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2013年3月12日 (火)

鎌倉幕府・討幕!…赤松則村の三月十二日合戦

 

元弘三年(1333年)3月12日、討幕方の赤松則村と、鎌倉幕府の六波羅探題がぶつかった三月十二日合戦がありました。

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元弘元年(1331年)、楠木正成(くすのきまさしげ)との運命の出会い(8月27日参照>>)を果たして笠置山にて討幕ののろしを挙げ元弘の変を勃発させた後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、あえなく敗退(9月28日参照>>)・・・

息子の護良(もりよし・もりなが)親王は行方不明になり、赤坂城で頑張っていた正成も、自ら城に火をかけて討死し(10月21日参照>>)、 捕えられた後醍醐天皇も隠岐に流罪となりました(3月7日参照>>)

しかし、その後、行方をくらまして奈良や和歌山を転々としていた護良親王が、各地の半幕府勢力をまとめる事に成功して吉野山に立て籠り、元弘三年(1333年)1月には天王寺の戦い六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)に勝利・・・(2月1日参照>>)、死んだと思われていた正成も、再び千早城にて奮戦します(2月5日参照>>)

これに触発されて動きだす、各地の武将たち・・・

彼らの手引きに寄り、閏2月の下旬には、後醍醐天皇が隠岐から脱出して伯耆(ほうき・鳥取県中部)船上山(せんじょうざん)に籠った(2月24日参照>>)事を受けて、元幕府執権・北条高時(ほうじょうたかとき)は、その討伐軍として足利高氏(あしかがたかうじ=後の尊氏)らを畿内へと派遣します。

Akamatunorimura600 そんな中、討幕派の一翼を担う赤松則村(あかまつのりむら・円心)播磨(はりま=兵庫県南西部)にて挙兵・・・

山陰・山陽の道を封鎖して、六波羅探題の要請で上京しようとしていた周防(すおう=山口県)安芸(あき=広島県)幕府勢力を通せんぼ・・・さらに、兵庫の北に摩耶城(まやじょう=神戸市灘区)を構築して、京に迫ります。

さらに六波羅探題には、四国の諸将の中でも天皇側につく者が結託して、「上京の兆しあり」との一報も入って来ます。

慌てに慌てる六波羅探題・・・しかし、そこは落ち着いて、「まずは、目の前の敵を潰さなければ」とばかりに、佐々木時信(ささきときのぶ=六角時信)らに在京の兵をつけ、さらに、そこに三井寺の僧兵を加えた5000余騎で以って、摩耶城を囲み攻撃を開始します。

これを見た則村は、わざと敵兵を険しい山道に誘いこみ、見事勝利・・・これを聞いた六波羅探題が、さらに1万騎の兵を送り込んで増強しますが、これもまた智略で以って勝利し、その勢いのまま、追撃を開始して、もはや、そのまま上京する勢いです。

元弘三年(1333年)3月12日、「もはや摩耶城の落城も時間の問題」と構えていた六波羅探題に「赤松軍迫る」の一報が届き、六波羅だけでなく、都中が大騒ぎになる中、慌てて六波羅探題は新たに在京の将兵を召集し、防戦体制にはいりました。

かくして、桂川を挟んで睨みあう両者・・・

とは言え、則村ら赤松軍が桂川の西岸から見る限り、敵の数はなかなかに多い・・・すぐに攻め立てるわけに行かず、しばらくは、お互いに矢を射かけながらの矢戦とあいなりますが、これでは、いつまでたっても、らちがあきません。

なんせ、もはや午後4時を過ぎ・・・グズグズしていたら、このまま夜を迎える事に・・・

血気にはやる則村の息子=則祐(そくゆう・のりすけ)は、
「このままではアカン!馬で川を渡りましょ!」
と提案しますが、

父・則村は
「無謀すぎる!」
と却下・・・ここでの渡河がいかに危険かを説いてみせますが、

「お父ちゃん、兵の数見てみぃな!
どう考えたって、俺ら不利やんけ。。。
こんだけの大差があったら、敵にこっちの数を見透かされんうちに奇襲をかけて、敵陣を乱すしか、方法は無い!
俺は行くで!」

と言うがはやいか、則祐は馬に鞭を当てて、即座に、川の早瀬へと入り、波を逆立てながら前へ進みます。

これを見ていた飽間光泰(あくまみつやす・あきまみつやす=斎藤光泰とも)5騎が後へと続き、やがて対岸へとたどりつきました。

これに驚いたのが六波羅探題勢・・・

父=則村が「無謀」と言った作戦が、逆に、ヤル気満々の勇猛な姿に見え、六波羅方の兵が怖気づいて、戦意を喪失してしまったのです。

それを見て取った則村・・・
「先駆けの勇者を見殺しにするな~!」
と、声を挙げれば、この光景に高揚も頂点に達した赤松軍が、一斉に、怒涛のごとく川を渡りはじめ、一気に攻めかかります。

もはや六波羅方は総崩れとなって、戦う前に槍を捨て、旗を捨て、逃げる者が続出・・・こうして桂川を渡った赤松軍は、京都市中へなだれ込み、あたりは一帯は火の海と化します。

「このままでは御所も危険!」
となり、時の光厳(こうごん)天皇は、三種の神器を手にとって、わずか20人ほどの公卿を伴って御所を脱出し、六波羅へと身を寄せました。

これに続いて、後伏見院花園法皇らが、皇太子や奥さんを引き連れて、皆で六波羅へ・・・にわかに騒がしくなる六波羅探題ですが、ここは一つ、落ちついて赤松軍に対処しなければ・・・

さすがに、その頃には、赤松軍の兵の数が、大して多く無い事に六波羅も気づいております。

ここで態勢を立て直し、七条河原にて赤松勢を迎え撃つ作戦の六波羅・・・

この戦いで活躍したのが河野九郎(こうのくろう)陶山次郎(すやまじろう)・・・彼らのすばらしい活躍に、さすがの赤松軍も、ここまで・・・

則村らは、散り散りになって退却し、なんとか、六波羅探題は京都を死守しました。

さらに追撃をかけようとする河野らでしたが、「深追い無用」との命が出て、合戦は終了・・・

二人には、喜んだ光厳天皇から、臨時の恩賞が授けられたと言いますが、一方では「大将を討ち捕ったり!!」の報告に、喜んで確認しているうち、陣所には、赤松則村の首が5つも並ぶという珍事も・・・

もちろん、ご存じのように則村は、まだ死んでませんから、その5つの首はすべてニセモノという事・・・何とか死守したとは言え、六波羅探題側も、なかなかの混乱ぶりであった事がうかがえます。

・・・が、ご存じのように、六波羅探題&鎌倉幕府は、この後、さらにトンデモなく混乱する事になるのですが、今日の戦いに続いて行われる山崎合戦については、3月15日【鎌倉討幕~赤松則村の山崎合戦】のページでどうぞ>>

さらに一連の流れについては【足利尊氏と南北朝の年表】で>>・・・
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