには、利家の亡くなったその夜に起こった石田三成(いしだみつなり)襲撃事件(3月4日参照>>)のニュースは届いていたのでしょうか?
かの文禄の役(3月26日参照>>)の時には、すでに60代も後半に差し掛かっていたとおぼしき年齢にも関わらず、「俺も大陸に渡らせて欲しい!」と、秀吉に懇願したというほど老いても血気盛んだった継潤・・・
あの日、一大決心をして秀吉の配下となってから、ともに各地を転戦し、ともに昇って来た天下への階段・・・もしもこの時、その延長線上に暗雲立ちこめる様子を垣間見ていたのだとしたら・・・
おそらく、日本無双の継潤にとって、その寿命の尽きる様が、自分自身で最もくやしかったかも知れません。
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コメント
茶々様
宮部継潤…初めて知りました。有難うございます。
私は鹿児島ので,何らかの関係を感じてしまいます。
まあ,鹿児島の地の人でも,人によって島津氏に対しては,英雄としてとらえている人もいれば,よくも先祖から搾取してくれたなという人もいるわけですが…。
歴史にIFはないとしなければなりませんが,そこを~もしこの戦いに勝っても,ただ一つの戦闘に島津氏が勝利したに過ぎませんね。体制(のちの豊臣政権)に影響はなかったのでは…!?。難しいです。やっぱりIFはだめですか。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年3月26日 (火) 19時01分
こんばんは、茶々様・・・
宮部さん、浅井家から羽柴(織田家)さんに切り替える決断をした理由って何なんでしょうね・・・
やはり上り調子の織田方につく方が良かったと、よく言えば現実的思考に基づいての判断でしたのでしょうか・・・?
しかし、宮部さんが活躍出来たのは譜代からの家臣が(多分)あまり居ない秀吉に仕えたからでしょうかね・・・?
どうなんでしょうか・・・?
投稿: キスケ | 2013年3月26日 (火) 21時51分
鹿児島のタクさん、こんばんは~
専門家の方ならIFは禁物かも知れませんが、遊びで妄想するぶんには、これほど楽しい物は無いです。
あーだ、こーだと考えていると、あらぬ方向へ行ってしまう事もありますが…
投稿: 茶々 | 2013年3月27日 (水) 02時50分
キスケさん、こんばんは~
それこそ、心の中は想像するしかありませんが、やはり、小豪族の僧あがりで出世するなら、秀吉のような人についていた方が得だったような気がします。
投稿: 茶々 | 2013年3月27日 (水) 02時54分