穴山梅雪を寝返らせた大久保忠世
天正十年(1582年)3月1日、武田方の駿河江尻城主・穴山梅雪が徳川家康に降りました。
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穴山梅雪(あなやまばいせつ=信君)は、あの武田信玄(たけだしんげん)と同族で、梅雪の母が信玄の姉・南松院で、梅雪自身の奥さんも、信玄の娘・見性院(けんしょういん)というメチャメチャ濃い関係・・・
そのぶん武田家内でも重用され・・・てか、その信玄と嫡男・義信(よしのぶ)亡き後、一旦、諏訪家を継いでいた三男の勝頼(かつより)が武田家の采配を振る事に、むしろ、梅雪・見性院夫婦は、「我が子=勝千代が継いだほうがえぇんちゃうん?」と思っていた可能性も大なわけで・・・
・・・で、梅雪は、あの長篠の戦いの時、鳶ヶ巣山砦が陥落したと見るや本格的な戦いを開始する前に、いち早く撤退し、江尻城へと戻ってしまい(5月21日参照>>)、
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結局、その長篠の敗戦から7年後の天正十年(1582年)3月1日・・・穴山&河内の旧領の安堵とともに、勝頼亡き後は、梅雪の息子・勝千代が武田家宗家を継ぐことを条件に、梅雪は、徳川方に降ったのです。
と、ここらあたりの背景と流れ&その後については、実は、昨年のこの日に書かせていただいているので、くわしくは2012年3月1日のページを参照>>していただくとして、本日は、『老士記録』にある、その時の逸話をご紹介させていただきます。
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上記の通り、長篠の戦いで、攻撃が始まる前に勝手に戦線離脱してしまった事は、やはり、戦後に問題となり、家臣の中には「切腹させるべき!」なんて意見も出たわけですが、それこそ、なんだかんだで、夢雪は親族の中でも筆頭だったわけで、何とか切腹は免れます。
しかし、当然の事ながら、勝頼だって、梅雪を、丸々信頼しているわけではありませんでしたから、彼が裏切らないように、妻子を人質にとって、厳しく監視したのです。
ちょうどその頃・・・
梅雪に声をかけて来たのが、徳川家康の家臣・大久保忠世(ただよ)・・・密かに梅雪に密書を送ります。
「もう、近々、勝頼は滅亡しまっせ…こっち、おいなはれ~」
と・・・
早速、梅雪は、
「その気は、充分ありますねんけど…」
と、寝返る気満々の返事を出しますが、気がかりなのは、人質にとられている妻子・・・
かなり厳重な監視下にあり、現段階では、とてもじゃないが、救いだせる状況では無かったのです。
そこで忠世・・・
「ほな、ウチの者の中で、死刑になる予定の人間を、『任務を遂行したら罪を許したる』てな事言うて、手紙を持たしてソチラに向かわせまっさかい、ソイツの首を取って手柄にしなはれ」
と・・・
かくして、梅雪のもとへやって来た使者・・・
梅雪は忠世の進言通りに、その首を取って、持参した手紙を添えて勝頼に検分させます。
手紙の内容は、それこそ、これまで同様の「寝返りを促すもの」で、忠世の名もしっかりと入っています。
つまり、
「徳川家の大物から寝返りのお誘いを受けましたが、僕は、こうして、キッパリ断わりましたんやで!」
って事です。
明らかに本物の手紙と使者の首・・・これで、勝頼はすっかり梅雪の事を信用するようになり、妻子の監視が少し和らいだ・・・
その隙をみて、妻子を奪い返す事に成功した梅雪・・・
その後は、すでに昨年書かせていただいた通り・・・この2日後の3月3日には甲斐(かい=山梨県)に侵入する家康の先導役をかって出る事になります。
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