鎌倉討幕~赤松則村の山崎合戦
元弘三年(1333年)3月15日、播磨にて討幕の兵を挙げた赤松則村と、それを迎え撃つ鎌倉幕府の六波羅探題がぶつかった山崎の合戦がありました。
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3日前にご紹介した三月十二日合戦(くわしくは3月12日参照>>)の、まさに、その続きですが、一応、ここまでの経緯を書かせていただくと・・・
元弘元年(1331年)、河内の悪党・楠木正成(くすのきまさしげ)を味方に、笠置山にて、鎌倉幕府・討幕ののろしを挙げた後醍醐(ごだいご)天皇は(9月28日参照>>)、この元弘の変に敗れ、隠岐へ流されてしまいます(3月7日参照>>)が、その後、行方不明になっていた息子の護良(もりよし・もりなが)親王や正成が相次いで挙兵した(2月1日参照>>)事を受けて、後醍醐天皇は隠岐から脱出(2月24日参照>>)・・・伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に陣取って幕府軍に対抗します。
それを受けて、各地の天皇方の武将も動きます。
その中の一人・播磨(はりま=兵庫県南西部)の赤松則村(あかまつのりむら・円心)は、兵庫の北に摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を構築して京に迫り、元弘三年(1333年)3月12日の合戦では、一旦、京都市内になだれ込むも、六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)の激しい抵抗に合い、一旦撤退しました。
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このように、毎日どこかで合戦が行われている状態となった都周辺・・・
時の天皇・光厳(こうごん)天皇の皇居も、ひとところには定まらず、その心が休まる事もありませんでした。
そのため、朝廷&幕府の総力をあげて、社寺にて、国家安泰の祈願&祈祷をするのですが、一向に効果はありません。
やがて、先の合戦で、やむなく撤退した赤松軍が態勢を立て直して、再び迫ったのです。
則村は、山崎(京都府乙訓郡大山崎町)と八幡(京都府八幡市)の2ヶ所に陣を構えます。
ご存じのように、ここは、この約250年後の戦国時代に、本能寺にて、主君=織田信長を討った明智光秀(あけちみつひで)が、脅威の中国大返しで戻ってきた羽柴(後の豊臣)秀吉を、京都に入れまいとして抑えた場所・・・(6月13日参照>>)
さらに下った慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いの頃でも、幕府が砲台場を設置して、京都の守りとしていた場所です(1月5日参照>>)。
地図を見ていただいたなら一目瞭然ですが、現在でも、JRは在来線も新幹線もここを通り、阪急電車や京阪電車もここを通り、少し離れてはいますが国道1号線も近くを通ります。
淀川を挟んで、西岸が山崎、東岸が八幡・・・しかも、両側に山が迫っていて、平地は川沿いの、ごくわずか・・・大阪方面から京都に入る時は、必ず、この狭い場所を通らねばならないので、合戦の際は、最重要の場所という事になります。
ただし、今回の赤松軍の場合は、敵は大阪方面からやって来るわけではなく、すでに京都にいますので、敵を迎え撃つために抑えたのではなく、「封鎖して、物資の補給路を絶った」という事ですね。
ご存じのように、京都は山に囲まれた盆地・・・物流の要である大阪からの補給路を断たれては困りますから、六波羅探題は大軍を率いて、その排除に向かいます。
元弘三年(1333年)3月15日朝・・・五条河原に集結した六波羅軍は、はじめ、軍を2手に分けて南へと進みますが、久我縄手(こがなわて・久我畷=京都市伏見区久我森の宮付近)付近は道が細くぬかるみ状態で、馬の引く手もままならなかったため、やがて1手に合流して、桂川を渡り物集女(もずめ=京都府向日市)に到着します。
この敵軍の進路を伝え聞いた則村・・・自軍の3000騎を3手に分け、矢の名手を中心にした1手を小塩山(おしおやま=京都府京都市西京区)へと回し、次の1手となる野伏(のぶせ=地侍や農民の武装集団)をを狐河(きつねがわ=京都府京田辺市)付近に配置・・・残りの1手を向日神社(むこうじんじゃ=京都府向日市)の松林の中に潜ませて、敵の侵入を待ちます。
しかし、六波羅勢とて戦いのプロ・・・あまりの静けさに警戒し、ゆっくりと一歩一歩進軍して行きます。
向日神社(京都府向日市)…くわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「長岡京へ行こう」でどうぞ>>(別窓で開きます)
そんな中、六波羅勢の先陣が向日神社を前を通過するや否や、木陰や岩陰に潜んでいた赤松勢が、一気に矢を射かけました。
警戒していたとは言え、こういう場合、仕掛けられた側が完全に不利・・・なんせ、馬が言う事聞かなくなりますから・・・しかも、その周辺は、いたって細くて険しい道・・・(てか、それを狙って、そこに潜んでますからね)
「こんな野伏らにかもてる場合や無いゾ!」
「こんなん無視して、さっさと山崎に抜けろ!」
六波羅勢は、とにかく、南に向ってひた走ります。
しかし、打って出た先にも新手の兵・・・しかも、六波羅勢は、「相手の赤松勢は少数」と侮っていたため、またたく間に四方を囲まれそうになってしまいます。
やむなく退く六波羅勢・・・それを追撃する野伏・・・
さすがに、1人前の武将が野伏に追われる姿を恥ずかしく思い、六波羅勢は、一旦、引き返しますが、もはや、一度崩れた態勢を戻す事は不可能・・・やむなく、京へと撤退します。
この合戦・・・上記の通り、結果は、赤松軍のちょっとした勝利という事になるわけですが、それ以上に、六波羅に打撃を与えました。
それは・・・
この戦いで討死をした兵の数は、負けた六波羅側でも、さほど多くは無かったのですが、久我縄手というぬかるみでの戦いであった事、向日神社の麓という細く険しい道での戦いであった事から、堀や溝に落ちたり、沼に足を取られたりして、馬具や甲冑や武器などを、そのまま、打ち捨てて帰って来た武将が多数いて、その不細工な格好のまま、白昼の京都市内へ逃げ帰って来た姿が多くの京都市民に目撃される事になり、どエラい恥をかいてしまったのだとか・・・
もちろん、勝利した則村の名声は、逆に高まる事となります。
が、しかし・・・ご存じの通り、一連の戦いは、まだまだ終わりません。
続きのお話は、また、「その日」の日づけにて・・・【足利尊氏と南北朝の年表】もどうぞ>>
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コメント
「…どエラい恥をかいてしまったのだとか・・・」
こんな事、教科書にも無いし、学校の授業でも言わないよなあ~
こんなことを 「すら~」と言えるような先生が居れば、もう少し、歴史に興味を持つ子も増えるだろうに・・・
投稿: 夏原の爺い | 2013年3月16日 (土) 13時25分
夏原の爺いさん、こんにちは~
『太平記』では、
「馬物具皆取所もなく膩たれば、白昼に京中を打通るに、見物しける人毎に、『哀れ、さりとも陶山・河野を被向たらば、是程にきたなき負はせじ物を』と笑はぬ人もなかりけり」
となってますが、『太平記』自体が、軍記物・歴史文学なので、細かな描写の部分は、歴史で学ぶ事でも無いでしょうね。
ただ、こういう、逸話的な話を織り交ぜていただくと、「歴史ってオモシロイ」と感じてくれく生徒さんも多くなるでしょうが…
投稿: 茶々 | 2013年3月16日 (土) 15時29分