鎌倉幕府・討幕!…赤松則村の三月十二日合戦
元弘三年(1333年)3月12日、討幕方の赤松則村と、鎌倉幕府の六波羅探題がぶつかった三月十二日合戦がありました。
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元弘元年(1331年)、楠木正成(くすのきまさしげ)との運命の出会い(8月27日参照>>)を果たして笠置山にて討幕ののろしを挙げ、元弘の変を勃発させた後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、あえなく敗退(9月28日参照>>)・・・
息子の護良(もりよし・もりなが)親王は行方不明になり、赤坂城で頑張っていた正成も、自ら城に火をかけて討死し(10月21日参照>>)、 捕えられた後醍醐天皇も隠岐に流罪となりました(3月7日参照>>)。
しかし、その後、行方をくらまして奈良や和歌山を転々としていた護良親王が、各地の半幕府勢力をまとめる事に成功して吉野山に立て籠り、元弘三年(1333年)1月には天王寺の戦いで六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)に勝利・・・(2月1日参照>>)、死んだと思われていた正成も、再び千早城にて奮戦します(2月5日参照>>)。
これに触発されて動きだす、各地の武将たち・・・
彼らの手引きに寄り、閏2月の下旬には、後醍醐天皇が隠岐から脱出して伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に籠った(2月24日参照>>)事を受けて、元幕府執権・北条高時(ほうじょうたかとき)は、その討伐軍として足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)らを畿内へと派遣します。
そんな中、討幕派の一翼を担う赤松則村(あかまつのりむら・円心)が播磨(はりま=兵庫県南西部)にて挙兵・・・
山陰・山陽の道を封鎖して、六波羅探題の要請で上京しようとしていた周防(すおう=山口県)や安芸(あき=広島県)の幕府勢力を通せんぼ・・・さらに、兵庫の北に摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を構築して、京に迫ります。
さらに六波羅探題には、四国の諸将の中でも天皇側につく者が結託して、「上京の兆しあり」との一報も入って来ます。
慌てに慌てる六波羅探題・・・しかし、そこは落ち着いて、「まずは、目の前の敵を潰さなければ」とばかりに、佐々木時信(ささきときのぶ=六角時信)らに在京の兵をつけ、さらに、そこに三井寺の僧兵を加えた5000余騎で以って、摩耶城を囲み攻撃を開始します。
これを見た則村は、わざと敵兵を険しい山道に誘いこみ、見事勝利・・・これを聞いた六波羅探題が、さらに1万騎の兵を送り込んで増強しますが、これもまた智略で以って勝利し、その勢いのまま、追撃を開始して、もはや、そのまま上京する勢いです。
元弘三年(1333年)3月12日、「もはや摩耶城の落城も時間の問題」と構えていた六波羅探題に「赤松軍迫る」の一報が届き、六波羅だけでなく、都中が大騒ぎになる中、慌てて六波羅探題は新たに在京の将兵を召集し、防戦体制にはいりました。
かくして、桂川を挟んで睨みあう両者・・・
とは言え、則村ら赤松軍が桂川の西岸から見る限り、敵の数はなかなかに多い・・・すぐに攻め立てるわけに行かず、しばらくは、お互いに矢を射かけながらの矢戦とあいなりますが、これでは、いつまでたっても、らちがあきません。
なんせ、もはや午後4時を過ぎ・・・グズグズしていたら、このまま夜を迎える事に・・・
血気にはやる則村の息子=則祐(そくゆう・のりすけ)は、
「このままではアカン!馬で川を渡りましょ!」
と提案しますが、
父・則村は
「無謀すぎる!」
と却下・・・ここでの渡河がいかに危険かを説いてみせますが、
「お父ちゃん、兵の数見てみぃな!
どう考えたって、俺ら不利やんけ。。。
こんだけの大差があったら、敵にこっちの数を見透かされんうちに奇襲をかけて、敵陣を乱すしか、方法は無い!
俺は行くで!」
と言うがはやいか、則祐は馬に鞭を当てて、即座に、川の早瀬へと入り、波を逆立てながら前へ進みます。
これを見ていた飽間光泰(あくまみつやす・あきまみつやす=斎藤光泰とも)ら5騎が後へと続き、やがて対岸へとたどりつきました。
これに驚いたのが六波羅探題勢・・・
父=則村が「無謀」と言った作戦が、逆に、ヤル気満々の勇猛な姿に見え、六波羅方の兵が怖気づいて、戦意を喪失してしまったのです。
それを見て取った則村・・・
「先駆けの勇者を見殺しにするな~!」
と、声を挙げれば、この光景に高揚も頂点に達した赤松軍が、一斉に、怒涛のごとく川を渡りはじめ、一気に攻めかかります。
もはや六波羅方は総崩れとなって、戦う前に槍を捨て、旗を捨て、逃げる者が続出・・・こうして桂川を渡った赤松軍は、京都市中へなだれ込み、あたりは一帯は火の海と化します。
「このままでは御所も危険!」
となり、時の光厳(こうごん)天皇は、三種の神器を手にとって、わずか20人ほどの公卿を伴って御所を脱出し、六波羅へと身を寄せました。
これに続いて、後伏見院や花園法皇らが、皇太子や奥さんを引き連れて、皆で六波羅へ・・・にわかに騒がしくなる六波羅探題ですが、ここは一つ、落ちついて赤松軍に対処しなければ・・・
さすがに、その頃には、赤松軍の兵の数が、大して多く無い事に六波羅も気づいております。
ここで態勢を立て直し、七条河原にて赤松勢を迎え撃つ作戦の六波羅・・・
この戦いで活躍したのが河野九郎(こうのくろう)と陶山次郎(すやまじろう)・・・彼らのすばらしい活躍に、さすがの赤松軍も、ここまで・・・
則村らは、散り散りになって退却し、なんとか、六波羅探題は京都を死守しました。
さらに追撃をかけようとする河野らでしたが、「深追い無用」との命が出て、合戦は終了・・・
二人には、喜んだ光厳天皇から、臨時の恩賞が授けられたと言いますが、一方では「大将を討ち捕ったり!!」の報告に、喜んで確認しているうち、陣所には、赤松則村の首が5つも並ぶという珍事も・・・
もちろん、ご存じのように則村は、まだ死んでませんから、その5つの首はすべてニセモノという事・・・何とか死守したとは言え、六波羅探題側も、なかなかの混乱ぶりであった事がうかがえます。
・・・が、ご存じのように、六波羅探題&鎌倉幕府は、この後、さらにトンデモなく混乱する事になるのですが、今日の戦いに続いて行われる山崎合戦については、3月15日の【鎌倉討幕~赤松則村の山崎合戦】のページでどうぞ>>
さらに一連の流れについては【足利尊氏と南北朝の年表】で>>・・・
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