「鬼瓦」と呼ばれた細川勝元の娘・赤松洞松院
明応二年(1493年)3月11日、細川勝元の娘・洞松院と赤松政則の婚儀が整いました。
・・・・・・・・・・・
彼女が表舞台に出て活躍するようになるのが、今回、結婚した夫=赤松政則(あかまつまさのり)が亡くなってからですので、一般的には赤松洞松院(とうしょういん)と呼ばれますが、結婚当時は「めし殿」と呼ばれていたようです。
ややこしいので、本日は洞松院さんと呼ばせていただきますが・・・
・・・で、冒頭に書かせていただいた通り、彼女は、この国を真っ二つに分けた、あの応仁の乱(2008年5月20日参照>>)での東軍の大将である管領=細川勝元(ほそかわかつもと)の娘です。
って事は乱世の梟雄と言われる細川政元(まさもと)の妹(姉という説もあり)・・・という事になるわけですが、
これが・・・
実は、未だ若いミソラで兄=政元の意向により、洞松院は、父の勝元が建立した京都の龍安寺(6月25日参照>>)に入り尼僧となっていたという事なのですが、その意向というのが「あまりにブサイク」という理由だとか・・・
「ブサイクやから、嫁のもらい手が無いよって、尼さんになりぃな」
って事なのかしら??
ホンマかいな?兄貴ならフォローしたれよ!と思うような理由ですが、そんな彼女に降って沸く縁談話・・・
実はこの時の政元には、大いなる計画がありました。
時の将軍は、あの応仁の乱の火種となった足利義視(よしみ=足利義政の弟)(1月7日参照>>)の息子の義材(よしき)でしたが、その義材を第10代室町幕府将軍に推しあげたのは、応仁の乱の口火を切る御霊合戦(1月17日参照>>)をやった元管領の畠山政長(はたけやままさなが)・・・
しかし、政元は、この結果にいたって不満・・・なんたって、かの義視が将軍の父として、政長が片腕として、幕府内での勢力を高めますから、政元としては、自らの意のままに動いてくれる人物を将軍に推したいわけで・・・
そこで、政元は、すでに夫を亡くして未亡人となっている8代将軍=足利義政(よしまさ)の妻=日野富子(ひのとみこ)(2012年5月20日参照>>)を抱き込み、さらに、政長についている播磨(兵庫県南西部)守護の赤松政則を味方に引き入れようとしたのです。
かくして、明応二年(1493年)3月11日(4月20日とも)、還俗(げんぞく=出家した人が一般人に戻る事)した洞松院と赤松政則の結婚とあいなったわけです。
この、わずか1ヵ月後に、政元は、義材と政長が敵対勢力討伐のために河内(大阪府南部)へ向かったスキを狙って、第11代将軍=足利義高(後の義澄)を擁立するというクーデター・・・世に言う明応の政変をやってのけるのです。
と、まぁ、結局は洞松院の結婚は、完全なる政略結婚なわけですが・・・
しかも、二人の結婚生活は、わずか3年・・・明応五年(1496年)4月20日、夫=政則が42歳で、この世を去ってしまいます。
二人の間には小めしという女の子がいるだけで、男子がいなかったため、一族の赤松義村(よしむら)を、小めしの婿養子として迎え、赤松家の家督を継がせる事になりますが、これに反発する家中の者が、別人を擁立して挙兵・・・
事は合戦にまで発展しますが、何とか、「義村が成人するまで、洞松院が後見人として実権を握る」という事で、話は収まります。
そう、ここから、父=勝元のDNAを引き継ぐ、彼女の実力が発揮されるのです。
このブログでも、過去、何人か登場していますね~
戦国の世に、夫や息子に代わって、男顔負けの領地経営をやってのける女当主・・・
彼女も、その一人なのです。
『赤松盛衰記』は言います、
「国中の政事(まつりごと)は洞松院と同室家(どうしつか=小めしの事)と、二人の女性の取り扱ふ事と成り来たれり」と・・・
特に、永正三年(1506年)頃からしばらくは、赤松家が発給する重要書類には、もう、洞松院の名前ばかり・・・
「そりゃ、兄貴が大物やから、周囲も気ぃ使ってんちゃうん?」
と、お思いかも知れませんが、その政元が永正四年(1507年)に暗殺されて(6月23日参照>>)しまった後でも、彼女の力が衰える事はありませんでした。
むしろ、政元の養子同志の間で起こった後継者争いにも一役かっているくらいです。
政元さん暗殺のページにも書かせていただきましたが、生前の政元が、男色1本で女性を寄せつけなかったため実子はおらず、3人の養子を迎え・・・てか、そもそも、その暗殺自体が、政元が先に養子に迎えていた関白・九条政基(まさもと)の子・澄之(すみゆき)を後継者に据えておきながら、その後、阿波(徳島県)の細川家から来た澄元(すみもと)にチェンジした事で、危機感を抱いた澄之側の家臣の仕業なのですから・・・(8月1日参照>>)
そこに、3人目の養子である備中(岡山県)細川家の高国(たかくに)が絡んで、三つ巴の後継者争い・・・
はじめ、澄元と協力してともに澄之を討った高国が、周防(山口県)の戦国大名・大内義興(よしおき)の支援を受けて澄元と敵対すると、洞松院は澄元側につき、養子の義村を澄元側として参戦させます。
これが、永正八年(1511年)8月に起こった船岡山の戦い(8月24日参照>>)なのですが、残念ながら、澄元らは高国に惨敗してしまいます。
さらに泥沼化するかに見えたこの戦いでしたが、この時、洞松院が、単身で敵陣に乗り込んで、直接、高国と和平交渉を行い、見事、和睦に持ちこんだとの事・・・
このような猛々しい姿と、噂の器量が相まってか、なんと彼女は、「鬼瓦」なるニックネームで呼ばれたとか・・・
ただ・・・
確かに、女性に「鬼瓦」は失礼なれど、戦国当主のニックネームとなれば、それだけスゴイという名誉なニックネームでもあるわけで・・・それを表すかのごとく、彼女が表舞台から消え去る頃から、赤松家は坂道を転げ落ちるように衰退していくのです(11月12日参照>>)。
洞松院の死が不明なので、何とも言えませんが、おそらく、「表舞台から消える=亡くなった」と予想できる中、大永元年(1521年)には、義村が、家臣の浦上村宗(うらかみむらむね)によって追放&暗殺され、守護の赤松家が守護代の浦上家に、その座を奪われてしまうという事態となり、赤松家は事実上滅亡に・・・
その後、庶流の赤松広秀(ひろひで=斎村政広)(10月28日参照>>)を頼ったり、羽柴(後の豊臣)秀吉に従って1万石を安堵してもらうなどして細々とつないでいた血脈も、義村の曾孫にあたる則房(のりふさ)が、あの関ヶ原で石田三成(いしだみつなり)について三成の居城の佐和山城で籠城しているところを東軍に攻められ(9月17日参照>>)、一旦は逃亡するも、結局、自殺に追い込まれて、赤松家は断絶・・・という事になってしまいました。
そもそもは、政則の叔父の赤松満祐(あかまつみつすけ)がしでかした将軍暗殺=嘉吉(かきつ)の乱(6月24日参照>>)で、事実上滅亡していた赤松家を、政則自身の手腕で回復させ(9月4日参照>>)、さらに、時の管領の妹を娶る事でステップアップ・・・・
それが、政略結婚のうえにわずか3年間の夫婦生活であったにも関わらず、嫁いだ洞松院も、精一杯、夫の遺志を継いで、力の限り赤松家を盛り上げようとした・・・
そこには、
「愛の無い結婚なんて考えられない!」
「戦はイヤじゃ!」
てな事は言ってられない、厳しい戦国時代に生きた女性の強さとしたたかさと・・・そして、現代とは違う愛の形を貫く信念を感じずにはいられません。
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コメント
面白いお話ありがとうございます。戦国前期はあまりよく知らないもので。
親子そろって政治力をふるっていたとはすごいですね。
ところで、常々思っていたのですが、そろそろ「汚名を晴らしたい」と「女性」のカテゴリーが作れそうですね。
でも、カテゴリー分けは大変そうですし、新しい記事が読めるほうがうれしいかな…ほんの思い付きですけど。
投稿: りくにす | 2013年3月12日 (火) 00時49分
りくにすさん、こんばんは~
そうですね。
「汚名を晴らしたいシリーズ」と「男顔負け女性シリーズ」はカテゴリー作れそうです。
あと、「生存説シリーズ」も作れそうですね。
実現できるかどうかはともかく、まずは色々と考えてみたいと思います。
投稿: 茶々 | 2013年3月12日 (火) 01時58分
女は強し~。
女性の方が実は度胸も座っているのかもしてませんね^^
今の時代も…^^;
今回は時代に翻弄される女性のイメージとは些かかけ離れた
肝の据わった!?女性像を垣間見ることができました^^
そして「生存説シリーズ」~私も興味津津!
心待ちにしています^^v
投稿: tonton | 2013年3月12日 (火) 08時31分
tontonさん、こんにちは~
ホント、この時代の女性は、肝が据わってますよね~
まぁ、おっしゃる通り、今の女性も肝が据わってますが…(^-^;
カテゴリも、いろいろ考えてみます!
投稿: 茶々 | 2013年3月12日 (火) 13時21分