秀吉亡き後の大坂城と伏見城の役割
文禄三年(1594年)3月7日、豊臣秀吉が伏見に築城を開始しました。
・・・・・・・・・・
豊臣秀吉の城と言えば・・・
まぁ、最初に、一国一城の主となったのは長浜城だし(3月19日参照>>)、山崎の合戦で明智光秀(あきちみつひで)を倒した時(6月13日参照>>)には天王山にも城を建ててるし、もはや伝説の墨俣一夜城(9月12日参照>>)や石垣山一夜城(6月26日参照>>)・・・
と、それこそいっぱいあるわけですが、やはり、天下を治める拠点としての城・・・となると、
天正十一年(1585年)の大坂城
天正十四年(1586年)の聚楽第(じゅらくだい)
そして
文禄三年(1594年)3月7日に築城を開始した伏見城・・・
という事になります。
大坂城を築城した頃の秀吉と言えば、それこそ、亡き主君=織田信長の弔い合戦で光秀を倒した翌年に、織田家内の最大のライバルであった柴田勝家(しばたかついえ)を賤ヶ岳に破って(4月23日参照>>)神戸信孝(かんべのぶたか・織田信孝=信長の三男)を葬り去り(5月2日参照>>)、さらに、その翌年には小牧長久手の戦いにて、織田信雄(のぶお・のぶかつ=信長の次男)を丸めこんで同盟者の大物=徳川家康を抑え(11月16日参照>>)、
そしてその翌年・・・つまり、大坂城の築城を開始した天正十一年(1585年)には、紀州征伐(3月21日参照>>)、四国を平定(7月26日参照>>)と、まさに天下掌握の年・・・
その場所は、かつては石山本願寺のあった場所で(8月2日参照>>)、あの信長が、おそらくは安土城を凌駕するほどの城を建てたかったであろう好立地・・・そこに、まさに天下の城を建てたわけです。
次の聚楽第は・・・
この前年=天正十三年(1585年)に秀吉は関白に就任しています。
就任当初は、京都の妙顕寺(みょうけんじ=京都市上京区)の敷地内に、自分用の屋敷を構築して政務をこなしていましたが、やはり、朝廷と交渉するにしても、関白としての仕事をするにしても、その拠点となる場所がいるという事で・・・
そう、おそらくは、武家のトップとしての「天下統一の城」が大坂城で、「関白の政庁」が聚楽第という位置づけだったと思われます(2月23日参照>>)。
なので、天正十九年(1591年)に甥の豊臣秀次(ひでつぐ=三好秀次)に関白の座を譲った後は、秀次がこの聚楽第に入って政務をこなしています。
しかし、文禄四年(1595年)、ご存じのように秀次が、謀反の疑いをかけられて切腹(7月15日参照>>)した事で、この聚楽第は、わずか10年に満たない年数で破壊されてしまいます。
・・・で、それと前後して、言わば秀吉の隠居所として構築されたのが、今回の伏見城だったわけですが、今回構築された最初の伏見城は、完成間もなく、大地震によって崩壊してしまい、慶長二年(1597年)に、少し離れた場所に、2代めの伏見城が築城され、後に、家康が将軍宣下を受けたりするのは、コチラの伏見城で、前者を指月城と呼び、後者を木幡山伏見城と呼んで区別します。
・・・とは言え、伏見城のそのへんについては、その豪華絢爛さも含めて、6年も前の記事ではありますが、少し書かせていただいておりますので、2007年8月31日【幻の伏見城~徳川幕府は何を恐れたのか?】>>でご覧いただくとして、
今日ご紹介させていただきたいのは、その2代め伏見城が完成して、ほどなく、かの秀吉が亡くなり、いよいよ、家康が動き始める・・・頃のお話・・・
そのページにも書かせていただいたように、秀吉亡き後に、息子の秀頼(ひでより)が入城しますが、翌年には家康が入城し・・・となりますが、
すでに、いくつか書かせていただいているように、それらは、秀吉の遺言通り・・・
ドラマ等では、死期を悟って気弱になった秀吉が、ただただ、涙ながらに五大老らに「秀頼を頼む」と言ってるみたいな雰囲気で描かれますが、残された文献を見る限り、けっこうしっかりとした遺言を残し、なんとか秀頼を盛りたてるよう頑張ってます。
たとえば、「残された淀殿と家康が結婚して秀頼を補佐してほしい」(12月16日参照>>)とか、「西は毛利輝元に(5月10日参照>>)、東は家康に、北陸は前田利家に任せる」(8月9日参照>>)とか、「公家にならった家格システム」(7月15日参照>>)とか・・・
もちろん、「自分が亡くなったら、秀頼と淀殿が大坂城に入って政務してね」というのも、秀吉の遺言です。
実は、そこにも、秀吉の思惑がありました。
その思惑がわかる物を一つ・・・
『日記雑録』という文献に、慶長五年卯月八日付けで、島津義弘(しまづよしひろ)が島津家久(いえひさ)に宛てた手紙が載っているのですが、ちょっと関連する部分だけ・・・
「(略)…伏見へハ西國衆可爲御番よし、御掟被仰出候処ニ、何程之儀候哉、諸大名悉大坂へ家居以下被引越候、我等事とかく不承候間、ふしミへ致御番候…(以下略)」
慶長五年と言えば西暦1600年・・・あの関ヶ原が9月に起こる(関ヶ原の合戦の年表参照>>)、その突破口となるのが、石田三成(いしだみつなり)が、家康が留守にした伏見城を攻撃する、7月19日~8月1日にかけての伏見城攻防戦(7月19日参照>>)なわけですが、上記の手紙は、その3ヶ月前という事になります。
内容は
「西国の大名が、皆、大坂へ引っ越して、僕だけ伏見に残ってるよ」
と、義弘が国許に報告してる感じ・・・
実は、秀吉亡き後は、秀頼が大坂城に入り、前田利家(まえだとしいえ)が、同じく大坂城で、その補佐に当たっていて、先に書いた通り、家康は伏見城に入るわけですが、
その時、家康と親しい関係にある東国の大名の屋敷は大坂にあり、豊臣恩顧の西国の大名の屋敷が伏見にあった事がわかっています。
つまり、秀吉亡き後は、最もアブナそうな家康を他の東国大名から引き離し、家康の回りを西国大名で固めて監視させるという体制になっていたわけです。
ところが、かの利家が亡くなった事を受けて、やがて家康が大坂城に入城・・・
そのために、監視役だった西国の大名たちが、皆、大坂に移転してしまった・・・しかし、その中で、島津だけは伏見に留まっていたという事なのですね。
果たして、この行動が、後の関ヶ原の本チャンでの「島津の背進」(9月16日参照>>)につながっていくのかどうか?というところは、まだまだ考えねばならぬところですが、
天下人の城として建てられた大坂城と、隠居しながら2元政治を行うための伏見城・・・しかし、その秀吉亡き後には、それぞれの役目が違ってきていたという事が、実にオモシロイです。
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コメント
茶々様
「秀吉亡き後の大坂城と伏見城の役割」を興味深く読ませていただきました。
…伏見城というのは,秀吉が“老い”を感じた際に,永遠に生きたいという願望から「ふしみ(不死身)」に掛けて「伏見」城を築城したというのをよく見かけるのですが,歴史的にはいかがなものなのでしょうか。また,伏見城があった場所は,もともと桃が採れる山があったということから,「安土・桃山時代」となった言うこともよく聞きますね。(本当?)
さて,私は鹿児島県人ですから,やはり島津の関ヶ原の戦いに関する資料には関心があります。
鹿児島でも,島津義弘は,特別に人気のある島津家当主(当主になっていないという説も強い)で,私が小学生の時などは,義弘公の遺徳を偲んでの顕彰剣道大会等がよくありました。
また,関ヶ原の“敗戦の屈辱”を薩摩藩士が忘れないように,夜中に鹿児島城(鶴丸城)から伊集院(いじゅういん)にある妙円寺(現在の徳重神社⇒鹿児島は廃仏毀釈を徹底的にやったので寺はほぼなくなった。)まで,夜行進軍する行事を江戸時代ずっと続けていました。西郷隆盛や大久保利通も幼いころから毎年,参加しています。
今でも,この「妙円寺参り」は続いていて,勿論,昔,士族だった人だけでなく,一般の方が参加するイベントとなっています。歩く距離が半端じゃないです。
JR鹿児島本線伊集院駅の前には,島津義弘公の騎乗姿の銅像があります。当時の日本の馬は確か「ポニー」くらいの小型の馬だったことは有名で,大きくなったのは明治になってから,確か欧州の馬の血統が軍馬として主流になったからですよね。
でも,義弘公は大型の立派な馬に跨っています。
それにしても,関ヶ原前夜に,すでに島津氏は実は,徳川方につくことを決定していたという本や講演会,テレビ番組などいろいろあります。
でも,結局,一応「西軍」として参加し,“敵中突破”というやや信じられないことをやっています。これが,兄:義久と,弟:義弘の連携の「よさ」なのか「悪さ」なのかも,分かりません。
2008.9.16「的中突破 島津の背進」,2011.4.11「ネバリ勝ち 義久の関ヶ原」も拝読させていただきました。
ある意味豊臣恩顧⇒しかし⇒「東軍」へ⇒結果的に「西軍」へ⇒関ヶ原の戦いでの事実上の戦闘放棄⇒戦場から離れるための(?)敵中突破⇒(義弘の兄)義久を中心とする家康との駆け引き⇒「本領安堵」…この一連の流れ…討幕・明治維新…。
どこまで,計画的で…そしてどこまでが「なったようになったらこうなっちゃった」なのか分かりません。多分,Que sera seraの過去形なのでしょうが…。
しかし,本日の茶々様の投稿のお陰で,『日記雑録』(これは島津家の記録?)なるものに,義弘から家久(これは甥でしょうね)への手紙のお陰で,秀吉は死ぬ間際まで家康対策を打っていたのだなと読みました。
秀吉が亡くなってから,関ヶ原まであっという間ですからね。当時の諸将の“駆け引き”は,お家存続のために,本当に命運をかけていたのですね。
どうもありがとうございました。
(長文すみません。)
投稿: 鹿児島のタク | 2013年3月 9日 (土) 06時52分
鹿児島のタクさん、こんにちは~
>「ふしみ(不死身)」に掛けて「伏見」
は、どうでしょうね~~??
聞いた事無いので何とも言えませんが、土地の名前というよりは、立地条件だったような気がします。
伏見は、大坂城とも連携がとれ、京都にも睨みを効かせられる、見事な場所ですからね~
>伏見城があった場所は,もともと桃が採れる山があった
これは、以前のページにも書かせていただきましたが、桃山に桃が植えられたのは、伏見城が破却された後の江戸時代になってから…と聞いております。
「豊臣色を消したい徳川が、城跡に桃を植えて、桃の名所として、その名も桃山に変えた」なんて事も言われていますが…どうなんでしょ?
関ヶ原の件は、伏見城攻防戦の開戦前に、義弘が「入城したい」と申し出たのを鳥居元忠が断わったので、しかたなく大坂城に戻っていたら合戦が始まっちゃった…なんて事も言われてますね。
そんなこんなを考えると、おそらく、計画をたてていたとしても、なかなか思い通りにはいかなかったでしょうね~
いずれにしても、(長州もそうですが)やはり、関ヶ原での事が、幕末の原動力になった事でしょうね。
投稿: 茶々 | 2013年3月 9日 (土) 15時02分
茶々様
ありがとうございました。
実は,鹿児島市内の谷山地区というところに,あの豊臣秀頼公の墓とされているものがあります。もちろん伝説なのですが…。大坂夏の陣の後,ひそかに落ちのびた秀頼公が島津を頼って,はるばる鹿児島までやって来たというものです。
この話は,以前,鹿児島県の小学校教員(国語)が中心となって,『かごしまの伝説』という物語を刊行したのです。私も小学生の時に購入して読んでいますから…。
今手元に,その本がないので記憶ですが,その物語の中では,「秀頼はお金の使い方を知らずに,何でも店からものをとって来た!」と記載されていたので,小学生ながらに偉いお方だったから,お金なんて見たことがなかったのだろう…なんて勝手に思っていました。
あくまで,伝説です。
でも,この茶々様のブログでも,以前豊臣秀頼をネタにされているかも知れませんが,秀頼の本当の姿というのも,いろいろと語られていて(きっといろいろな資料など)面白そうですね。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年3月11日 (月) 21時38分
鹿児島のタクさん、こんばんは~
秀頼の生存説については2007年5月8日のページ>>に書かせていただきました~
そのページにも書かせていただきましたが、「鹿児島での秀頼の悪行伝説」は、何やら、徳川の思惑がプンプンする気がしますww
あくまで、推測ですが…
投稿: 茶々 | 2013年3月12日 (火) 01時53分
秀吉の大阪城の遺構は、今も残っているそうです。某小学校の貯水漕に。テレビ初公開と言うのを見ました。
投稿: やぶひび | 2013年3月12日 (火) 14時30分
やぶひびさん、こんばんは~
あそこは、三の丸あたりの遺構だと思います。
現在の天守閣の真下には、二の丸の石垣が埋まってます。
豊臣時代の大坂城は、今も発掘されてない部分がたくさんあるので、まだまだ謎が多いですね。
私の実家の下にも、何か埋まってるかも知れません(笑)
投稿: 茶々 | 2013年3月13日 (水) 02時25分