鎌倉幕府、初の皇族将軍…宗尊親王
建長四年(1252年)4月1日、後嵯峨天皇の第1皇子である宗尊親王が、鎌倉幕府の第6代将軍に就任・・・初の皇族将軍の誕生です。
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「初の皇族将軍の誕生」と聞けば、何やら、鳴り物入りで意気揚々と、希望に満ち溢れた雰囲気がしますが、残念ながら、今回将軍となられた宗尊(むねたか)親王・・・自らの預かり知らぬところで、その人生を翻弄されるお方です。
そもそも、父の第88代後嵯峨(ごさが)天皇からしてややこしい・・・
話は、かなり戻りますが・・・
そのおおもとは、そう、あの源平の合戦の際、都を落ちる平家は、第80代高倉(たかくら)天皇と、平清盛(たいらのきよもり)の娘=徳子(とくこ)の間に生まれた第81代安徳(あんとく)天皇を奉じて西海へと落ちました(7月25日参照>>)。
そのため、天皇不在となった都では、高倉天皇の第4皇子で、平家と行動をともにしていなかった尊成(たかひら)親王を第82代天皇とします・・・この方が後鳥羽(ごとば)天皇・・・
で、ご存じのように、源平の合戦に勝利した源頼朝(みなもとのよりとも)は、その後鳥羽天皇のもと、初代の征夷大将軍となって鎌倉幕府を開く(7月12日参照>>)わけですが、この頼朝の直系の将軍が、第2代の頼家(よりいえ)(7月18日参照>>)、第3代の実朝(さねとも)(1月27日参照>>)と、わずか3代で絶えてしまいます。
そのため、事実上幕府の実権を握る頼朝の嫁=政子と、その弟で第2代執権の北条義時(よしとき)は、頼朝の妹=坊門姫(ぼうもんひめ)の曾孫にあたる九条家の藤原頼経(よりつね)を、亡き頼家の娘=竹御所(たけのごしょ)と結婚させて、第4代将軍として迎えたのです。
ところが、このゴタゴタをチャンスとみた後鳥羽天皇が、討幕を計画・・・これが承久の乱ですが、ご存じのように天皇側が敗れ、逆に、幕府の勢力が拡大する結果となってしまいます(6月14日参照>>)。
首謀者の後鳥羽天皇はもちろん、乱に関与した後鳥羽天皇の皇子・第83代順徳(じゅんとく)天皇、第84代土御門(つちみかど)天皇は流罪に・・・順徳天皇の皇子で、当時わずか4歳だった第85代仲恭(ちゅうきょう)天皇まで廃帝となります(4月20日参照>>)。
当然ですが、乱に関与した天皇の血筋を、次の天皇にしたくない幕府は、やむなく、あの源平合戦の時に、安徳天皇とともに西海へ落ちたものの、母が徳子ではない高倉天皇の第3皇子であった守貞(もりさだ)親王の息子=茂仁(ゆたひと)親王を、第86代後堀河(ごほりかわ)天皇として即位させたのです。
さらに、皇位は、後堀河天皇の皇子=第87代四条天皇へと譲られますが、この四条天皇が、わずか12歳で後継ぎもいないまま亡くなってしまったために・・・さぁ、幕府は困った・・・
仕方なく幕府は、承久の乱には参加したけれど、最も消極的だった土御門天皇(10月11日参照>>)の第3皇子を天皇とする事に・・・これが、後嵯峨天皇なのです。
一方、幕府将軍のほうは・・・
上記の通り、将軍自身は、完全にお飾りの傀儡(かいらい=あやつり人形)だったわけですが、やはり、どうしても、その近親者の権威は強くなるわけで・・・いつしか、将軍・頼経の父である九条道家(みちいえ=藤原道家)が朝廷内で実権を握るようになります。
北条氏としては、この九条家が強くなり過ぎても困るわけですが、そうこうしているうちに将軍・頼経と時の第4代執権=北条経時(つねとき)との関係が悪化・・・あるいは、その関係を見計らった頼経自身の意志により、寛元二年(1244年)、将軍職は嫡男の頼嗣(よりつぐ)に譲られます。
しかし、その頼嗣も、建長三年(1251年)に起こった謀反未遂事件に父の頼経が関与していたとして将軍職を追われ、建長四年(1252年)4月1日、代わって第6代将軍に就任したのが、後嵯峨天皇の第1皇子である宗尊親王というわけです。
実は、この宗尊親王・・・後嵯峨天皇の第一子ではありますが、後嵯峨天皇は、この同じ年に西園寺姞子(さいおんじきつし)を中宮に迎えていて、まもなく、その姞子との間にも男子(後の第89代後深草天皇)が誕生・・・
つまり、母の身分が低いため、長男と言えど、おそらく宗尊親王が皇位を継ぐ事はないわけで・・・
その事を、かねがね不憫に思っていた後嵯峨天皇と、例の九条家の力を、これ以上大きくしたくない北条氏の利害関係が一致して、ここに、初の皇族将軍の誕生とあいなったわけです。
しかし、それはイコール・・・「宗尊親王が将軍として何かをするという事が無い」という事を意味しています。
政治に関与する事のない、まったくのお飾り・・・歌が大好きだった宗尊親王は、折に触れて何度も歌会を催し、鎌倉歌壇でかなりの影響を持つ歌の名手とされたようですが、趣味の世界に生きるしか道が無いというのも、ツライ物があるかも知れません。
しかも、結局、25歳となった文永三年(1266年)6月、些細な事から謀叛の疑いをかけられ、後に第8代執権となる北条時宗(ときむね)らによって将軍職を解任され、京の都へと送還されるのです。
この時、この人事に強く反対した名越流北条氏(なごえりゅうほうじょうし=北条義時の次男・北条朝時の流れ)は、後に、謀反を企てたとして文永九年(1272年)の二月騒動で幕府から排除されますので、おそらくは、名越流を排除したい時宗ら得宗家(とくそうけ=義時の嫡流)が、まずは名越流と仲の良い宗尊親王を排除したという事なのでしょう。
結局は、周囲の思惑によって祭り上げられ、周囲の思惑によって終止符を打たされた宗尊親王の将軍生活・・・
♪いにしへを 昨日の夢と おどろけば
うつつの外に けふも暮れぬる ♪
「昔の事は、昨日の夢みたいやな~って思うんやけど、夢から覚めても現実味の無いまま、一日が終わってしまう」
これは、宗尊親王が将軍職を廃されて、京の都に戻ってから詠まれた歌だそうですが、なんとも物悲しい・・・お気の毒な気がします。
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コメント
茶々様
何か「ごちゃごちゃ」していますね。
武家政権が「皇位継承」に口を挟むのは,これが日本史上初めてでしょうか?
…とは言っても,清盛も口を出しているというか,自分の孫に皇位継承させていますしね。
鎌倉時代の皇位継承については,後になって「両統迭立」という用語がありますが,この宗尊親王がその先例になるのでしょうかねえ。
それにしても北条得宗家は,すごいと言うかなんと言っていいのでしょうか。酷い…しかし,権力闘争というのはこんなもんなんでしょうね。
「組織」のトップに立つ人間が,いわゆる“象徴”というか,“お飾り”というか,“操りやすい人物”こういう形が日本人には,合っているのでしょうか。
これによって,組織としても(日本史としても)成功しているときもあるし,大失敗しているときもある。
私の職場はトップはどちらかというと“象徴”です。実権はナンバー2が握っている感じ…。トップは「いざ“鎌倉”」という時に,責任を取るためにいるはずなんだけど…実際には…。責任は,うまくあやふやにされる。
でも,ずいぶん前に,実権を伴ったトップが就任し,へんてこりんなリーダーシップを発揮した時には,たいへんでした。大変大変…口出さないで黙っていてよ~という感じ…!。
そう言えば,選挙で選ばれる議員さんも,御神輿であって,神棚に飾られている…これはちょっと,日本では進歩したかな!?
しまった。いつもどおり,話がずれてしまいました。
投稿: 鹿児島のタク | 2013年4月 2日 (火) 20時14分
鹿児島のタクさん、こんばんは~
そうですね~
>「組織」のトップに立つ人間が“象徴”というか…
確かに、日本人に合ってるのかも知れませんが、意外に、これがウマく行く場合も多いんですけどね。
孫子でも、
「王が信頼のおける人物を将軍に任命した後は、その将軍のする事に口出ししない」というのが鉄則となってますが、
かと言って、そうそうウマく行かないのも世の中です。
投稿: 茶々 | 2013年4月 3日 (水) 03時13分
先日、鎌倉の妙本寺に行ってきました。
比企氏の館跡に日蓮宗の寺になりました。
比企一族と藤原頼経の妻、竹御所(源よし子)のお墓があります。
頼経13歳、竹御所28歳で結婚。竹御所は32歳で難産で死去。
投稿: やぶひび | 2013年4月10日 (水) 21時10分
やぶひびさん、こんばんは~
鎌倉に行って来られたのですか?
私は関西ばかりウロウロしてますので、鎌倉には1度…それも、ほぼ素通り状態だったので(*´v゚*)ゞ
1度、ちゃんと行ってみたいデス
投稿: 茶々 | 2013年4月11日 (木) 02時28分